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38話 囚人改め、補佐官として


「ここがお前の処刑場だ!」と私に言った人が、その翌日に直属の上司になった。 おまけに、とヴァルトがその人を半殺しにした後…私は「あなたが好きです!」と告白してしまった。


冷静に考えて、気まずいどころの騒ぎではない。

今、私はその人、イグナレスの執務室にいる。

かつて私の処刑執行人になる予定だった現在の上司に、肩が触れ合うような距離で資料を読み聞かせてもらいながら…。


──イグナレスさんは、どうしてこんなに平常心でいられるんだろう…。


気まずいとか虫唾が走るとかマジで無理だとかそういう感情はないのだろうか。私は彼のことが好きだから、隣にいられるのは嬉しい。でも、彼は?と思うと不安になるし、これ以上嫌われたくないとも思う。

ふと顔を上げると、冷ややかな視線と目が合った。


「……聞いていますか」


「ひっ、は、はい!」


「嘘ですね。視線が泳いでいる」


冷たい指摘に、私は冷や汗をかいた。バレている。彼の説明が右から左へ抜けていたことが。


「はぁ…集中力が途切れたようですね」


イグナレスは呆れたように資料をデスクに置き、立ち上がった。


「中庭にでも出ましょうか」


「え? あ、はい……」


気分転換だろうか。意外だ。グレイナからは「兄様は仕事中は執務室からほぼ出てこない」と聞いていたのに。ともかくこの密室で、世界一気まずい彼と二人きりという状況からは解放される。 私は我先にと扉へ向かおうとしたが──ガシッと。イグナレスに腕を掴まれた。


「ついでに、『同行ワープ』の訓練をします」


「えっ……?同行ワープ…?」


同行ワープって何ですか?と聞く暇もなかった。長い腕に軽く引かれ、そのまま静かに引き寄せられる。ボスン、と彼の胸に抱き寄せられる形になった。


「っ!?うぇ!?なんですか!?」


「騒がない。同行ワープとは、言葉の通り空間転移です」


イグナレスは密着したまま、淡々と説明を続ける。


「戦場で魔族と共に移動する際、魔力の同調ができなければあなたは置いていかれる。そのための訓練です」


「あ…移動魔術のこと、ですか?」


私はふと、シオさんの温かな手の感触を思い出した。


「それなら、シオさ……王都の魔術師の方と、一緒に何度かやったことがあります。たしか手をつないで……」


フッ、と。頭上で、冷ややかな失笑が落ちてきた。


「一緒にしないでください」


見上げると、イグナレスは目を細め、馬鹿にしたように鼻で笑っていた。


「人間の使う軟弱な魔術による移動と違い、我々魔族のワープは純粋な魔力量で空間をこじ開けるものです」


空間をこじ開けるって…要は力技で無理やり解決してるということではないだろうか。人間とワープしたほうが安全そうだな……嫌だな、魔族とワープするの……と考えてしまった。 ふと、最初にヴァルトに会った時の言葉が蘇る。 『俺とワープしたら死ぬと思うよ』……。


すーっと背筋が冷えた。え、やっぱり嫌だ。怖い。


「高い魔力の者が加減せずにやると、同行者の精神に影響が出ます。最悪、神経が焼き切れる可能性がある。……ですから、加減が重要です」


「っ……!」


イグナレスが、私の腰に手を回した。逃がさないように。あるいは、魔力で包み込むように。


「あっ、あの、それ。今やるんですか? あと、必要、ですか…?」


「今やります。あなたが戦場で生き残るために必須の技能です。……呼吸を整えて。ワープのコツは、術者に身を委ねることです」


回避は無理そうだ。戦場で必要なら仕方ない。私は覚悟を決めて、必死に頷いた。


「い、いけます!」


「よろしい」


イグナレスの冷たい手に、少し力が込められる。密着度が高まる。彼の心音が聞こえそうな距離。


「飛びますよ」


世界が白く弾けた。音が消え、重力が狂い、視界がねじれる。胃が裏返りそうな浮遊感──でも、痛みはない。思ったよりも、苦しくなかった。


トン。


次の瞬間、冷たい石畳に靴が触れた。 頬を風が撫でる。目を開けると、そこは中庭だった。一瞬で、執務室から移動したのだ。


「……着きました。吐き気は?体調に変化は?」


「な、ないです……」


ほっとしたら、急にこの密着している距離が気になってきた。イグナレスの腕の中に、すっぽりと収まっている私。


「……心拍数が異常に高い。おかしいな」


イグナレスの金の瞳が怪訝そうに細められる。心拍数って……胸を押し付けているから、私の心臓の音が伝わっているのか!


