最終章 名探偵の掟
「Nシステムの手配つきました。六田と芳賀の近所にも、捜査員に仁藤の写真を持たせて再度聞き込みにいく準備を進めています」
刑事部屋に戻ってきた守田刑事が明藤警部に報告した。
理真の推理を受けて、事件の再度調査し直しが成されるのだ。もうここまできたら探偵の出番はない。私と理真は今日の夕方にも富山を発つ。丸柴、中野両刑事も新潟県警に戻って本来の管轄の再捜査に当たる。
「はいこれ、おみやげです。明藤警部から」
婦警が私たち新潟組の人間に紙袋を手渡した。
「お、ます寿司じゃないですか!」
袋の中身を覗いた中野刑事が声を上げる。
「俺のひいきにしてる店のやつだ。ます寿司の中では一番うまいと思うよ」と明藤警部。
「しかも二段重ねですね」丸柴刑事も嬉しそうな声。
「ありがとうございます。俺、せっかく富山に来たのに、捜査捜査ばっかりで、ます寿司や富山の名産を全然食べられてなかったんですよ」と中野刑事も表情をほころばせる。
言えない。ます寿司、刺身、にぎり寿司にブラックラーメンまで、私と理真は富山の味覚を満喫しまくっていたなんて、言えない。
理真は、保永との面会から戻ったあと、明藤警部たちに、この事件が瀬峰と仁藤の二人の犯行である疑いが強いと告げ、自身の推理を聞かせた。それを受けて各県警は再捜査の手筈を整えるだろう。
その理真は、推理を語り終えると応接セットに座り、黙ってコーヒーを飲んでいる。その目、その表情は、いつもの彼女のものと何ら変わるところはなかった。
「あ、雪」
窓の外を眺めていた理真が呟いた。その言葉通り、白いものが空から舞い落ち始めた。まったく風のない町の中を、音もなく、ゆっくりと、あの日のように。
すべて埋め尽くしてしまえ。いろは殺人事件も、謎も、悲しみも、何もかも。無数に漂う雪を見て、私は思った。
「絶対大丈夫だから」言い張って、やれまか(新潟弁で『どうしても』)理真は自分が運転すると言ってきかなかった。
新潟へ帰る私たちを、明藤警部始め、手の空いている刑事たちが富山県警本部前まで見送りに出て来てくれた。捜査状況の引き継ぎのため、もう少し富山に残る丸柴、中野両刑事の姿もある。気を付けて。ありがとうございます。そんな会話を交わし、理真がハンドルを握る真っ赤なR1は車道に躍り出て、反対車線に出るため道路を横断しようとしたそのとき、
「うわわー!」
車はスリップし、普通ではありえない方向を向いてR1は車道に止まった。富山市名物、路面電車のレールでタイヤが滑ったらしかった。見送りに出ていた皆さんは顔面蒼白。県警の前で探偵が交通事故を起こしたなどとなったら、まったく洒落にならない。私が理真からハンドルを取り上げたのは言うまでもない。
「まあ、私も雪道の運転が得意ってわけじゃないからね。理真のあの運転と比べたらましって程度だから、安心しきらないでね」
「何、その言い方。時々失礼だな君は……というか、高速道路は完全に除雪されて、アスファルトが見えてるじゃん。次のサービスエリアで運転代わって」
「駄目。アスファルトに見えても、薄く氷が張ってることだってあるんだからね。あ、でも次のサービスエリアには寄ろう。あれさんにます寿司のお土産買っていこうよ」
「お、由宇、グッドアイデア。飲み会もセッティングしなきゃね。でも、丸姉はまだしばらく忙しいか。ここまで来たら忘年会だね」
「いいね」
「絵留ちゃんはもちろん、みんな呼んでさ、盛大にやろうよ。城島警部も。中野さんと須賀さんは……考えとく」
「何で、かわいそう」
私は思わず吹きだしてから、
「忘年会って言うくらいだからさ、嫌なことみんな忘れちゃお」
事件のことも、と言いかけて私はやめた。
「じゃあ、幹事は私に任せてよ」
代わりの言葉を見つけられなかった私は、こんなことを言って幹事を引き受けてしまった。まあいい。
理真、忘年会の間だけでも、事件のことは忘れて楽しもう。今日のことも。
この言葉も口に出すことは出来なかった。
サービスエリアに入り車を停めると、一時やんでいた雪がまた降り始めてきた。
「これは本降りになりそうだね」
理真は、綿毛のような雪が音もなく、ゆっくりと舞い落ちてくる空を見上げた。
「予約していた江嶋ですけど」
