第26話 雨の客と、濡れた影
朝から強い雨が降っていた。
石畳に水が叩きつけられ、灰色の空気が街を静かに沈ませている。
「気をつけて歩きなよ、エリ」
ハンナが肩越しに声をかける。
「雨の日は本当に滑るんだからね」
「はい。今日はお客さん、少なそうですね」
「そりゃあねえ。雨の日にわざわざ来る人は……」
そう言いかけた時、店の扉がゆっくりと開いた。
「失礼するよ」
入ってきたのは、向かいの警備小屋にいるベン老人だった。
濡れた外套を軽く払いながら、温かい目でこちらを見ている。
「ベンさん!? こんな雨の中……!」
「エリ嬢ちゃん。少しばかり、伝えたいことがあってね」
いつもの軽い挨拶ではなく、今日はきちんとした訪問のようだった。
「この前の雨の日は、本当に助かったよ。
缶に入れてくれたおかげで、家に着くまでパンは全く濡れなかった」
「あれは……その、当然のことをしただけで……!」
「当然なんてことはないよ」
ベンは柔らかく笑った。
「この歳になるとね、少しの親切が本当に沁みるんだ。
あのパンはうまかった。心にも腹にも、な」
胸の奥がじんと熱くなる。
「これは、その礼だよ」
ベンが差し出した包みを開くと、小さな木彫りの鳥の置物が入っていた。
羽を休めるように佇む、小さな幸福の彫像だ。
「わあ……すごく綺麗……!」
「儂の趣味でね。下手の横好きだが、良ければもらってくれ」
「もちろん、いただきます! 嬉しいです!」
ベンは頷き、声を少し落として続けた。
「それと……商人連合の方でも、あんたの噂を聞いたよ。
たいした娘さんだって、皆が言っておる」
「商人連合まで……!?」
私は思わず声を上げた。
商人連合といえば、王都の経済を握る大組合だ。
「善行というのはな、不思議と遠くまで届くもんだ。
儂は、あんたがここに来てくれてよかったと思っとるよ」
「……ありがとうございます。本当に」
ベンは陽だまりパンを二つ買い、深々と頭を下げて店を出た。
◇ ◇ ◇
「すごいよ、エリ」
ハンナが両手を腰に当てながら、呆れたように笑う。
「まさか商人連合まで噂が届くなんてねえ」
「そ、そんな……恐縮です……」
頬が熱くなる。
でも、嬉しくて仕方なかった。
「人はね、見てるもんなんだよ。良いことも、悪いことも。
あんたは胸張っていい働きしてるよ」
「ありがとうございます……!」
そんな時、店の扉が再び開いた。
「ただいま戻りました」
「セシル!」
私は思わず駆け寄った。
セシルの外套は雨でしっとり濡れ、髪も少し乱れている。
「また……呼び出されてたの?」
「はい。しかし、大事ではありません」
そうは言うものの、声はどこか掠れていた。
「セシル、休んで……本当に」
「お嬢様がそう仰るなら、考慮いたします」
その言葉の奥に、妙な空虚さがある。
(やっぱり……疲れてる。
昨日からずっと様子がおかしい)
◇ ◇ ◇
夕方。
雨脚は弱まったものの、空の色は重い灰色のままだった。
「エリ、今日はもう上がりな」
ハンナが優しく言う。
「はい。では……帰ります」
外に出ると、セシルがすぐに傘を差し出してくれた。
「お嬢様。送ります」
「……ありがとう」
二人で並んで歩く。
雨が石畳に落ちる音が、静かに響いていた。
「セシル」
「はい」
「辛いことがあるなら……言って。
私は……聞きたいよ」
短い沈黙。
雨音だけが、その隙間を満たす。
「私は……大丈夫です」
セシルは微笑んだ。
しかしその目に、一瞬だけ深い影が揺れた。
(大丈夫なんて……嘘だ)
胸の奥で小さな痛みが生まれた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目内容金額
収入日給(雨で客減・減額)+18
収入パン購入(ベン老人分・エリ取り分)+2
合計+20
借金残高23,642 → 23,622リラ
セシルの一口メモ
本日は特段問題ありません。
お嬢様の御心遣いに深く感謝いたします。




