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40話 参謀の愛読書

窓の外は、夜の気配が濃くなっていた。

我々魔族は夜こそ活動を好むものが多く、この時間の城塞はやや騒がしい。だが、我が執務室は嵐の目のように静か。どの時間であれ、例外なく。


静寂な室内に、書類を捲る音だけが響く。


最近は、朝から仕事が溢れかえっている。

まもなく開戦の気配が濃い戦況の整理、補給の調整、そして“航路”決定のための備蓄魔力量の確認。


そして何より──異邦人改め、新人幹部・ユウカの指導。


本日は日中の彼女の指導が終わり、他業務もひと区切りがついた。未だ残務はあるが、束の間の休息をとっても良いだろう。


机を撫で、書類の山を魔術で消す。代わりに虚空間から取り出したのは、一冊の分厚い書物。


最近の愛読書といっても過言ではない──その書物のタイトルは『人間の飼育』。


この指南書を読む理由は単純だ。私の管理下にある、脆弱で、手のかかる人間・ユウカの正しい管理・運用のため。


脚を組み、静かにページを捲る。


『人間は魔族に比して、著しく脆弱である。肉体は魔力の干渉に耐え得ず、精神は環境変化により容易に崩壊する。ゆえに、器を強化するためには定期的な魔力注入を行うこと』


『注入は過剰を避け、均衡を保つことが肝要である』


私は文字に目を落としたまま唇を撫で、思い返す。ティーカップに口をつけ、柔らかな笑みを浮かべていた少女を。


毎日、私の魔力を高濃度で含ませた薬湯を飲ませているが……今のところ、拒否反応は出ていない。魔力量は適切。味は優秀な料理人ブルゴの尽力で、嗜好品に寄せることに成功しているようだ。


彼女の体内で、細胞が魔族のそれに近しいものへと書き換わっていく様を想像し、意図せず口元が緩む。 器の強化は順調といっていいだろう。


満足げな笑みを浮かべ、次のページへ進む。


『睡眠は一日八時間以上を確保せよ。疲弊は判断力を奪い、命令遂行に支障をきたす』


……八時間。ため息が漏れる。


ユウカの睡眠時間は、どう計算しても五時間前後が常態化している。

なぜだ? 口頭で注意をしても、来る日も来る日も「夜更かししてしまいました」「考え事をしていて」などと言い訳をし、挙げ句の果てには「そんなに寝なくても大丈夫です」などとぬかす。


顎に指をあて、思考する。

私は規則からの逸脱を好まない。規則が破られる原因は、必ず管理側にある。ユウカの睡眠不足が常態化しているのは、彼女の怠惰ではない。彼女が規則を守ることに、私への服従と同等の価値があると認識させていない……つまり、己の指導の失敗だ。


『……最も強固な鎖は、対象の心が生み出す「依存」である』


書物の一節が、目に留まる。


彼女は私の魔力に依存し始めている。いずれその身は、私なしでは生きられなくなるだろう。

しかし彼女の精神は、未だ完全には私の支配下に入っていない。そうでなければ、なぜ私の指示を無視してまで夜更かしを続けるのか。


私は静かに本を閉じ、胸中に湧き上がる苛立ちを鎮める。


指導を強化するしかない。

今宵は、明日からの指導方針を徹底的に見直す必要がある。このままでは開戦時に、私の成果が台無しになる…。


手始めに、睡眠導入のための魔術でもかけるか? いや、それでは根本的な解決には──なにか、新たな指導方法は──


その時だった。


ビリビリッ!

空気が裂けるような異常な魔力の歪みが、執務室を襲った。


「……!」


私は書物をその場に置き、即座に立ち上がり臨戦体勢をとる。その魔力の奔流は、巨大で制御不能な質量だ。何者かの侵入か──執務室ここまで!?


次の瞬間、私のデスクの上空に、黒い衝動が現実となって現れた。空間が黒く歪み、こじ開けられ、そこから吐き出されるようにして──


「わっ」


二つの影がもつれ合うようにして、空中から降ってきた。


ドザドザッ!


書類が舞い、インク壺が倒れる。その二つの影は──1つは、ヴァルト。その腕の中でぐったりとしているのは……ユウカ。


「…………は?」


思考が一瞬、停止した。何が起こったのか、すぐに把握できなかった。脳が理解を拒んだともいえる。


──なぜ、私の執務室に?なぜ、就寝中のはずのユウカが??なぜ、ヴァルトと共に???