居酒屋の暖簾をくぐり、威勢のいいかけ声で迎えてくれた店員に私は告げた。店員は、お待ちしておりました、と笑みを浮かべて店の奥へ手をやる。靴を下駄箱に入れる。私はいつも選んでいる10番の下駄箱が塞がっていたので、となりの11番を開ける。二足入れられるようになっているが、連れの理真はブーツなので私は自分のスニーカーのみを入れた。理真は下段に設えてあるブーツ用の大きな下駄箱に脱いだブーツを入れ「さあ、飲んで食うぞ」と意気込んで廊下に上がった。
中々全員の予定が合わず、飲み会を開く都合がついたのは結局年の瀬も迫った日にちとなり、本当に忘年会も兼ねることとなった。通された座敷には、すでに亜麗砂が一番乗りで座っていた。
「あー、理真ちゃん、由宇ちゃん、こんばんはー」
いつものように、私たちに向けて付きだした両手の掌だけをひらひらと振る挨拶。
「あれさん、ありがとう、おかげで事件も解決の目処が立ったわ」
「ううん。私なんて何にもしてないよー。理真ちゃんの力だよー」
理真のお礼に亜麗砂は、顔の前で右手をぶんぶん振った。
「あとは丸ちゃんと絵留ちゃんだねー」
亜麗砂はテーブルの空席を見る。並べられた箸は全部で五膳。方々に声を掛けたが、理真、私、丸柴刑事、美島、そして亜麗砂と、参加者は全部で五名となった。女子だけでやろう、との丸柴刑事の提案で、男性陣との忘年会はまた別に設けることになった。(もしかしたら新年会になるかも……)
私と理真も席に着き、飲み放題メニューを眺めていると、聞き慣れた〈着信音1〉が狭い部屋に響いた。鞄から携帯電話を取りだしてディスプレイを見た理真は、「あ、丸姉」と発信者の名前を言ってから着信を受けた。
「もしもし、丸姉、今どの辺……うん、うん……」
理真はしばらく話を聞いている。
「うん、分かった。気を付けて……」
電話に出た時とは一変、曇った表情で理真は電話を切った。
「丸姉、事件で来られないって」
「えー」亜麗砂が残念そうな声を上げ、「じゃあ、絵留ちゃんも?」
「うん、科捜研だけ飲みに行くわけにはいかないしね」
「そっかー……」
「仕方ないね。刑事の宿命だよ」
理真はもちろん丸柴刑事の仕事に理解を示しているが、表情は浮かないままだ。私も心底残念に思った。今夜は理真には色々なことを忘れて楽しんでもらおうと思っていたのに。
「どんな事件だとかは言ってた?」私は理真に訊いた。
「うん、何の変哲もない普通の事件だって」
「じゃあ、理真が出馬要請を受けるような事件じゃないってことだね」
「そうね。随分人数が少なくなっちゃったけど。……始めようか」
理真が店員を呼び、とりあえずと全員にビールが運ばれてきた。ビールが来る間も、理真の表情は曇ったまま晴れることはなかった。これは恐らく……
「じゃあ、乾杯といこう」
「ちょっと待って理真ちゃん」
ジョッキを持ち上げた理真を亜麗砂が制した。
「何? あれさん」
「理真ちゃん、事件を捜査してる間は禁酒って決めてるんだよね」
理真は静かにジョッキを置いた。
「理真ちゃんも気付いてるんじゃないの? 丸ちゃんが本当は理真ちゃんの助けを借りたいって思ってること」
私の考えていたことを亜麗砂が口にしてしまった。
「丸姉、気を遣ってくれたんだよ」
「それでいいの?」亜麗砂もジョッキを置いた。
私は何とか亜麗砂の口を止める手立てはないか考えていたが、焦っているせいか、何も思い浮かばない。二人のやりとりを黙って見ていることしか出来なかった。
「私のことは気にしないで、丸ちゃんに電話しなよ」
亜麗砂の言葉に、理真は大人しく携帯電話を取りだしダイヤルする。やめろ。事件の痛手を癒すため、忘れるための忘年会だ。三人だけでも楽しく飲めばいい。だが、その言葉が出てこない。
「……もしもし、丸姉。……ううん、違うの。ねえ、本当はどんな事件なの?」
「……密室殺人事件だって。明らかな他殺体がマンションの部屋で発見されたそうよ。この被害者が、ちょっと曰く付きの人物で……」電話を終えた理真が、その内容を私たちに告げ、「ごめん、由宇、あれさん。私、行かなきゃ」
私たちの顔を順に見て、机に両手を付いた。
「ごめんね、あれさん」私も謝った。
「由宇はいいんだよ――」
「ワトソン抜きで現場へは行かせないよ」私は理真の言葉を制した。
「由宇……」理真は私を見つめてくる。
「捜査本部はどこに立つの?」と亜麗砂。
