第7話:大葉 沙良
啓介と別れたあの日から、私の中の時間は止まってしまったようだった。
「友達として繋がろう」なんて、あのとき強がって言ったけれど、本当はそんな強さはどこにもなかった。彼の隣にいられる可能性に、最後まで縋っていただけだ。
私は啓介を許し続けていた。
彼がどれだけ他の女性に手を出しても、責めなかった。戻ってきてくれればそれでいいと思っていた。彼が抱えている空虚さや「乾き」を、私が受け止められると信じていた。束縛しない、問いたださない。戻ってきたときに、私の体で慰めればいい。——そうやって、その「寛大さ」によって、私は彼にとって唯一の存在であり続けられるはずだと信じていた。
けれど美来の登場は、その幻想を一瞬で打ち砕かれた。
啓介は美来の隣で、これまで見せたことのない柔らかい笑みを浮かべていた。彼の「乾き」を癒やすのは、私ではなかった。美来だった。
その瞬間、私は自分の立場を完全に追われたのだ。
——誰かにとって、美来のような存在になることは、私には出来ない。
そう痛感した。
私は決して「可愛らしい女」ではなかった。啓介の刹那的な欲望を受け止めることはできても、彼に「未来」を見せる存在にはなれなかった。
そして、そういう女でない自分という存在を、当然ながら私は受け入れるしかなかった。
だから私は、啓介とは真逆の男性を選ぶことにした。
派手で自由奔放な投資銀行の男ではなく、安定した邦銀に勤める堅実な男を。
大学を卒業して、私は中堅の総合商社に就職した。啓介のように華やかで人を惹きつける存在よりも、企業グループが獲得してきた権益を守り、そこから生み出される利益を堅実に積み上げることが求められる職場。
それは私にとって、私が望み得る就職先の中で、最も大きな事業体―例えば啓介が就職した投資銀行に比肩する程度の―であり、自分自身が求めている「堅実」というものに、最も近しい場所だったかもしれない。
その頃、親戚の紹介でお見合いの話が持ち上がった。相手は邦銀に勤める藤沢亮。
最初に会ったとき、正直、心は動かなかった。
彼は真面目で、誠実で、几帳面で。——あまりに啓介と違っていた。
私の笑いのツボを突くこともなければ、軽口で場を和ませることもない。啓介が交渉の場面で見せるような、相手の虚を突き、相手のロジックの隙間を広げて、その根拠を粉砕して見せるような、そうした曲芸を持ち合わせず、ただ、穏やかに、安定した未来を約束してくれるような人だった。
私は、啓介から別れを切り出された後で、自分が何を求めているのかを考えた。
——安心。
そう、自分には安心が必要なのだと。
だから、藤沢亮との結婚を決めた。亮は女性にモテるようなタイプの男性ではなく、むしろこれまで女性と付き合った経験自体が無いような人だった。
「この人となら、裏切られない」
「この人となら、平穏な日常を歩める」
そう思った。
けれど、それは同時に、自分が「情熱」や「ときめき」を捨てる選択であることも分かっていた。
結婚式の日、私は純白のドレスに身を包みながら、心の奥で別の影を思っていた。
——もし、あのとき啓介が私を選んでくれていたら。
そんな叶わない「もしも」を想像してしまう自分を、必死に押し殺した。
亮は誠実だった。夫としての責任を果たそうと努力してくれていることは伝わった。
でも、彼と並んで暮らす毎日の中で、ふとした瞬間に啓介の姿が浮かんでしまう。
夜、ベッドの中で目を閉じると、思い出すのは亮の顔ではなく、啓介の笑顔だった。
——乾きを抱え、孤独に笑っていた、あの顔。
私は亮に尽くそうとした。妻として、家庭を支えるために。
けれど心の奥で、私は啓介を引きずり続けていた。
忘れようとしても忘れられない。心に刻み込まれてしまった人。
こうして私は、啓介とは真逆の男性と結婚し、安定した道を選んだ。
けれどその裏で、心はずっと過去に縛られ続けていた。
美来に敗北したあの日から、私の人生は「諦め」と「妥協」の上に成り立つものになったのだ。