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推してもらうには近すぎる!  作者: 塩田 樹


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Episode229




家の中は静かで、さっきまでのざわついた時間が嘘みたいだった。

暖房の効いた空気に包まれて、ようやく体の力が抜けていく。


ソファに横になったまま、美菜はぼんやりと天井を見つめていた。

視界は静かなのに、頭の中だけが落ち着かない。

同じことを何度も繰り返してしまう思考に、自分でも少し疲れていた。


(……なんで、こんなに引っかかるんだろ)


答えなんて出ないのに、考えるのをやめられない。

そんな自分に、少しだけ嫌気がさす。


その時、ふわりとコーヒーの香りが漂ってきた。

現実に引き戻されるような、優しい匂い。


テーブルにカップが置かれ、瀬良が静かに隣に座る。


「……はい」


「ありがと……」


力の抜けた声で返しながらも、やっぱり思考は完全には止まらない。


それを見透かしたように、瀬良が低く名前を呼ぶ。


「……美菜」


「ん……?」


「また考えてるだろ」


逃げられない指摘に、ほんの少しだけ苦笑がこぼれる。


「……分かる?」


「顔に出てる」


短く言い切られた次の瞬間、唇が触れた。


驚く間もなく、もう一度。

軽く、でも確実に意識を奪うようなキス。


「……瀬良くん」


「切り替えろって言ったろ」


そう言いながらも、その声はきつくない。

むしろ、どこか甘やかすような響きがある。


何度も繰り返される軽い口付けに、思考が少しずつほどけていく。


「……考えすぎ」


頬に触れながら、ぽつりと落ちる言葉。


「そんな顔で、あいつのことばっか考えんな」


その一言で、美菜の意識がふっと現実に戻る。


「……え?」


きょとん、とした顔で見上げる。


瀬良はほんの少しだけ視線を逸らした。


「……別に」


「いや、“別に”じゃないでしょ」


思わず体を起こしてしまう。


「今、ちょっと……」


「……」


ほんのわずかに、沈黙。


そして、観念したみたいに小さく息を吐く。


「……ムカつくだけ」


ぽつりと、ぶっきらぼうに落ちる本音。


一瞬、美菜は言葉を失った。


(……え、今の)


理解が追いつくまで、ほんの少し時間がかかる。


「……え、もしかして」


「違う」


即答だった。


でも、否定が早すぎて逆に分かりやすい。


「いや絶対そうでしょ……」


「違うって言ってる」


そっぽを向く仕草。

その態度が、逆に“そうです”と言っているようなものだった。


その瞬間――


ふっと、胸の奥が緩む。


(……なにこれ)


さっきまで重かったものが、少しだけ軽くなる。


「……瀬良くん」


「……何」


まだ視線は合わせてくれない。


その様子が、なんだか珍しくて。


「ふふふ……可愛いね」


「は?」


一気に振り返る。


「何言ってんの」


「だって」


思わず、少しだけ笑ってしまう。


「そんなふうに思うんだ、って」


「……」


「ちょっと意外だった」


瀬良は、無口でクールで。

どこか一歩引いて物事を見るタイプだと思っていたから。


こんなふうに分かりやすく美菜の前だけは感情を出すのがたまらなく愛おしい。


「……別に」


また同じ言葉。

でも今度は、さっきよりも少しだけ照れが混じっている気がする。


「可愛くない」


「可愛いよ」


即答すると、眉を寄せられる。


「言うな」


「なんで」


「……なんでもいい」


完全に拗ねているような声音。


その様子が、どうしても微笑ましくて。


美菜は少しだけ身を乗り出した。


「ねえ」


「……何」


「ヤキモチ焼いてくれたの?」


一瞬だけ、空気が止まる。


瀬良の目がわずかに細くなる。


「……だから違うって」


「でもさっき、“ムカつく”って」


「……」


言葉に詰まる。


その反応が、もう答えみたいなものだった。


「……ふふ」


小さく笑うと、瀬良の眉がさらに寄る。


「笑うな」


「だって嬉しくて」


素直にそう言うと、今度は本当に黙り込んだ。


数秒の沈黙。


そのあと――


ぐいっと腕を引かれる。


「……わ」


そのまま、強めに引き寄せられる。


さっきよりも少しだけ強引な距離。


「……あんま他のことばっか考えるな」


低く、真っ直ぐな声。


「分かってると思うけど」


ほんの少しだけ、間を置いて。


「俺、余裕ないわけじゃないからな」


「……うん」


「でも、いい気はしない」


その言葉は、飾り気がなくて。


だからこそ、まっすぐに響いた。


「……ごめん」


自然と謝っていた。


「別に謝ることじゃない」


そう言いながら、額に軽く触れるキス。


「……ただ」


少しだけ声が低くなる。


「俺の前では、俺のことだけ考えてろ」


その言い方が、ずるいくらい優しい。


「……うん」


今度は迷わず頷いた。


その返事を確認するように、もう一度唇が重なる。


さっきよりも深く、ゆっくりと。


絡まる体温の中で、さっきまでのざわつきはもうほとんど残っていなかった。


(……ほんと、ずるいな)


こんなふうに全部持っていかれるなんて。


でも――


それでいいとも思ってしまう。


瀬良の腕の中で、ふっと力を抜く。


さっきまで抱えていた重たい気持ちは、完全には消えていない。

それでも、少しだけ形を変えて、奥に沈んでいく。


代わりに残るのは、安心感と――ほんの少しのときめき。


(……可愛かったな)