「西堀署だね」理真が返す。
「うちの店の近くね。じゃあ、明日にでもお弁当を差し入れに行くよ」
「ありがとう、あれさん!」
理真は亜麗砂に抱きついた。亜麗砂は理真の頭を撫でる。
「私を助けてくれたときの理真ちゃん、とてもかっこよかったよ。理真ちゃんは私のヒーローなんだから」
「うん、じゃあ、行ってくる」
理真はコートを手にした。私はすでに外へ出る準備は万端だ。
「あれさんはどうするの?」私は訊いた。
「せっかくだから、お店のバイトの子たちを呼んで飲むわ」
「じゃあ、私の奢り。遠慮なく飲み食いして」
コートを羽織った理真がウインクした。
「やったー。年下からの奢りだけど、ここは遠慮なく甘えておくわね。名探偵からの奢りだって言ったら、あの子たち驚くわ」
「じゃあ、あれさん」
手を振って見送る亜麗砂に声を掛けて、私と理真は部屋を出た。11番の下駄箱からスニーカーを出す。
「ねえ、丸柴さんには行くって言ってあるの?」
私は理真に訊いた。さっきの電話ではそんなことは言っていなかったと思ったが。
「言ったら絶対来るなって言われるに決まってるよ。サプライズで押しかけてやる」
店の外に出た理真は、タクシーを拾うため、きょろきょろと道路を見回す。
私は安堂理真を、名探偵というものを理解してはいなかったようだ。やはり野に置け蓮華草。そんな言葉が頭をよぎった。
空車のランプの付いたタクシーに向け高く手を挙げた理真を、ヘッドライトと夜のネオンが照らし出した。
お楽しみいただけたでしょうか。
アガサ・クリスティの「ABC殺人事件」を初めて読んだときの衝撃は忘れられません。この大傑作のプロットは以来、「ABCパターン」と呼ばれ、多くのフォロワー作品を生み出しました。
「自分でも『ABCパターン』を書きたい」と思い、「日本人なら『いろは歌』でしょ」と、いろは殺人のプロットを、うんうん唸りながら構築し始めたのは、いつのことだったでしょうか。「やっぱり無理だ」と何度も投げ掛けましたが、どうにかこうして形にすることが出来ました。諦めずに続けていれば答えは見つかるのです。やはり、ポイって今日を投げ出しては駄目なのです。
ちなみに、「ABC」に相当するものは本来「五十音」なのでしょうが、「殺人鬼あいうえお」ではあまりに間抜けすぎるため、やめました。
プロットは非常に魅力的なのですが、実際に「ABC殺人」を遂行しようとすれば、種々様々な難関が立ちはだかることは明白です。これについては、作家、都筑道夫のエッセイ集「黄色い部屋はいかに改装されたか?」において、もう何十年も前に都築が考察しています。
作中で織田刑事や理真が指摘した「ABC殺人の問題点」は、ほぼ全て「黄色い部屋~」の都築の考察そのままです。「ABC殺人」を書くに当たって、都築の考察を無視することは不可能ですので、丸写しに近い形になってしまいましたが、「黄色い部屋~」の内容をそっくり使わせていただきました。
織田刑事や理真の考察に「なるほど」と納得された方がいらっしゃったのであれば、それは作者が偉いのではなく、都筑道夫が何十年も前にとっくに通った道なのです。ですが、こういった足かせが始めからあったからこそ、「殺人鬼いろは」を生み出せたと思います。
そもそも、「ABC殺人事件」がなければ本作が生み出され得なかったことは言うまでもありません。様々な優れた作品、論考を残してくれた先人たちに最大限の敬意と感謝を表して、あとがきの幕とさせていただきます。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
主要引用、参考文献
「ABC殺人事件」 アガサ・クリスティー(著)
※各社刊ありますが、本作の直接の参考は、「早川書房 クリスティー文庫 堀内静子(訳)」版を使わせていただきました。
「黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版」 都筑道夫(著) 小森収(編集) フリースタイル
「カウンセラーは何を見ているか」 信田さよ子(著) 医学書院
「図解雑学 よくわかる心理カウンセリング」 福島哲夫(監修) ナツメ社
「被害者のトラウマとその支援」 藤森和美(編) 小西聖子(序文) 誠心書房




