お願いにも程がある
「お願いがございます」
私、レストニア王国皇太子アンドルーの婚約者である、公爵令嬢リリアンヌ=ギュスターブが、テーブルの向こうで姿勢を正し、突然切り出した。
彼女と出会って十年近くになるが、私に対して願い事をするなど珍しいことだ。
さすがにどんな些細なことも、とは言わないが、今回のように居住まいを正して、というのは記憶にない。
何のお願いだろうか?
大抵のことは自身で解決できるはずのリリアンヌが、皇太子の私に願い事、というのであれば、それなりの難題だろう。私の手に余る願い事でなければ良いのだが。
「言ってごらん。私にできることなら可能な限り手を尽くそう」
「アンドルー様にできること、というか、アンドルー様にしかできないことなのです」
私にしかできないこと?一体どんな願いだというのだろう。
考えながら、紅茶に満たされたカップを持ち上げ、口元に寄せる。
「私との、婚約を解消して欲しいのです。」
は?
「よく、意味が、分からなかったが?」
普段通りに答えたつもりだったが、多少上ずってしまったかもしれない。
いきなり何を言い出すんだリリアンヌは。
彼女からの滅多にないお願いなので、多少の無理難題には応えるつもりだったが、さすがにその願いは突飛に過ぎる。というか、その願いを私に叶えろと?
「ですから、私との婚約を解消して欲しいのです」
二度言わなくて良いから。
「…理由を、聞かせて貰いたいのだが」
動揺を見せぬよう、紅茶を口にする。春摘みの茶葉は、先程まで爽やかさとわずかな苦みを含ませ、高い香気を発していた筈だが、今は味も匂いも全くしない。もし、この茶に毒を盛られていたとしても今なら気付かないだろう。
…大丈夫だよね?
「何か、私が君の気に障るようなことでもしたのだろうか?」
正直、思い当たるようなことは何もない。
「いいえ」
「では、私のことが嫌いになった?」
「いいえ!」
リリアンヌはぶんぶんと首を振る。
変な所で子供みたいな所作を見せて、可愛いなあ。…ああいや、それどころではない。
「私は…、私たちの関係は、とても良好だと思っていたから、
君が、その言葉を口にする理由に心当たりがない」
「はい…」
リリアンヌはしょんぼりと項垂れる。
「しかし、私は酷い勘違いをしていたのだろうか。
私は、君の心の内も計れないようなほど、鈍い男だったのだろうか」
「いえ!そんなことはございません!アンドルー様の御心が鈍いなどということは、決して!」
しょんぼりから一転、テーブルを飛び越えんばかりの勢いでリリアンヌが反論する。
本当に表情の目まぐるしい子だ。昔から。
「では、私のことが嫌になった訳ではないのかい?」
「はい!それはもちろん、というか大好きです!!」
いや、そうまではっきり言われるとこちらも照れてしまうのだが。
こういう真っ直ぐな性格も好ましい、というか私も大好きだ。口にはしないが。
…となればいよいよ理由が分からない。何故、婚約を解消したいのか。
外的な要因についても考慮してみたが、王家と公爵家の婚約に口を差し挟めるものはそうはいない。まして、この婚約は父と公爵がノリノリで決めたものだ。これに異を唱えれば二人の不興を盛大に被る。
元々、王国内部や周辺の国々に、二人に対抗できるような潜在的な敵対勢力は存在しないか、いてもほとんど力を持たないので、外部から彼女に対して何かの圧力が掛かる、というのは考えにくい。そもそも、彼女の実家が誰かに圧力を掛けられて黙っているはずがない。公爵家からの辞退という線もなしだ。
考えていても仕方がない。素直に、彼女に聞くことにする。
「では、何故、婚約の解消を?」
努めて柔らかく、かつ冷静な態度を取りつつ彼女の反応を待つ。
リリアンヌは何かを迷っている。即断即決で物事を進める性格の彼女にしては、これもまた珍しいことだ。
顔を上げ、口元まで出掛った言葉を飲み込んではまた伏せる。それが数度繰り返され、自身の感情を、どう伝えていいものか思いあぐねているように見えた。それほどに訳ありな事情なのだろうか。
やや間をおいて、ようやくリリアンヌが口を開く。
「…正直に申しまして、疲れ果ててしまったのです」
顔を伏せ、吐き出すように言葉を紡ぐ彼女の表情は、今までに見たことのないものだった。
「…私が、私であり続けることに」