Episode230
翌朝。
いつもより少し早く出勤したサロンは、すでにどこか張り詰めた空気をまとっていた。
まだ営業前だというのに、準備をするスタッフたちの動きには無駄がなく、自然と口数も少なくなっている。
鏡越しに見えるそれぞれの表情は、どこか引き締まっていた。
誰もが分かっている――今日は、間違いなく忙しい一日になる。
予約表は朝から閉店間際までびっしりと埋まり、少しのズレが全体に響く状況だった。
(……始まるな)
美菜は静かに深呼吸をする。
昨日の夜、湯船の中で決めたことを思い出す。
“目の前のことを、ちゃんとやる”――それだけでいい。
「よし、朝礼やるぞ」
田鶴屋の声で、全員が自然と手を止めた。
ピリッとした空気が、一段階引き締まる。
いつもの穏やかさを残しつつも、今日は明らかに違う。
店長としての顔が、はっきりと出ていた。
「見ての通り、今日はフルだ」
短く、それでも十分に伝わる言葉。
全員が無言で頷く。
「一人のミスが、そのまま全体の遅れに繋がる可能性がある。だから――」
一度、視線を全員に巡らせる。
「焦らず、でも無駄なく。確認はしっかり。いつも以上に声掛けしていこう」
落ち着いた声。
だけど、その一言一言に重みがある。
「手が空いたやつは、必ず周りを見る。自分の仕事だけじゃなくて、店全体で回していく意識を持て」
“自分の担当”だけじゃない。
“店としてどう動くか”。
その意識を改めて共有される。
「無理に抱え込むな。キツくなったらすぐ言え。フォローは全員でやる」
田鶴屋らしい言葉だった。
厳しさだけじゃなく、ちゃんと支える前提がある。
その言葉に、空気がほんの少し柔らぐ。
「……で」
ふっと、少しだけ表情が緩む。
「こういう日ってさ、どうしてもピリピリしがちだけど」
軽く肩をすくめる仕草。
「逆に言えば、“美容師やってるな”って一番実感できる日でもある」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
「いい緊張だよ。せっかくなら、それも楽しめ」
声は穏やかで、でもしっかり届く。
「忙しい時こそ、余裕ある顔していこう」
最後に、軽く手を叩く。
「――よし、やるぞ」
その一言で、空気が完全に切り替わった。
「はい!」
揃った声が響く。
それぞれが持ち場へ戻っていく背中には、さっきまでよりも明らかに力が入っていた。
美菜も、自然と口元が緩む。
(……ほんと、田鶴屋さんらしい)
ただ厳しくするだけじゃない。
ちゃんと空気を見て、最後に少しだけ緩める。
だからこそ、気持ちよく前を向ける。
鏡に映る自分の顔を見て、小さく頷く。
「……よし」
気合いを入れるように、軽く頬を叩く。
その瞬間、瀬良とふと目が合った。
何も言わないまま、ほんのわずかに視線だけで頷かれる。
(……うん)
言葉はいらなかった。
今日も、きっと忙しい。
でも――
(大丈夫)
一人じゃない。
この空気の中で、みんなで回していく。
そう思えたことが、美菜の背中を静かに押していた。
***
営業が始まった瞬間から、サロンの空気は一気に動き出した。
ドアの開閉音、ドライヤーの風、スタッフ同士の声掛け――すべてが途切れることなく繋がっていく。
予約は途切れることなく続き、時計の針もいつもより早く進んでいるように感じた。
それでも、不思議と混乱はない。
誰かが自然に動き、誰かがそれをカバーする。
朝礼で共有した意識が、そのまま形になっているようだった。
「今日は凄いわね〜!満席じゃない?」
明るい声が、鏡越しに響く。
美菜の担当の常連客だった。
「そうですね、今日から年末にかけてやっぱりご予約がかなり入っていますね」
ハケを手に取りながら、美菜は穏やかに返す。
その隣で、すぐに千花が顔を出した。
「おかげさまで満員御礼ですっ!」
にこっと笑うその表情に、お客様も楽しそうに目を細める。
「まあ〜大変ねぇ。でもなんだか楽しそう」
「楽しいですよ〜!忙しいと燃えます!」
「千花ちゃん、元気だねぇ」
くすくすと笑いながら、女性客が椅子に体を預ける。
カラー剤を手際よく準備しながら、美菜と千花は自然な流れで施術に入る。
根元から丁寧に塗布していくその動きは、無駄がなくて滑らかだった。
「今日はいつもより少し落ち着いた色味にしていきますね」
「いいわねぇ、年末だしちょっと雰囲気変えたいと思ってたの」
「絶対似合います!」
千花が横から元気よく言い切ると、女性客がまた笑う。
「ほんと、2人見てると元気もらえるわ」
その言葉に、ふっと手元の動きが少しだけ優しくなる。
「そんなことないですよ」
美菜は少しだけ照れたように笑う。
「でも、そう言っていただけるのは嬉しいです」
カラーを塗り進めながら、自然と会話も弾む。
仕事の話、年末の予定、ちょっとした世間話。
そのどれもが、慌ただしい中でも心をほぐしてくれる時間だった。
「ねえ」
ふと、女性客が鏡越しに2人を見る。
「綺麗になるのも嬉しいけどね」
少しだけ声のトーンが柔らかくなる。
「貴女たちに会えるのも、私は嬉しいのよ」
