3. 五つで一歩
天井が落ちたのは、隊列の百歩先だった。
埃の壁が白い道の光を呑み、押し寄せた風が頬を叩く。石灰みたいな苦い味が口に入り、耳の奥で圧がひとつ鳴る。音が引いたあとに残ったのは、道の先を塞ぐ瓦礫の山だ。
埃の幕の向こうで、俺の道はまだ光っている。路面は無事だ。上に積もったものが、どうにもならないだけで。
「支隊長。全員、道の上へ座らせてください。光の上にいる限り、獣は来ません」
「あんたは?」
「回り道を敷いてきます。……敷くのは、歩きの仕事なんです。走れないので、少しかかります」
副長を枠ごと、道のまん中に降ろす。俺の肩には先掛けの予備枠が残っている。水と道具で、十キロと少し――道の条件は、まだ俺の肩の上で生きている。裂傷の男が、押さえていますと目で言った。頼む、と目で返す。
俺は瓦礫の山の縁に沿って、未踏の岩場へ踏み出した。
一歩ごとに、足の下で新しい白が生まれる。敷設の先端に立つのは、いつも俺ひとりだ。先端は、世界の縁に似ている。一歩ごとに道は生まれ、生まれる前の一歩はいつも裸のままだ。道の縁のすぐ外、闇の中に、濡れたような目がいくつも並んで、こちらの匂いを測っている。乗ってはこない。乗れないからだ。それでも、爪と牙は道の外から届く距離を知っている。
岩を叩く。鳴きを聞く。低い音を選んで、一歩。風の湿りを読んで、一歩。手のひらに岩の冷たさが染みて、その冷たさだけが、いま信用できる情報のすべてになる。
途中、一枚岩の張り出しが嫌な高い音で鳴いた。剥がれる前の悲鳴だ。回り込むには、水の染みた際を通るしかない。濡れた岩は嫌いだ。だが、鳴く岩よりはましである。俺は歩幅を半分にして、水際に道を通した。白い光が濡れた岩の上に乗ると、滑りが止まる。俺の道のいいところは、敷いてしまえば、あとから来る全員が安全なところだ。俺自身の一歩目だけは、いつも保証の外だが。
闇の中の目が、三つ、五つ、と増えていく。数えるな、と自分に言う。あれは俺の荷じゃない。背中の向こう、遠くで負傷者の咳が聞こえる。音の距離で、隊列の無事を測る。咳が聞こえるうちは、大丈夫だ。
「岩永さん、あとどれくらいだ?」
支隊長の声が、瓦礫越しに飛んでくる。
「六百数えたら戻ります。数え損ねたら、七百で怒ってください」
軽口の形をしているが、中身は時計だ。声を返しながらも、耳は隊列の音を拾い続けている。咳。衣擦れ。歯の鳴る音――あれは副長だ。熱が上がっている。うわ言の間隔が、さっきから少しずつ詰まっている。
迂回の線を引き終えて、隊列のほうへ戻りかける。
その背中で、悲鳴が上がった。
「――おおい。おおい、こっちだ」
熱の副長が、道の上で立ち上がっていた。押さえていた裂傷の男の腕を、熱の力で振り解いている。うわ言の質が、いつの間にか変わっていたのだ。
『はこ、が。まだ! 誰か!』
そして今、迎えが来たと信じた方角へ――光の外の闇へ、男は歩き出す。
「駄目だ、そっちは道じゃない――」
副長は、走った。熱に浮かされた足とは思えない速さで、闇へ。
俺の頭が、勘定を二つ並べる。敷いて追えば、俺は安全だ。だが敷設は歩きの速さしか出ない。あの足には届かない。走れば届く。代わりに、俺の両足が道を外れた瞬間から――道は、古い端から解けていく。五つ数えるごとに、一歩ぶん。
古い端。つまり支道口の側。つまり、帰り道からだ。
「百数える間に戻る。……二十歩、くれてやる」
俺は道を蹴って、闇へ跳んだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ。数えは止めない。恐怖のためじゃない。これは値段の勘定だ――そう言い聞かせる胸の内の声が、少しだけ上ずっているのは、自分がいちばんよく知っている。道の光が背中で遠くなる。固定のない地面は一歩ごとに頼りなく、足の裏が心細さを正直に報告してくる。闇の中で転んだら、値段では済まない。
四十、五十。石に躓いた副長の背中が、闇の中で揺れた。俺はその襟首と背負い紐を、まとめて掴む。
「迎えなら、来てます。――俺です」
「……はこ、が」
「ええ。箱なら、届きました。あんたの隊は、全員生きてる」
六十、七十。抱え直して、白い光まで運ぶ。両足が道に乗った瞬間、世界の温度がひとつ戻った気がした。九十六。百のうちに帰ってきた。五つで一歩なら、十九歩と、解けかけの一歩。解けかけの一歩は、無い一歩と同じに数える。欠けは二十歩――切り上げるのが、荷揚げ屋の用心だ。それでも解けた分は、もう戻らない。この道が生きている限り、欠けた区間は二度と敷けない――俺の道は一筆書きだ。書き損じは、書き損じのまま連れて歩くしかない。
欠けた二十歩は、支道口の手前にある。帰りの隊列であそこを通るとき、俺たちは裸になる。頭の中の地図に、俺はその欠けを黒く塗った。塗りながら、後悔はしていない。二十歩と一人なら、いつだって一人のほうが重い。ただ、値段は値段として、きちんと覚えておくだけだ。
折れ足の男が、松葉杖のまま器用に身をかがめて、自分の上着を副長の膝に掛ける。
支隊長が、駆け寄って頭を下げた。
「すまん。俺が押さえているべきだった」
「熱のせいです。誰のせいでもありません。……歩きましょう。道の上で謝られると、止まりたくなるので」
先掛けで副長を背負い直す。男は俺の肩の上で、まだ熱の国にいた。
「……まだ、届いてない……まだ……」
うわ言が、耳のすぐ後ろで繰り返される。
届いてない。その一言は、俺の古い夜と同じ形をしている。十五年前、穴の口で夜明けまで待った夜と、同じ形を。
――今は、いい。
膝の震えを数えで畳んで、俺は隊列を出した。




