ラストシーンは地縛霊とともに(1)
駅を降り、道幅の狭い商店街を抜けて歩くこと10分。
今日から俺が暮らすアパートが見えてきた。
三階建ての建物は、グレーの外壁も共用廊下もきれいに整えられている。
ぱっと見ただけでは、築年数もそれほど経っていないように見えた。
これで家賃3万円。
しかも、大学までは自転車で5分もかからない。
東京でこの条件なら、何かあると疑うのが普通だろう。
実際、何かあった。
不動産屋からは、数年前、この部屋で入居者が亡くなっていると説明を受けていた。
いわゆる、心理的瑕疵物件というものだ。
それでも契約したのは、死んだ人間が必ず幽霊になるわけではないと知っているから。
家賃と立地を考えれば、多少の過去には目をつぶれる。
不動産屋から受け取ったばかりの鍵を差し込み、冷たいドアノブを回す。
ガチャリ、と音を立てて扉が開いた。
「ようこそ我が家へ! ささ、遠慮なく入りたまえ~!」
「……はい?」
玄関の奥で、見知らぬ女性が満面の笑みを浮かべ、こちらへ手招きしていた。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「すみません、間違えました!」
反射的に扉を閉めた。
表札を確認する。
304号室。
間違っていない。
そもそも、俺の鍵で開いたのだから、別の部屋であるはずがなかった。
(おいおい……格安家賃の理由、やっぱりこれかよ)
俺はもう一度ドアノブへ手を伸ばした。
先ほどより慎重に、少しだけ扉を開ける。
「待って! 閉めないで! 見えてると思わなかったの!」
扉の隙間から、女性が必死な顔を覗かせた。
やっぱりか。
この人は人間ではない。
幽霊だ。
◇
実家から背負ってきたリュックとキャリーバッグを玄関へ置き、深く息を吐いた。
「ささ、上がって上がって。お茶も出せなくてごめんねぇ」
「あ、いえ、お構いなく……って、ここは俺の部屋です」
「私だって借りたもん! まだ解約してないもん!」
死んで契約は切れても執着は切れていないらしい。
女性は、この部屋の住人であるかのように、何の遠慮もなくフローリングへ座り込んだ。
上下で色の違うスウェット。
化粧気のない顔。
髪は後ろで一つに結ばれている。
あまりにも生活感のある姿で、どう見ても幽霊には見えない。
俺には、幽霊と生きている人間の区別がつかない。
体が透けているわけでも、足がないわけでもない。
声も聞こえるし、向こうが俺へ触れようと思えば触れることもできる。
見た目だけなら、普通の人間と何も変わらなかった。
今回すぐに分かったのは、本人が自分から白状したようなものだからだ。
「うわぁ~、やばすぎる! 初めて反応された! 私の声、聞こえてるんだよね?」
「ええ。残念ながら、はっきりと」
「ふぉぉぉぉ! 会話できてる! ねえねえ、どんなふうに見えてるの? 足はある? 顔とかグロくない?」
「足もありますし、グロくもありません。普通の人に見えます」
「普通……」
女性は自分のスウェットを見下ろした。
「せめて死ぬなら、もう少しかわいい格好の時がよかったな……」
知らんがな。
「それで、いつまでここにいるつもりですか?」
「ひどい! 4年ぶりの会話なのに、もう追い出そうとしてる!」
「4年?」
さっきまで騒いでいた女性は、急に口を閉ざした。
カーテンのない窓辺へ寄り、外を指差す。
「あそこに、幼稚園があるでしょ」
二階建ての園舎と小さな園庭。
その周囲では、満開の桜が風に揺れていた。
東京の桜が満開になったと、昨日、実家のテレビで見たばかりだった。
「あの桜が満開になるのを見るの、これで四回目」
女性はこちらを振り向き、力なく笑った。
「人と話したのも4年ぶり。オリンピックみたいでしょ」
「もしかして、この部屋から出られないんですか?」
女性は小さく頷いた。
「玄関の外へ行こうとすると、いつの間にかここへ戻ってるの。最初の頃はいろいろ試したんだけどね」
死んだ場所や、強い思いの残った場所から離れられない幽霊に、以前にも会ったことがある。
いわゆる地縛霊だ。
「まあ、東京は怖いからね!」
「……はい?」
「人、多すぎるし。電車の路線も意味分かんないし。私、田舎から出てきたから、大学にもなかなか馴染めなくてさ」
女性は、笑いながら窓の外を見た。
「そのうち学校を休む日が増えて、部屋でアニメばっかり見るようになって。気づいたら、ここが一番落ち着く場所になってた」
冗談めいた口調だったが、最後の言葉だけは妙に静かだった。
4年間、誰とも話せず、どこへも行けない。
その孤独は、俺にも想像できた。
「私、山本ユイ。君、もしかして常陽大の新入生?」
「そうです。影山玲司といいます」
「やっぱり! 私も常大だったんだよ。ここ、大学まで近いもんね」
この部屋を選んだ理由は、安さだけではない。
大学のキャンパスまで自転車で5分の近さだ。
ここからなら、講義が始まる直前まで寝ていられる。
「ははーん。さては、講義のぎりぎりまで寝られるから、この物件を選んだでしょう?」
「……そうですけど」
「私も! 気が合うねぇ。影山くんも、この部屋で死んじゃうかもね~」
「今からでも解約できないか、不動産屋へ相談してきます」
「ぎゃー! やめて! 冗談だから! お願いだから置いていかないで!」
山本さんは俺の腕へしがみついた。
やはり、俺の体には触れられるらしい。
せっかく始まる一人暮らしを、地縛霊との相部屋にするつもりはない。
しかし、このまま放っておくのも、さすがに気が引けた。
「えっと……山本さん」
「同じ常大生なんだから、先輩って呼んで」
「……先輩。単刀直入に言います」
先輩は俺の腕を離した。
何を言われるか分かっているように、視線を落とす。
「先輩は、死んで幽霊になっています」
「……そんなこと、言われなくても分かってるよ」
泣きそうな顔を隠すように、先輩はわずかに笑った。
俺は、これまでにも何人かの幽霊と出会っている。
死んだ人間が、全員幽霊になるわけではない。
こちら側へ残るのは、生きていた時の思いを手放せない人だけだ。
少なくとも、俺が出会った幽霊はそうだった。
「山本先輩」
「うん」
「先輩の未練は、何ですか?」