「お!成功だ」


明るい声。ヴァルトの声だ。 思考と動きを停止している私の目の前、デスクの上で。巨人の少年が、瞳を輝かせ立ち上がる。


ずる、と。


その拍子に、ユウカの身体が傾き、デスクからずり落ちそうになり──


「ッ!」


私は反射的に、その小さな身体へ手を伸ばし、咄嗟に受け止めた。


腕の中に落ちてきた、軽い重み。 自身の体温が、ただでさえ低いそれが、恐怖ですうっと低くなっていくのを感じた。


すぐさま溢れ出そうになる殺気を必死に堪え、まずは腕の中の存在を確認する。


「ユウカ……ユウカ!」


絨毯の上に下ろして体勢を安定させ、声をかける。


腕の中でか弱い少女が呻いた。顔色は紙のように真っ青だ。ぼんやりと視点が定まらず、意識が混濁しているようだ。 しかしその琥珀の瞳が震えるように開き、私を見つめる。


私は震える指先を彼女の首筋に当て、脈を確認する。トクトクと、早いが確かな鼓動。


「───っ」


私は小さく息を吐く。焦点も、脈も問題なさそうだ。顔色が悪いし、魔力は乱れているが、命に別状はない。


安堵が胸を撫で下ろすと同時に、どす黒い感情がマグマのように噴き上がった。


「俺さぁ」


頭上から、場違いに明るい声が降ってきた。

デスクの上で胡座をかいたヴァルトが、ニコニコと笑っている。


「誰かとワープ、成功したことなかったんだよ!」


無邪気な報告。私の執務室を荒らし、私の管理下にある少女を危険に晒し、あまつさえ死にかけていた彼女を前にして、「成功」だと?


プツン、と。私の中で、理性の糸が焼き切れる音がした。


「ユウカ。……お前には回復次第、経緯を説明させる」


私はユウカを抱き上げ、ソファに丁寧に寝かせると、凍てつく声で告げた。彼女がカタカタと震えているのを尻目に、ゆっくりと振り返る。


「ヴァルト……」


「ん、なあに? イグさん」


私の全身から溢れ出る殺気にも首を傾げ、ヴァルトは笑いながら首を傾げた。


私は虚空から、氷の剣を抜き放った。刀身から放たれる冷気が、部屋の空気をピキピキと凍らせていく。


「───表に出ろ」


地獄の底から響くような声で宣告すると、ヴァルトは目を丸くして──その赤い瞳を三日月のように細めて笑った。



「いいの!?」


嬉しそうに赤い瞳を丸め、すぐににんまりと、心から楽しそうに嗤うヴァルト。


──ちょっとどうかしてると思う。あなたその前に、私に言うことあるんじゃない?


イグナレスのかたわら、ソファの上で。彼が抜き放った氷の刃の放つ冷気に晒されて鳥肌をたてながら──私はそんなことを考えていた。まだ反響するみたいに、ぐるぐるとする頭で。


ヴァルトはイグナレスのデスクの上の書類やインク壷を蹴飛ばすようにして立ち上がり、楽しくて仕方ないと言うように、背中の大剣の柄を撫でた。


「中庭?訓練場?」


「どこでもいい。お前の墓場だ、お前が決めろ」


にこにこと尋ねるヴァルトに、完全に眼光の開き切ったイグナレスが、ゆらりと立ち上がりながら答える。


こ、これ、まずいやつでは。もうすぐ重要な戦争だって、イグナレスは口を酸っぱくして言っているのに。おそらくこの軍トップクラスの戦力を誇る参謀と幹部が、本気で削り合うのは、さすがにまずすぎるのでは。でも、今の私には声を張り上げる余力すら残っていない──