「っ!だ、大丈夫です!」


恥ずかしさでパニックになり、私は慌てて彼から身を離した。その瞬間、足がもつれてよろける。イグナレスの腕が即座に伸び、私を抱き留めた。


「同行ワープの練習は、今後も引き続き行います。……次回は、もっと落ち着いて」


冷たい声なのに、支えてくれる腕の力は驚くほど優しかった。私の心臓はさらに暴れ、耳まで熱くなっていくのがわかった。



その日は執務室に戻ると、今後の業務を簡単に教えてもらった。


私の仕事は、イグナレスの横で文字を覚え、最低限の知識(基本的な魔族の知識と、この魔王軍の規則など)を蓄え、簡単な書類の仕分けをし、とにかく彼の指示に従って動くことらしかった。

それとは別に同行ワープの練習、実戦で行う加護の付与の練習…。結構、やることが多い。でもきっと、仕事ってそんなものだろうなと思う。私はまだ学生だし、アルバイトもやったことないから分からないけれど。


「本日の業務は少し早いですが、ここまでとします」


イグナレスはまだ執務室に残るようだが、私は自室に戻ってよしと言われた。

管理時代は、イグナレスと会うのは基本的に夕食時だった。彼が尋問みたいなヒヤリングをしに食事を持って私の部屋を訪れていたので。

日中一緒にいて、夕食時に別れるのはなんだか変な感じだ。


「夕食は、これまで通り自室で摂りなさい」


イグナレスが資料に目を落としたまま私に告げた。


「え。食堂、あるんですよね? 行ってみたいんですけど……」


私は控えめに希望を主張してみた。

せっかく仲間になれたんだし、もっとここにいる魔族と関わってみたい。食堂での食事は、その絶好の機会ではないだろうか。


「ユウカ……」


イグナレスは、分からず屋の子供に言い聞かせるように、ため息交じりに言った。


「魔族の食堂はですね。ゴブリンが血酒を運び、オークが血肉を撒き散らしながら生肉を齧る場所です。毒草を好むものもいれば、食事から立つ湯気だけであなたが昏倒するような劇物を食すものもいる」


「…………」


「そんな場所で、人間あなたがまともに食事ができると思いますか?」


「……思いません」


「よろしい。部屋で待っていなさい。これまで通り、ブルゴにあなた専用の食事を用意させます」


「はい……」


私が肩を落として頷くと、イグナレスは満足そうに口元を緩めた。



翌朝。


私は指定された時間より少し早く、執務室の扉を叩いた。


「入りなさい」


「失礼します……」


すると、昨日別れた瞬間からまったく変わらない様子でイグナレスが資料に羽ペンを走らせていた。彼、休んでいるのだろうか?


「……予定より一刻ほど早いですね」


イグナレスが視線を上げる。冷たい瞳が私を射抜く。


「人間は8時間以上の睡眠が必要でしょう。昨日は何時間の休息を取りましたか?」


「え、えっと……5時間くらいです。ちょっと緊張してて……」


「愚か者」


ピシャリと叱られた。


「加護の精度は休息に影響されるはずです。あなたの体調管理も私の仕事だと言ったはずだ。今夜は必ず守りなさい」


「え……あ、はい……」


──人間の睡眠時間のこと、魔族のイグナレスさんがなんでそんなに詳しいんだろう……。


あと、いくらなんでも過保護すぎではないだろうか。囚人として管理されている時より、今のほうが管理が厳しい気がする。私はこの世界に飛ばされる前だって、8時間も寝てなかったと思うけど。


イグナレスは指で払って読んでいた資料を消し(どこかへ移動させたのだろう)、今度は机を撫でた。すると、机の上が歪みどこからか現れた地図がバサリと広がった。


「こちらへ来なさい。想定される戦場の地形や戦況の確認をします」


執務室の机いっぱいに広げられた地図は、見慣れない地名と複雑な線で埋め尽くされていた。


「まずはこの地図を覚えなさい」


イグナレスの長い指が地図の上を滑り、赤と青の小さなピンを示した。


「赤は敵軍の布陣、青は撤退点です。撤退点とは、戦況が悪化した際に味方が集結する安全圏。あなたはいずれ戦場に出るので、この位置を理解していなければ命を落とす」


「……はい」


命に関わると言われ、私は緊張して地図を覗き込んだ。


「えっと……赤が敵で、青が逃げる場所……」


私は赤いピンを取り、地図の端に刺した。


「そこは補給路です。敵の本陣ではない」


「ご、ごめんなさい!」


「覚えればいい。謝罪より修正を」


イグナレスは私の手からピンを抜き取り、正しい位置に刺し直す。その時、彼の手が私の手に触れた。ひやりと冷たい。


「敵軍はここ。王都軍の進軍路はこの線。撤退点はここと、ここ。……あなたが加護を与える護衛隊は、このルートを通ります」


私は必死に頷きながら、今度は青いピンを握りしめる。


「……この青、ここでいいですか?」


「ようやく正解です」


イグナレスの声が、耳元で響く。


「記憶しなさい。赤と青の位置は、あなたの生死を決める。……あなたを単独行動させるつもりはありませんが、戦場では何が起こるかわからない。あなたが自分の足で逃げなければならない時も来るかもしれない」


