文車妖妃は本を捨てない(3)
翌日、俺たちは部室で待ち合わせをして、再び図書館へ向かった。
白井さんの霊に会った……とは言えない。
代わりに、本が閉館後から翌朝までの間に戻されているのなら、職員が関わっている可能性が高いのではないかと、二人には説明した。
それから、昨日受付にいた年配の女性職員へ、まず話を聞いてみたいと伝えた。
もちろん、本当の理由は別にある。
少なくとも、昨日見かけた職員の中で、白井さんが話していた年齢に当てはまるのは、受付にいたあの女性だけだった。
本を元の棚へ戻せる立場であることを考えても、まずは彼女へ話を聞くべきだろう。
女性職員は、返却カウンターの奥で本の整理をしていた。
俺たちが近づくと、昨日と同じように軽く会釈をする。
真壁部長が、穏やかな声で切り出した。
「少し、お伺いしたいことがあるのですが」
「はい」
「『降霊と交霊の民俗学』という、除籍済みの本についてです」
女性職員の手が止まった。
一瞬だけ、表情が強張る。
「この本は、処分用のワゴンへ移されるたびに、元の書架へ戻されていました」
真壁部長は責めるような言い方をしなかった。
「戻していたのは、あなたではありませんか?」
女性職員はしばらく黙っていた。
やがて俺たちを、図書館の奥にある応接用のスペースへ案内した。
「そうです。処分用のワゴンへ移されるたび、私が閉館後に元の棚へ戻していました」
女性職員は、観念したように小さく息を吐いた。
「誰にも気づかれないと思っていたのですが」
その口元に、困ったような笑みが浮かんだ。
俺たちはF-6の書架から『降霊と交霊の民俗学』を持ってきた。
本を応接スペースへ運ぶと、白井さんも静かについてきた。
女性職員の向かいに立ち、何かを確かめるようにその顔を見つめている。
「最初に見つけたのは、何年も前です。カバーが外れかけていたので直そうとした時、間に手紙が挟まっていることに気がついたんです」
話しながらも、所在なさげに胸元で両手を擦り合わせている。
「持ち主を特定できる手がかりがないかと思って、申し訳ないとは思いながら、最後まで読みました。本来なら、私物が挟まっていた時点で処分するか、遺失物として扱うべきだったのでしょうけれど……」
そこで一度、言葉を切る。
「どうしても、捨てることができませんでした」
「どうしてですか?」
水瀬副部長が尋ねる。
「今はもう、手紙を本に挟んでやり取りする人も少ないでしょう?」
女性職員は、少しだけ笑った。
「昔はこんなふうに手紙のやりとりをしたものです。直接渡すのではなく、靴箱に入れたり、本に挟んだりね」
テーブルに置かれた本へ目を落としながら、続けて言った。
「宛名はありませんでした。でも、これを書いた方が、いつか思い直して取りに戻るかもしれない。もしかしたら、受け取る方と、この本を手に取るように約束していたのかもしれない。そう思うと、本ごと処分することができませんでした」
図書館の資料を、個人の判断で元の棚へ戻す。
職員として、許されることではないと分かっていたのだろう。
「誰の邪魔にもならない場所なら、もう少しだけ残しておいてもいいんじゃないかと……そう思ってしまったんです」
「職員の方々が、本を戻したことに気づかなかったのは?」
「蔵書データからは削除されています。あの棚を直接確認しない限り、気づきません」
真壁部長は腕を組み、納得したように頷いた。
女性職員は本を手に取り、背表紙側のビニールカバーをそっと浮かせた。
「手紙は、これです」
便箋を取り出し、慎重に開いた。
「随分古い手紙のようですし、書いた方も、受け取るはずだった方も、今もご存命かどうかは分かりませんが……」
そう言ってしばらく読んでいたが、最後の行へ目を落としたところで、動きを止めた。
「これは……」
『長い間、ご苦労様でした。
「今度こそ届きますように」と声をかけてくださったこと、ずっと聞いていました。
あなたのおかげで、大切な言葉を受け取ることができました。
本当に、ありがとう』
昨日、白井さんに頼まれて、俺が便箋の余白へ書き加えた言葉だ。
女性職員の指先が、わずかに震えた。
「どうして……」
かすれた声が漏れる。
「聞こえるはずないのに……」
女性職員は顔を上げ、俺たちを順番に見た。
「このことは、誰にも話していません」
真壁部長が、俺へ視線を向けた。
何かを確かめるような目だった。
けれど、何も尋ねなかった。
女性職員はもう一度、便箋へ目を落とした。
やがて目元を押さえ、小さく笑った。
「そうですか」
その声は、少しだけ震えていた。
「ちゃんと、届いたんですね」
◇
「もしよろしければ、その本を僕らに預けてもらえませんか?」
話が一段落したところで、真壁部長が提案した。
「オカルト研究会で、ですか?」
「僕らの部室には、代々引き継がれてきた品がいくつかあります。誰かの思いや、昔の噂が残っているものです」
壊れた人形。
差出人のない葉書。
どこの神社のものか分からないお守り。
由来のはっきりしない品も少なくないらしい。
「危険なものを面白半分に集めているわけではありません」
真壁部長は珍しく、冗談のない口調で言った。
