第20話(1)
アレクサンドラは飲食も睡眠も疎かに、誰よりも早く登庁し、日中は職員から隠すように、日が沈んでからも連れ戻されるまで骨身を削り、驚異の集中力で紙上に目を凝らし続けた。
記録をとうとう確認し終えた時、さすがの彼女も盛大な溜め息とともに目元を覆い、机に突っ伏した。
分からなかったことと、分かったことが両方あった。
分からなかったのは、最初に偽物にすり替えた者が誰か。
リーディアが認証を行う前は、遡ること過去3年に限っても相当な数の使用者がいて、もはや目星を付けることもできない状況だった。
また、渦中の商人が印章を登録してから、認証を受けたのは今回が初めてである点も不可解だった。
商人を名乗りながら、何年もまともな商取引をしていなかったのだろうかという疑念が湧いた。
そして分かったのは、認証後は、該当の台帳を使用して認証を行った者は誰もいなかったということだった。
それはつまり、とアレクサンドラはゆるゆると顔を上げた。
認証記録に書き落としがないことが前提ではあるが、台帳に最後に触れた者は、確認できる範囲ではピョートルになる。
代わりに片づけてくれたとリーディアが確かに発言し、ピョートルもそれを認めた。
人目を忍んで行動した誰かがいない限り、本物の台紙を堂々と台帳に戻す機会があったのは彼だけになる。
認証前の台帳使用者の中にも、ピョートルの名前は存在した。
とても信じられない、とアレクサンドラは浮かび上がる予感から逃れるように再び両腕に顔を埋める。
混乱の極みにある彼女は、予感に言葉の形を与えることに抵抗した。
他に穴がないか探そうと試みるが、極限の疲労もあって、思考はこれ以上の検討を頑なに拒んだ。
アレクサンドラは捜査をする者ではない、その力も技術もない。
ゆえに、事実から導いた結論を覆すことはできなかった。
ピョートルが、公証内の共犯者として第一に疑うべき人物であることを。
悪足掻きなのは承知の上で、アレクサンドラは、台紙に署名をしていたもう1人の職員の人となりを、最も古株の、人事担当の上役に尋ねたが、結論の補強にしかならなかった。
もう1人の職員は既に元職員となっており、その原因はあまりにもミスが多く、勤務態度も不良で開き直る姿勢を隠さなかったためだという。
しかも、在籍時はピョートルと同じ所属におり、今でも親交があるという話を何人かが聞いている、ということだった。
ピョートルと、署名をした商人の血縁が繋がっている、決め手としては弱いが、状況証拠として採用できる要素は増える一方だった。
悩みに悩んだアレクサンドラは、意を決して父伯爵に、謝罪を含め、所々を奔走している多忙を承知で、調査の結果と導いた推測を打ち明け、司法の手に委ねるよう、大至急正式な捜査を依頼してもらいたいと頼み込んだ。
しかし、娘に極度に甘い父伯爵は、首を容易に縦に振らなかった。
傍らでは、母夫人がしきりにハンカチを目に当てている。
公証の内部に、詐欺の共犯がいるという醜聞が漏れたが最後、オルロフ家は公証の権能を剥奪される恐れが非常に高い。
父伯爵が公証長を降りるのは当然として、補佐のアレクサンドラへの継承も許されず、全く別の家、順当に行けばウリヤノフ家に権能が与えられることになるだろう。
またはオルロフの家名は維持した上で、セルゲイの子が養子に入り、血統的には傍系が権能を維持していく。
いずれにせよ、現オルロフの直系による継承は途絶え、セルゲイ叔父が公証を手に入れる結末が待つ。
疲れ、苦しそうな父伯爵や、涙に暮れる母夫人を見るのは忍びなく、彼女は言い募った。
このまま手を拱いていれば、皇妃にという話を強く持ち出されている以上、いずれ我々は権能を失う、私が皇妃を承諾すれば必ずそうなる。
ならば正式な申し入れを受ける前に、いち早く事実を日の下に晒し、不始末を真心からお詫びして、建て直しを固くお約束した上で、公証長の交代について国王陛下のご裁可を願うしかない。
「それでも剥奪と陛下がお決めになれば、それはご英断と諦めようではありませんか。
公証を……もし失っても、私達には伯爵家としての営みは残ります。私、まだ領地経営の方は全く教わっておりませんわ」
