釣りだったらどんなによかったか
…………………………。
しばらく沈黙が流れた。
カオルは完全にびっくりしている。
産みの母がこんなに喋ったところを見たことがないのかもしれない。
叫んだ本人もびっくりしている。
しばらく喋ってなかったのに普通に声が出て驚いているとかかもしれない。
「釣れましたね」
そうですな、とシシがうなずく。
「釣れ……って、まさか今の、作り話だとかいうんじゃ」
「あ、いえ作り話ではないです。今年の春頃まで普通にお金振り込んでました」
「……………………」
「だからまあ、いわゆる『釣り』ではないですね」
ふー……。
寝台に座ったその人は、気を落ち着けるように息を吐いた。そして、すぅ、と息を吸った。
「釣りだったらどんなによかったか!!」
ビリビリビリビリ。
もうびっくりするくらいの大声だった。
かたわらにいたカオルがほう、とため息をつく。
「ミカ様は、本当に苦労なさったのね……」
「え、いや。本気で飢えてたとか誰かに虐げられてたとかじゃないですから、そこまでじゃないですよ。お金もなんとか保ちましたしね。買い出しにも行けなかった時はちょっと危なかったけど……。まあとにかく、祖母が元気な時にちゃんと仕込んでくれましたから。祖母の世話もそうだし、掃除とか、食事とか、身の回りのこととか、最低限整った生活はできていたと自負しています」
どやっ。
「日本の高校生の子が、それをしながらちゃんと大学に行けたことが不思議でならないんだよ……」
はああ、と溜め息をつかれた。
「うーん、私って、何かしながらでも読書できるタイプなんですよねえ。だから家の中で教科書や問題集持ち歩いてたりしましたよ。新しい本も借りに行けなかったから、仕方なく読みすぎてほぼ暗記してました。不思議なことに、教科書や問題集丸暗記すると結構点が取れるんですよ」
「それは不思議でもなんでもないよっ!!」
眉間を揉まれた。
「高校生といえば、カオルさんは十五でもう子供産んで育ててたんでしょう。すごすぎる」
「私は義父母が元気で一緒に育ててくれましたから。今もそうですが」
「それでもすごいですよ。嫁に行くのだって楽じゃないですよね」
私はよっこいしょ、と長椅子に座り直す。頭痛や吐き気はまだあるが、めまいはとっくに収まっている。
「そんなわけで。こんばんは、堀田美香です」
ぺこり。
「大変な人生だった……のかもしれませんが、幸いそんな自覚もなく無事生きてきましたのでご心配なく。丈夫に産んでくれた母には感謝しています」
「……っ」
カオルが眉を下げて何かを飲み込む。
「本当ならここで込み入った話をしてしまいたいところですが、どうやらあまり時間がないようですし、こんなところで興奮するなと主治医もうるさいので、さっさと下山しませんか」
「……私は、行きません」
ぷい。さっきまでの口調を引っ込め、相手はそっぽをむく。
「そうですか。困りましたねえ」
「なぜ困るのです。あなたには関係のないことでしょう。聞くに、テイラー伯爵家のお方だとか。ここは山の民の聖域ですよ。お引き取りを」
「織江叔母さんの話は聞きたくないですか」
そう訊くと、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……その名を、こんな形で聞きたくなかった。大人になれば少しは変わると思ったのが間違いだった。美都さんだって、別に私をひいきなんかしてない。あの妹は、養女の私を『平等』に扱う美都さんや正志さんが気に入らなかっただけ。そうやって、美都さんが悪いって近所でも騒いだんだ」
「そうなんですね、それは失礼しました」
そうだったのか……。
まあ、あの正義感の塊みたいなばあちゃんが長女だけを可愛がるだなんて変だなと思っていた。ただ叔母としては、実子としてもっと特別に可愛がられる権利があると考えたのだろう。
「それよりも美香あんたさっき……っ、いえ。とにかく、私は今更ここを降りるわけにはいきません。もはや何の義務も果たせぬ身ですから。カオル、お前ももうここには来なくていい」
「そんな、母さん」
「いい加減、これを母と呼ぶのはよしなさい。お前には今も家族として暮らす立派な父母がいるでしょう」
「その立派な父様母様が会いに行ってやれと言うのです! 何よ、久しぶりに話したかと思えば!」
私よりもカオルの方が言いたいことが山程ありそうだ。そりゃそうだよな……。
「大体、母さんは!」
「ねぇ、どうします、カオルさん」
「えっ、どうします、って」
「長話している時間はないんですよね。私ならいくらでも強硬策に出られますよ」
「強硬策、あの影の人にでも命じるおつもりですか? でも、この人、無理に連れ出そうとしたら隠している毒を飲んで死ぬと言って脅してきたことがあるんです。それで」
「ふーん、それくらいなら何とかなりますよ。影の力を借りるまでもありません」
シシがぴく、と眉を動かす。何か言いたそうな顔をしているがとりあえずスルーしておく。現状、あの方法が数ある強硬策の中では一番穏便だ。
寝台に座る彼女の方は眉を寄せた。
「……妙に自信がありそうですね。あなた、本物の毒なんて見たこともないでしょう」
日本人として暮らしていたら、そんなものに触れる機会はないはずだと言いたいのだろうが、ところがどっこい。
「毒はよく見てます」
「えっ」
私は長椅子の脇に立てかけた矢筒を手にする。
「色々ありますよね。これも毒矢ですし」
「どっ、毒矢」
「自分で塗り直しもしますよ。弓は百発中九十九中くらいの精度まで極めました」
「サカシータの連中め、一体何を教え込んでるんだ……」
また眉間を揉み始めた。
「弓を教えてくれたのはテイラーの騎士ですけどねえ。私には何人も師匠がいるんです。最近、ついに最強の座に上り詰めました」
冬季限定だけど。
「最強? はあ、背は伸びなかったようだけど、もういい大人でしょう。小学生男児のようなことを言わないでちょうだい」
「事実ですよ。チビですけど、正直、聖域に呼ぶには危険人物すぎる自覚さえあります」
じっ、黒幕の方を見てみる。
「はあ、致し方ありませんでしょう。もはや、あなた様の顔を見せるくらいしか手立てが残っていないのですから。カオルの言う通り、間に合わなければ後悔するのはあなた様だ」
フン。
つまり、シシもコマも、私のために罠を張ってくれたのだ。できるだけ、なる早で来いと。
「本当、優しいですよねえ、みんな……」
手元を見る。今までに、私の手を取ってくれた人の顔が次々と思い浮かぶ。
「外にいる魔獣達に伝えてきます。明日、イーリア様とミリナ様には下山してもらいましょう」
「ミカ様はどうなさるのですか」
「私はここに残ります」
私は両手をキュッと握り合わせた。
つづく




