第21話 忙しさの壁と、差し伸べられる手
翌朝の麦猫堂は、これまでにないほど慌ただしかった。
私が店に入るなり、ハンナが手を振る。
「エリ、来たね! ちょうどよかったよ!」
「何かあったんですか?」
「昨日のヒルダさん、お茶会で大好評だったそうでね。
別のお屋敷からも問い合わせが来てるよ」
「えっ……?」
胸がどきんと跳ねた。
「それでね、今日の昼過ぎまでに十個ほど追加で焼いてほしいんだ」
「じゅ、十個……!」
屋敷向けの陽だまりパンは、普通のものより少し手間がかかる。
柔らかさと形の整え方にコツが必要だからだ。
緊張で手が汗ばむ。
「無理なら言いな。断ることもできるよ」
「……いえ、やります。やらせてください」
私の言葉に、ハンナが満足げにうなずいた。
「じゃあ、生地は私が手伝う。仕上げはエリがやりな」
「はい!」
◇ ◇ ◇
それからしばらくは、生地と格闘する時間が続いた。
けれど、うまくいかない。
丸めたはずの生地がゆがむ。
焼き上がりの色がほんの少し浅い。
柔らかさも昨日ほどきれいに出ない。
「どうして……昨日は上手くできたのに……」
焦りが手元に出る。
私は額の汗を拭った。
「お嬢様」
背後から静かな声がした。
セシルが私の手元を一度だけ見て、言った。
「深呼吸を」
「でも……時間が……」
「焦りは何ひとつ良い結果を生みません」
短い言葉なのに、胸の奥にすっと落ちる。
私はゆっくりと息を吸い、長く吐いた。
「……よし。もう一回やる」
「はい。私は後ろで見ています」
「応援するって言ってよ!」
「見守ると言いました」
「もう! 見守らないで手伝ってよ!」
半ば叫びながらも、生地を手にする手はさっきより軽く感じた。
◇ ◇ ◇
何度もやり直していると、ハンナが笑いながら言った。
「エリ、最初の三つはダメだけど、今のは良いじゃないか」
「本当ですか!?」
「うん、いい感じだよ。
やっぱりあんた、飲み込みが早いね」
胸がじんわり温かくなる。
私にも、できることが増えている。
昨日までできなかったことが、今日は少しだけできるようになる。
そんな小さな成長が、嬉しかった。
◇ ◇ ◇
昼前。
無事十個の陽だまりパンが完成し、
依頼を受けた屋敷の従者が受け取りに来た。
「ありがとうございます。とても良い香りです。
お嬢様も喜ばれるでしょう」
その言葉に、思わず背筋が伸びる。
屋敷の従者が去ったあと、私は胸に手を当てた。
「……ふう。終わった……」
「お疲れさま、お嬢さん」
ハンナが肩をぽんと叩く。
「最初はどうなるかと思ったけど、よく乗り切ったね」
「はい……セシルが深呼吸しなさいって言ってくれたから……」
「お嬢様、私はただ事実を伝えただけです」
「その言い方がまた……!」
けれど、どこか誇らしくもあった。
私は今日、ひとつ大きな壁を越えた気がした。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録項目内容金額
収入通常営業の日給+25
収入屋敷からの追加依頼料(半割がエリ分)+20
合計+45
借金残高23,841 → 23,796リラ
セシルの一口メモ
焦りとは、心にかかる薄い霧のようなものです。
霧は深呼吸ひとつで晴れることもあります。