アレクサンドラが、彼女らしくなくわざと愛嬌良く首を傾げてみせると、母夫人が涙の下から途切れ途切れに言った。
「皇后陛下は、貴方に平穏無事な幸せを与えるべき、と仰ったわ。
どちらも本意ではない道だとしても、無理をして、公証の全てを背負って矢面に、茨の道を選ばなくても良いのよ」
与えるべきとは随分な詭弁だと、アレクサンドラは善良な母が胸を痛めたことに憤ったが、否定せず少し目を逸らして黙ったままの父伯爵も、思いは似通っているようだ。
苦労から逃がそうとする両親の思いやりに深く感謝しながら、アレクサンドラはきっぱりと言い切った。
「全く、お2人とも私を侮っておいでです。私にとっての茨がどちらであるかは明白ではございませんか。
私は次期交渉長となる者としてこれまで藻掻いて参りました。そのまま藻掻き続けるのが私の進むべき道だと存じます」
母夫人はわっと泣き出し、アレクサンドラが肩を包んで慰めていると、父伯爵はとうとう苦悩の溜め息とともに、司法の介入を承諾した。
*
「オルロワ嬢がどうしたのですか」
第1王子ニコライは、思わずカップを口から離した。
ソーサ―がカップを受け止め、カシャン、と軽やかで危うい音がしたが、その場の誰も気にした様子はない。
母皇后は優雅な仕草で焼き菓子を摘まみ、
「ですから、今でも皇妃候補に名を連ねている、と言いました」
と美しい歯の間に滑り込ませた。
「仰る意味が分かりかねますが。彼女は……公証はどうなったのです」
自分で言っておいて眉を顰めたニコライを、しかし母皇后は見ていなかった。
眼差しを、次に取り上げたカップの液面に専ら落としながら、
「公証は、まあそういうことです」
と曖昧に発して唇を付けた。
そういうこととはどういうことか。
母皇后が時折する、この煙に巻いたような物言いがニコライは好まなかったが、王族ゆえに嫌と指摘はできず、母皇后に問わない代わりに、ニコライも返答をしなかった。
情報の幾ばくかはニコライの耳にも入っていたが、もちろん全てではなく、真相は未だ闇の中だった。
積極的に推測するならば、アレクサンドラが公証の後継者から外れたということになるだろうが、オルロフの意思で外すことはまずあり得ない。
だとすれば、父国王がそう裁定したことになるのだろうが、ニコライはそれも違う気がした。
専ら両陛下、特に国王陛下が決定する事項については、ほとんどが政治判断であるゆえ、意向も含めて、子である自分達も何も知らされなかった。
親子の間柄であり、誰よりも近いはずの両陛下から愛情を受けたという意識はあるものの、養育・教育はそれぞれその役割の者が担うため、市井はもちろん、貴族よりも両親は遠い存在にあった。
しかし、母皇后が仄めかす時は何か裏があるのと同じように、父国王が、まだ補佐でしかなく実績のないアレクサンドラに、今回の事件の責任を取らせるように不適格の烙印を押すのは妙だと疑いを持つのは、やはり親子関係があるがゆえになせる技ではあった。
そして、ニコライの勘が正しく働いているならば、母皇后の「まあそういうこと」を、積極的に捉えてはいけないと、彼は結論付けた。
意図するところが伝わっていることを当然としている母皇后は、愛息子が前のめりになると思っていたにもかかわらず、口を噤んで反応を示さないことを不満に思った。
侍従などから、王子がアレクサンドラに未練を抱いていると報告を受けており、母の勘でもその通りだと確信していたが、嬉々とするどころか反抗的な色さえ伺える。
まさか、この期に及んでオルロワ嬢は嫌だと言い出すのではあるまいか。
せっかく状況変化の追い風を受け、伯爵夫人にも提案をしてあと一押しというところであるのに、肝心の本人が拒むとなれば、彼女のシナリオが崩れる。
次期国王の母となる者がこの娘をと定めた以上、世はすべからくその判断に沿って動かなければならない。
己の子であってもその例に漏れない。
しかし口には出さずに母皇后は、その代わりに眉を上げて居丈高に
「ですのでお早くお選びなさい。いつまでも我が国の皇太子の座を空位にしていてはなりません」
と半ば命じるように告げた。