その時だった。


バンッ!!と。

執務室の扉が乱暴に開かれた。


「イグナレス様!!」


飛び込んできたのは、顔面蒼白の伝令役の魔族だった。角と羽が生えているが、フォーゲルみたいな鳥人というよりはもっと魔族寄りみたいな見た目。

彼は部屋に充満する濃密な殺気に当てられ一瞬震え上がったが、健気にも声を張り上げた。


「いっ、イグナレス様、伝令がっ」


「後にしろ」


イグナレスは振り返りもせず冷たく吐き捨てた。背中から放たれる殺意だけで、伝令役の心臓が止まりそうだ。


「聞こえなかったか?取り込み中だ」


「ひぃっ……!で、ですがっ、へ、陛下から……魔王陛下からの、緊急の呼び出しが……!」


ピタリ、と。

イグナレスの動きが止まった。氷の剣から放たれていた冷気が、ふっと霧散する。


「……陛下から?」


「は、はい! 『イグナレスに至急、謁見の間へ来るように』との仰せ!」


数秒の沈黙。イグナレスのこめかみに、青筋がピキリと浮かぶのが見えた。彼は深く、深く息を吸い込み──そして、吐き出した。


「……今、向かう」


彼は氷の剣を虚空へと消した。殺気は収まったが、その表情は能面のように硬いままだ。明らかに、怒りを無理やり飲み込んでいる。


「なんだぁ。つまんない」


ヴァルトが不満げに口を尖らせ、デスクの上でだらりと座り込んだ。

イグナレスは、そんなヴァルトを鬼のような形相で見下ろし、指を突きつけた。


「いいか、ヴァルト…よく聞け」


とんでもなく低く、ドスを効かせた声。


「ユウカを部屋まで送り届けろ。……そしてその後、一切構うな」


「えー?」


「彼女はとうに睡眠を取らなければならない時間帯だ。貴様のせいで死にかけて、疲弊しきっている。……それと」


イグナレスの瞳が、鋭く剣呑に光る。


「ユウカとの同行ワープは、私の許可なく行うことを固く禁ずる。……私の命令していないことをするなと、何度言ったら分かる」


「はーい」


「……いいか?もう一度言うぞ」


イグナレスは、ヴァルトの顔の前に顔を近づけ、一言一句を噛み締めるように言った。


「ユウカを、部屋まで、送り届けろ。その後、構うな」


「わかったってばー」


ヴァルトはデスクに座ったまま、行儀悪く足をぶらぶらとさせ、頬杖をついて答えた。

そのあまりに緊張感のない態度に、イグナレスは頬を引きつらせた。


そして、ゆらりと。ソファでぐったりしている私の方へ向き直る。

その瞬間、彼の表情から鬼のような険しさが消え、静かで──どこか疲れを滲ませた表情に変わった。


「ユウカ」

「は、はい……」

「のちほど体調を確認しに行きますが……気にせず眠っていなさい。詳細な事情は、明日確認します」


彼はそう言い残すと黒いマントを翻し、足早に部屋を出て行った。


バタンと扉が閉まる音が執務室に響く。


取り残された私とヴァルト。そして放心状態で震え、へたり込んでいる伝令の魔族。


「……行っちゃったね」


ヴァルトがデスクから飛び降り、私の元へ歩み寄ってきた。コキリ、と首を傾げる。


「大丈夫? ユウカ。立てる?」


「うん……なんとか」


まだ足元がふらつくけれど、命に別状はない。 ヴァルトは私を支えるように手を貸してくれた。


ヴァルト…まったく悪びれなく…割とあなたのせいでこうなったと思うんですけど…と言いたかったが、もう口を開くのも億劫だった。


「送ってくよ。イグさんに怒られちゃうし」


「うん……ありがとう」


私はヴァルトに支えられながら、執務室を後にした。


廊下に出ると、夜の魔王城はいつもより騒がしかった。

陛下からの緊急招集。それも、参謀であるイグナレスだけを指名して。 ただ事ではない空気が、肌を刺すように漂っていた。


──何があったんだろう……?


不安が胸をよぎるけれど、もう本当に話す元気もないのだから。今の私にできることは、イグナレスの言いつけ通り、部屋で大人しくしていることだけだろう。


「じゃあね、ユウカ。おやすみ」


部屋の前まで送ってくれたヴァルトは、イグナレスの言いつけを守り、部屋の中には入ってこなかった。手を振って去っていく背中を見送ることもできず、私は扉を閉めた。

ベッドに倒れ込むと、どっと疲れが押し寄せてきた。重い瞼を閉じる。ふと、イグナレスの最後の言葉が蘇った。


後ほど、確認しに行きますって。本当に来るのかな。起きてた方が良いのかな。


なんて一瞬思ったけれど、もちろんそんなことをできるわけもなく。私は睡魔に身を任せて泥のように眠った。


イグナレスの最近の愛読書の内容、一部抜粋。


『人間の飼育』


第一章 基礎管理


人間は魔族に比して著しく脆弱である。肉体は魔力の干渉に耐え得ず、精神は環境変化により容易に崩壊する。

ゆえに、器を強化するためには定期的な魔力注入を行うこと。注入は過剰を避け、均衡を保つことが肝要である。魔力は揺らぐ。心が折れれば、すべての施策は無に帰す。



第二章 精神安定と従順化


人間を従わせるには、強制のみでは不十分である。報酬と制約を巧みに用いること。

過度な恐怖は反抗を招き、過剰な甘やかしは依存を生む。均衡を保つこと。言葉と態度に一貫性を持たせ、命令は明確に。混乱は不信を生む。



第三章 生活管理


食事は繊細に気遣うこと。人間は嗜好と体調に左右されやすく、粗雑な扱いは拒絶を招く。

睡眠は一日八時間以上を確保せよ。疲弊は判断力を奪い、命令遂行に支障をきたす。衣服・居所は清潔を保ち、寒暖差を避けること。



第四章 教育と言語


命令を理解させるため、最低限の読み書きを教えよ。無知は混乱を招き、混乱は暴発を生む。言語教育は支配の基盤である。理解なき従属は長続きしない。



第五章戦場での扱い


人間を戦わせるな。武器を握らせるな。彼らは戦闘に不向きであり、死は資源の損失である。加護と補助に専念させよ。生存こそが価値である。



第六章 廃棄処分


不要となった場合、(以下、黒いインクで潰されている)


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