その言葉は、まっすぐで、あたたかかった。
一瞬だけ、空気が静かになる。
「……」
千花がぱちぱちと目を瞬かせる。
美菜も、ほんの一瞬言葉を失った。
でも次の瞬間、自然と笑みがこぼれる。
「……ありがとうございます」
心からの声だった。
「そう言っていただけるの、本当に嬉しいです」
千花も、少しだけ照れながら続く。
「私もです……!めちゃくちゃ嬉しいです!」
「ふふ、ほんと正直ねぇ」
女性客が優しく笑う。
「来年もよろしくね」
その一言に、2人は同時に頷いた。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
「絶対可愛くしますからね!」
元気いっぱいの千花に、また笑いが起こる。
そのやり取りの中で、美菜はふと感じていた。
(……ああ、これだ)
忙しさの中でも忘れたくないもの。
この仕事の、何よりのやり甲斐。
ただ髪を綺麗にするだけじゃない。
こうして誰かの時間に関われること。
(……頑張ろう)
胸の奥で、静かに決意が固まる。
隣を見ると、千花も同じように少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
その横顔に、思わず小さく笑みがこぼれる。
(いいな、この感じ)
忙しいけれど、温かい。
その空気の中で、美菜はまた一つ、手元に集中した。
***
フロアの一角では、規則正しいリズムでハサミの音が響いていた。
その中心にいるのは瀬良だった。周囲の忙しさとは対照的に、彼の動きには一切の無駄がない。
視線は常に髪と鏡の中のシルエットに向けられ、指先の角度ひとつまで計算されているようだった。
それでも、完全に仕事に没入しているわけではない。
タイミングを逃さず言葉をかけ、相手の反応を拾いながら空気を作っていく。
静かだけど冷たくない、そんな絶妙な距離感の接客だった。
「瀬良くんにしかもう髪の毛頼めなくなっちゃったよ〜」
鏡越しに、常連の男性客が笑いながら言う。
その声には冗談めいた軽さと、本音が混ざっていた。
「ありがとうございます」
短く返す瀬良。
けれどその手は止まらず、次の一手へと迷いなく進んでいく。
ハサミが入るたびに、シルエットが整っていく。
ただ短くするだけじゃない。伸びてきても形が崩れにくいように、日常で扱いやすいように。
セットが苦手な人でも、少し手を加えるだけで“それらしく”決まるように。
その全てを計算して、仕上げていく。
(……やっぱり、すごいな)
少し離れた隣の席を担当しながら、その様子を見ていた木嶋は心の中で素直に思っていた。
同じ美容師で、同じ職場で働いていて。
何度も見てきたはずなのに、毎回どこかで感心してしまう。
「ほんと助かるんだよね〜、朝のセットも楽だしさ」
「それならよかったです」
相変わらず淡々とした返事。
でも、その裏にある自信と技術は確かなものだった。
そのやり取りを聞きながら――
「……へへ」
なぜか、木嶋は小さく笑っていた。
それに気づい木嶋の女性客が、くすっと笑う。
「あら?木嶋さん、なんだか嬉しそうね」
「え、あ、いや〜なんか……ね!」
少し照れたように頭をかく。
「仲間が褒められると嬉しくて!」
その言葉に、お客様が優しく目を細める。
「ふふ、いい関係なのね」
そして、少しだけ身を乗り出すようにして言った。
「でもね、木嶋さんも私をいつも綺麗にしてくれて助かってるのよ?」
「え?」
「あなたも負けてないわ」
まっすぐな言葉だった。
一瞬、木嶋はきょとんとした顔をする。
それから、じわっと顔が緩んだ。
「……ありがとうございます!」
いつもより少し大きな声。
その表情は、分かりやすく嬉しそうだった。
「いやほんと……俺、このサロンで働けてよかったなって思います!」
思わず口からこぼれる本音。
その言葉に、隣の席から声が飛ぶ。
「本当にいい職場だね」
瀬良の担当している男性客が、感心したように言った。
「みんな仲いいし、技術もちゃんとしてるしさ」
「……そうですね」
瀬良が短く返す。
それだけなのに、その言葉にはどこか確信があった。
木嶋はその横顔をちらっと見る。
相変わらずクールで、余計なことは言わない。
でも、その空気の中にちゃんと“ここにいる理由”があるのが分かる。
(……いいよな)
ライバルであり、仲間であり。
同じ場所で、同じ仕事をして。
時には張り合って、時には支え合って。
「よっし、俺も負けてらんねーな!」
明るく言いながら、手元の施術に戻る。
その動きにも、自然と力が入る。
「今日は特別にいつもより可愛くしちゃいますよ〜!」
「いつもより?それは楽しみね」
女性客が笑う。
そのやり取りの中で、サロンの空気がさらに温かくなった。
忙しさの中でも、笑顔が生まれて。
技術だけじゃなく、人と人との関係がしっかりと流れている。
木嶋はふと、また瀬良の方を見た。
無駄のない動き。
変わらない集中力。
(……やっぱすげぇわ)
心の中でそう思いながら、少しだけ口元が緩む。
こんなふうに同じ場所で働けることが、素直に楽しいと思えた。