さっきの、拗ねたみたいな顔を思い出して。


思わず、また小さく笑ってしまった。



***



湯船に肩まで浸かった瞬間、じんわりと体の芯がほどけていく。

今日一日の疲れが、ゆっくりと溶け出していくみたいだった。


「……はぁ……」


自然と息がこぼれる。

静かな浴室に、水音だけが小さく響いていた。


さっきまで頭を占めていた伊月のこと。

完全に消えたわけじゃないけれど、さっきよりも少しだけ遠くにある。


(……でも)


ふと、別の現実が顔を出す。


サロンの予約ボード。

あの空白と、その先に詰まり始めていた予約の列。


「……明日から、やばいよね」


思わず小さく呟く。


クリスマス前から年末にかけての忙しさは、毎年分かっているはずなのに。

いざ直前になると、やっぱり少し身構えてしまう。


(去年も……一昨年も、ずっとバタバタだったなぁ)


朝から晩までほとんど休む暇もなくて。

気づけば一日が終わっていて、でも不思議と嫌じゃなかった。


お客様が笑って帰ってくれる瞬間。

「ありがとう」って言ってもらえるあの時間。


それがあるから、頑張れる。


(……そうだよね)


ゆっくりと目を閉じる。


今の自分にできること。

それは、過去でも未来でもなくて――


「……ちゃんと、目の前のことやろう」


小さく、でもはっきりと口にする。


伊月のことも、気になる。

詩音のことも、引っかかる。


でも、今すぐ自分に何かできるわけじゃない。


だったら――


(目の前のお客様、大事にしよう)


それが、美菜の答えだった。


ゆっくりと目を開ける。

さっきよりも、少しだけ視界が澄んでいる気がした。



***



お風呂から上がると、空気のひんやりした感触が心地いい。

タオルで体を包みながら、鏡の前に立つ。


濡れた髪からぽたぽたと水が落ちる。


「……乾かさないと」


ドライヤーを手に取ろうとしたその時、

コンコン、と軽いノックがした。


「美菜」


「……うん?」


ドアが少し開いて、瀬良が顔を覗かせる。


「入るぞ」


返事を待たずに入ってくるあたりが、もういつも通りで。


「ちょ、待って――」


言い終わる前に、後ろから腕を回される。


「……瀬良くん」


くすぐったさに肩をすくめた瞬間、首筋に柔らかい感触。


「っ……」


軽く、キスが落ちる。


さっきよりも、少しだけくすぐったくて、甘い。


「何してるの……」


「別に」


低く返しながら、もう一度。


今度は少しだけゆっくりと。


「……もう」


文句を言おうとしても、声が少しだけ弱くなる。


「さっきまで考えてた顔じゃないな」


耳元で囁かれて、思わず言葉が詰まる。


「……うん」


正直に頷くと、腕の力が少しだけ緩む。


「いいじゃん」


ぽつりと落ちる言葉。


そのまま、髪に触れる指先。


「乾かす」


「え?」


振り返る前に、ドライヤーを取られる。


「いいのに、自分でやるよ」


「いい」


短い即答。


「美容師だろ」


「それは瀬良くんもでしょ」


「だからだろ」


さらっと返されて、少しだけ笑ってしまう。


鏡越しに視線が合う。


「じゃあ……お願いします」


少しだけ、ふざけたように言ってみる。


すると瀬良は、ほんのわずかに口元を緩めた。


「はい、お客様」


その一言に、美菜の目が少し丸くなる。


「え、なにそれ」


「サービス」


ドライヤーの風が優しく当たり、指先が丁寧に髪をすくいながら乾かしていく。


「今日はどのようなスタイルにいたしましょうか」


少しだけ低めに、作ったような接客声。


「……ふふ」


思わず笑ってしまう。


「じゃあ……お任せで」


「責任重大だな」


軽く言いながらも、手の動きは変わらず丁寧だ。


「明日から忙しくなると思うんで、扱いやすい感じでお願いします」


「了解」


瀬良は少しだけ間を置いて美菜の髪に手を絡めると少し嬉しそうに鏡越しに微笑みかける。


「しっかり働けるように仕上げます」


その言葉に、なんだかくすぐったくなる。


「お願いします、スタイリストさん」


「任せろ」


ドライヤーの音の中で、そんなやり取りが続く。


少しふざけた会話。

でも、その空気が心地いい。


(……こういうの、いいな)


さっきまでの重たい気持ちが、少しずつ軽くなる。


「……美菜」


「ん?」


「明日から、忙しくなるな」


ドライヤーを当てながら、ぽつりと。


「うん」


「無理すんなよ」


「瀬良くんもね」


鏡越しに目が合う。

少しだけ真面目な空気に美菜は困ったように笑う。


「……一人で抱えんな」


「うん」


「ちゃんと頼れ」


その言葉に、ゆっくり頷く。


「……一緒に頑張ろうね」


小さく言うと、瀬良は少しだけ目を細めた。


「……ああ」


短い返事。


でも、その一言で十分だった。


「店も、みんなで回すんだし」


「うん」


「潰れたら意味ない」


「それはほんとに」


気付けば丁寧に乾かされた髪に艶が出ている。

心地良いドライヤーの風が止まり、少しづつ夢見心地から現実に戻ってくるようだ。


「はい、終了」


「ありがとうございました」


美菜が軽く頭を下げると、瀬良が少しだけ微笑み、そしてそのままふっと距離が近づいた。


「……いい客だったな」


「でしょ?」


「また来てくれ」


「指名するね」


そんなやり取りのあと、軽く触れる唇。


さっきまでとは違う、穏やかなキス。


(……大丈夫)


心の中で、そっと思う。


明日から、また忙しくなる。

きっと余裕なんてなくなる日もある。


それでも――


「……頑張ろ」


小さく呟くと、瀬良が「ん」と短く返した。


一人じゃない。

サロンのみんながいて、隣には瀬良がいる。


それだけで、十分だった。




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