第8話:藤沢 沙良
啓介と別れたあの日から、私は「友達」という言葉に縋り続けていた。
本当は、あの瞬間にすべて終わっていたのだと思う。彼が美来を選んだ時点で、私の物語は幕を下ろされていた。
それでも「友達でいたい」と言ったのは、最後の抵抗だった。縋る糸が細くてもいい。完全に切れてしまうよりはましだと、必死で自分に言い聞かせた。
だから、月に一度の会食という形で彼と会えるようになったことは、私にとって何よりも救いだった。
お互い家庭を持っているのだから、夜遅くまで引き留めない。人目に触れるような場所には行かない。仕事の帰りに少し時間を合わせて、二人で夕食を取る。——ただそれだけの約束だった。
けれど、その「ただそれだけ」の時間が、私にとってはどれほど大切なものだっただろう。
会う日は、私は必ず身なりを整えた。
普段は中堅総合商社の中で働く地味なキャリアウーマンに過ぎなかった私が、その日ばかりは精一杯のお洒落をした。美容院に立ち寄り、服を選び、アクセサリーを整えた。——彼の隣に立つ資格を、せめて一夜だけでも取り戻したかった。
結婚して主婦として落ち着く女たちが「もう見せなくなる努力」を、私は逆に必死で続けた。彼に会うときだけは、あの頃の私を再現しようと。
そして目の前に現れる啓介は、昔とは違っていた。
美来と一緒になったことで、彼は別人のように変わっていた。
かつての彼は、刹那的で、我が儘で、乾きを埋めるために女を利用しては飽きて投げ出す―ある意味で本当に最低な―男だった。
私はそれを承知で受け入れ、戻ってきてくれればいいと信じ、体で慰めることで繋ぎ止めていた。
だけど今の彼は、美来に愛され、美来を愛することで、その乾きを完全に癒やされていた。
だからこそ、彼は他の女性に対しても驚くほど丁寧で、礼儀正しかった。
かつてなら軽口や挑発を交えてくる場面で、今は一切そういうことをしない。ただ穏やかに、紳士的に、優しく、気遣いを忘れない。
美来に愛されることで、彼は本当に「大きな男性」へと成長していた。
——皮肉なことに、その成長した姿を、私は一番近くで見てしまっていた。
贖罪の念があるのだろう。
彼はこれまで見せたことがないほど温和で、私を労り、楽しませようとしてくれた。
笑わせようと冗談を言ってくれたり、仕事の愚痴を聞いて「よく頑張ってるな」と励ましてくれたり。
その言葉は本物で、彼の誠実さがにじみ出ていた。
——ああ、これこそ、私が夢見ていた啓介の姿。
私がどれだけ求めても、かつては与えられなかったもの。
美来と出会ったことでようやく形になった、その姿を目の前に突きつけられるたびに、胸の奥が焼けつくように痛んだ。
会食の時間は、せいぜい二時間ほど。
食後、彼は必ず時計を見て「そろそろ帰ろう」と切り出す。
私もそれ以上は引き留めない。——お互いに家庭があるのだから。
別れ際、啓介は必ず私に微笑んで言った。
「ありがとう、沙良。また来月」
その笑顔は優しくて、誠実で、そして二度と私のものにはならない顔だった。
私はいつも微笑み返しながら、心の奥で泣いていた。
——これ以上の喪失感があるだろうか。
美来と共に成長した啓介は、私にとってますます眩しい存在となり、そして絶対に手の届かない人となった。
それでも私は、月に一度のこの会食をやめられなかった。
彼の隣にいるたった数時間のために、私は生きていた。




