第36話 走れ、陽だまりパン!
陽だまりパンの香りを胸いっぱいに吸い込み、私は貴族街の石畳を走る。
高い塀に囲まれた館々。
整然と並ぶ街路樹。
上品な風が通り抜けていく。
(ここで……数字を掴むんだ)
まず向かったのは、雨の日に声をかけてくれたお屋敷。
昼休憩で出入りする使用人たちの姿がある。
「こんにちは。麦猫堂の陽だまりパン、できたてです」
震えそうな声を押しとどめ、笑顔を作る。
「あ、あの時の……」
「これが噂の……!」
視線が籠に集まる。
一口齧った瞬間、表情が変わった。
「柔らかい……あの味だ!」
手が次々伸び、
籠の底が見え始める。
(いける……!)
◇ ◇ ◇
「ありがとうございました!」
二十個が一気に減った。
(あと三十……!)
だが全てが順調ではない。
「路上販売など、みっともない」
門の向こうで冷たい言葉。
使用人すら応じてくれない屋敷もある。
(元侯爵令嬢でも、関係ないんだ)
胸の奥が痛む。
でも、下を向かない。
(数字を動かすために、私はここにいる)
◇ ◇ ◇
貴族街から離れ、私は城下の広場へ向かった。
昼時の広場は、人で賑やかだ。
「陽だまりパン、焼きたてです!」
働く人々の視線が集まる。
(いける……!)
その時。
「エリ嬢ちゃん!」
「ベンさん!」
警備小屋から元兵士の老人が手を振っていた。
「頑張っとるなあ。そのパン、買わせてくれ」
「はい! どうぞ!」
「おいお前ら、腹減ってんだろ!」
兵士仲間が笑いながら集まってくる。
勢いよく売れていく。
(ありがとう、ベンさん……!)
◇ ◇ ◇
(残り……あと数個!)
息が荒くなる。
あと少し――
「エリ」
振り返ると、セシル。
「私も広場北側で三十ほど売りました」
「えっ、三十!?」
「初日分の目標は、ほぼ達成です」
「すごいよ、セシル!」
「いえ」
セシルは籠を押し戻す。
「エリが売った数字こそ、エリの力です」
「……うん。最後まで、走るよ」
◇ ◇ ◇
(私、変われる)
拳はもう震えていなかった。
本日の収支記録
項目内容金額
収入陽だまりパン販売 +55
収入通常営業取り分(出張集中のため少減)+5
合計+60
借金残高23,309 → 23,249リラ
セシルの一口メモ
数字は、エリの努力そのもの。
胸を張りましょう。