冷たい声なのに、その言葉は妙に重く響いた。私は地図を見つめながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。


彼は、本当に私の命を守ろうとしてくれている。嫌いと言いながら、こんなにも真剣に。


──頑張らなきゃ……想いに、答えたい。


私は地図上の「赤」と「青」を、脳裏に焼き付けようと必死に見つめた。


「……ユウカ、よく聞きなさい」


地図の講義を終えたイグナレスは、地図をデスクの脇に寄せると、真剣な眼差しで私に向き直った。


「私があなたをこうして手元に置き、直接指導できるのは……あくまで開戦までの僅かな期間です」


「開戦、ですか?」


「ええ。陛下の予測では、人間側の侵攻準備はほぼ整っている。本格的な戦争が始まるのは、時間の問題です」


イグナレスの声が低くなる。


「戦争が始まれば、あなたは…異邦人の加護を付与するため、最前線へ出撃することになる。私の目の届かない場所へ行き、ヴァルトと共に戦場を駆けることになるのです」


「……はい」


ヴァルトと一緒に戦えるのは心強いけれど、イグナレスの元を離れることには、少しだけ不安がよぎった。


「だからこそ」


イグナレスは、私の手を強く握りしめた。その手は冷たいけれど、力がこもっている。


「それまでの間に、あなたを徹底的に仕上げます。戦場で死なないための知識、加護を使いこなす技術、そして……」


彼は言葉を切り、静かに金色の瞳で私を覗き込んだ。


「何があっても壊れない、頑丈なからだを作らなければならない」


「器……?」


「体力の向上という意味です」


彼はさらりと流し、私から手を離すと、ぱちんと指を鳴らした。空中に魔法陣が浮かび、そこから再び、濃厚な香りのする琥珀色の液体が入ったティーカップが現れた。


「これを飲みなさい」


コト、と私の目の前に置かれる。それは、紅茶というよりは…とろりとした、黄金色のスープのような液体だった。甘く、どこかスパイシーな…嗅いだことのない香りが漂っている。


「これは……?」


「滋養強壮のための特製薬湯です」


イグナレスは頬杖をつき、淡々と言った。


「あなたの肉体はあまりに脆弱だ。戦場への同行はおろか、日々の激務にすら耐えられないのでは困る」


「うっ……すみません……」


「ですから、肉体自体の強度を底上げする必要があります。さあ、冷めないうちに」


「は、はい……」


つまりめちゃくちゃすごい栄養ドリンクということだと理解した。

私は恐る恐るカップを両手で包み、口をつけた。初めて口にする、おそらく、魔族の飲み物…。


「……っ!」


ひと口飲んだ瞬間、カッと喉が焼けるように熱くなった。

味は甘くて美味しいけれど、胃に落ちた途端、すごい熱量が指先まで駆け巡るようだった。ドクンと心臓が大きく跳ねる。


「んっ、ふぅ……!?」


「どうしました」


「あ、熱くて。なんか、体が痺れるみたいで……」


「初めての摂取ですからね。多少の刺激はあるでしょう」


イグナレスは表情ひとつ変えずに言った。じっと、見つめられている。なにかを確認…いや、見張るみたいに。


「残さず、飲み干しなさい」


私は彼の視線に急かされ、ちびちびとその液体を飲み干した。

飲み終わる頃には、身体の芯からポカポカして、鉛のように重かった疲労感がなんだか軽減されているようだった。

ただ、自分の体が自分のものではないような、ふわふわとした奇妙な浮遊感が残る。


「……ふむ」


イグナレスが立ち上がり、私のそばに来た。そして何の前触れもなく、私の首筋に冷たい手を伸ばした。


「ひゃ!?」


「動かない」


彼の長い指が、うなじから鎖骨にかけて、ゆっくりと滑り降りる。冷たいのに、触れられた場所が熱い。


「……イ、イグナレスさん?」


「じっとしていなさい。脈が乱れています」


彼は不満げに呟き、指先に少し力を込めた。 ドクン、と。彼からの魔力が、肌を通して直接流れ込んでくる。


「んっ、ぁ……!?」


異物が体に入ってくる感覚に、思わず声が漏れる。おかしい。肌に触れられているだけなのに。なんだか怖い。食べられてしまいそうな圧迫感。私は椅子の肘掛けをぎゅっと握りしめた。


「怖がることはない。あなたの魔力回路を、少し整えているだけです」


彼は私の耳元で、優しく囁いた。


「は、はい……」


私はゆっくりと、体の強張りを解く努力をした。彼の言葉を疑う余地などなかった。

これは仕事だ。指導だ。私のためにやってくれていることだ。そう信じて、私は彼のなすがままに身を任せた。




次回 嵐の前の修行期間

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