「物に残された思いを、捨てずに次の世代へ渡す。それも、僕たちの役目だと考えています」
本はすでに除籍され、希望者へ譲渡される予定だったものだ。
女性職員はしばらく考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「お願いします」
便箋を元の場所へ戻し、カバーを丁寧に整える。
「大切にしてください」
「もちろんです」
真壁部長が、差し出された本を両手で受け取った。
女性職員はその表紙をしばらく見つめていたが、やがて名残惜しそうに手を離した。
◇
図書館を出ると、真壁部長は『降霊と交霊の民俗学』を抱え、部室棟の方へ歩き始めた。
水瀬副部長は俺の隣へ並ぶ。
「影山くん」
「はい」
「オカ研に入らない?」
唐突な誘いだった。
「今回みたいなこと、これからもあると思うの。影山くん、調べるの得意そうだし」
得意なのではない。
関係した幽霊が勝手に現れるだけだ。
「すみません。人付き合いがあまり得意じゃなくて」
「うん」
「サークルに入るのも、少し抵抗があります」
断られると思っていたのか、水瀬副部長は無理に食い下がらなかった。
「そっか。まあ、すぐに決めなくてもいいから。気が向いたら、いつでも部室に来て」
その言い方に、少しだけ安心した。
真壁部長が、少し先から手を振っている。
「透子くん、置いていくよー!」
「今行きます!」
水瀬副部長が駆け出した。
俺も帰ろうと、二人とは反対の方向へ足を向ける。
「おーい、影山!」
聞き覚えのある声がした。
佐伯ナオヤが、校舎の方から歩いてくる。
「こんなところで何してんだ?」
「図書館に用事があって」
「へえ。もう大学に馴染んでんじゃん」
「全然だよ」
ナオヤは、少し先を歩く真壁部長たちを見た。
「さっき一緒にいたの誰?」
「オカルト研究会の部長と副部長」
「オカ研? もうサークル入ったのかよ」
「いや、入ってない。誘われたけど、断った」
「は? なんで?」
「サークルとか、向いてないから」
「やってみないと分かんないだろ」
ナオヤは軽く俺の肩を叩いた。
「せっかく大学に来たんだ。何か1個くらい入っとけよ。分かんないことがあった時、先輩がいると助かるぞ」
「分からないこと……」
「そういや、履修登録は終わったのか?」
「履修登録なら、もう――」
そこまで答えたところで、昨日の画面が脳裏に浮かんだ。
時間割は埋めた。
見落としがないか確認してから送ろうと思い、そのまま閉じた。
「……終わってない」
「は?」
「登録、まだ送信してない!」
慌ててスマートフォンを取り出す。
締切までは時間がある。
けれど、このまま忘れていたら、大学生活が始まる前に終わるところだった。
「危なっ。やっぱり先輩に見てもらえよ」
ナオヤは呆れたように笑う。
「オカ研、楽しそうだったじゃん。入っとけって」
「話したこともないのに、何で分かるんだよ」
「雰囲気だよ、雰囲気」
ナオヤはもう一度、俺の肩を叩いた。
「じゃあなー!」
そう言い残し、校門の方へ歩いていく。
俺はしばらく、その背中を見送った。
『一人でも、君がいなくなったら気づいてくれる人を見つけた方がいい』
山本先輩の言葉を思い出した。
オカ研へ入りたいかと聞かれれば、まだ分からない。
人と関わるのは怖い。
変なことを言って、また嘘つきだと思われるかもしれない。
それでも、真壁部長と水瀬副部長と一緒にいた時間を、不快だとは思わなかった。
むしろ――。
「影山くん?」
少し先で、水瀬副部長が振り返っていた。
俺は二人を追いかけた。
「水瀬副部長」
「どうしたの?」
「さっきの話なんですけど」
真壁部長が、期待に満ちた顔でこちらを見ている。
「まだ、入部できますか?」
「もちろん!」
水瀬副部長の顔が明るくなった。
「大歓迎よ!」
「いやあ、よかった。これで来年度も存続できそうだ」
「部長、余計なこと言わないでください」
「あと、履修登録のことで聞きたいことがあって……」
「なるほど」
真壁部長が大きく頷く。
「透子くんは、効率よく単位を取ることに関しては大学随一だからね。入部してくれるなら、出席の緩い講義から試験の傾向まで――」
「人を不真面目な学生みたいに言わないでください。ちゃんと履修相談には乗るけど」
「お願いします」
気づけば、深く頭を下げていた。
こうして俺は、常陽大学オカルト研究会へ入ることになった。
履修登録を手伝ってもらうためだ。
とりあえず今は、そういうことにしておこう。
「そうと決まれば、歓迎会だ!飲みに行くよ!」
「今日ですか?急すぎますって」
「え、行かないの?」
「……行きますけどね!行くでしょ、影山くん」
「いや、僕は……」
「君の歓迎会だ。拒否権はないよ、連行する」
そうやって流されるまま居酒屋へ連れて行かれ、解放されたのは明け方になってからだった。
眠くて、疲れて、履修登録の相談も全然できなかったけれど、不思議と嫌ではなかった。
誰かに誘われて、断りきれずについていって、くだらない話で夜を明かす。
そんな大学生みたいな時間を、自分が過ごす日が来るとは思わなかった。
少なくとも、昨日までの俺には考えられないことだった。




