第19話(1)
「……お父様は、このことはご存知なのですか」
「いいえ、まだお話ししていないわ。これ以上負担をかけてしまうのは、と思って」
「そうですか。ではお母様はこのまま伝えないでいていただけますか。折を見て私からお話しします」
アレクサンドラが抑揚のない声で頼み込み、憔悴している母夫人をできるだけ優しく抱き締めてから、庁舎へと引き返した。
日はすっかり落ちていたが、アレクサンドラには外からの光は目に映らず、代わりに自分の中に燃える火だけが見えていた。
恐れ多くも王家に反抗するなど、貴族の端くれに過ぎない彼女には決して許されていない。
しかし受けた仕打ちがもたらした屈辱を、汚名を灌ぐ原動力に注ぎ込むのは自由である、何者にも縛られるものではない。
真相を明らかしなければ気が済まない、いずれにせよオルロフ家は責任を免れないが、それでも何が行われたのかを暴きたい。
巻き戻る前に彼女を支配していた冷酷さは、完全に失われたわけではなかった。
ただ今回は、その冷酷さの矛先を全て自分へと向け、一切の妥協を禁止した。
公証の執務室にて、管理責任者から借り受けた今回の台紙を睨みながら、この後どう行動すべきかを考え続け、最後には、先に戻るよう指示を受けが、主を置いて帰るわけにはいかないメイドが呼んで来た伯爵家の執事に旦那様と奥様のご命令でございます、と有無を言わさず連れ帰られた。
翌日、アレクサンドラはリーディアを執務室に呼び、件の台紙を見せてみた。
半ば予想どおりだったが、リーディアは「これじゃありません!」と非常に驚いた。
「署名のところが、インクが乾く前に触ってしまったみたいになっていたはずなのに、綺麗になっているし、それに印章も……こんなに複雑だったかしら」
「複雑?」
「ええ、もっと書体も読みやすくて、こんなに凝った装飾はなかった気が……」
リーディアの記憶が正しければ、認証時に見たものとは違うということになる。
戸惑いを隠せないリーディアに、アレクサンドラはこのことは誰にも、上司にも同僚にも話してはいけないと厳命し、次にアレクサンドラが行ったことは、ピョートルを呼んで来るようにという指示だった。
確認はしていないとはいえ、ピョートルが支援をしたのは事実であり、支援者にも確認が必要だというのが口実だった。
口実とはいっても誰がどう考えても必要な聴取であり、疑いを気取られる恐れはないと思ってのことだったが、頭の回転の速い彼が想像を超えて来ることもあるかもしれないと気を引き締める。
2人きりで会話したことは、巻き戻る前後問わず何度かあったが、明確な目的が定まった席で対面するのは初めてだと気が付き、アレクサンドラは、負けてはいけない、と唇を噛んだ。
アレクサンドラの密かな緊張に反し、平静と変わらぬ表情で入室してきたピョートルをソファに座らせ、アレクサンドラは用向きを説明し、当日の状況を教えて欲しいと伝えた。
ピョートルは「承知しました」と軽い調子で、自分が支援に駆けつける前と、台帳を片付けた場面以外は、リーディアの説明と基本的には同じ内容を話した。
「ありがとう、足労をかけたわね。彼女を支援していて、何か気になったことはあった?」
「特にございません。通常と変わらない手順を踏んでおりましたし」
アレクサンドラは聞き咎め、思わずその引っかかりに言及せざるを得なくなった。
「通常、ね。あなたのような優秀な者が、複数確認を怠るなんてどうしたの」
「複数確認?……ああ、認証時のルーティーンのことですか。リーディアが自白してしまったのですね。そうするとこれは状況確認ではなく事情聴取なのですか」
予想から外れた、慇懃無礼で際どい物言いにアレクサンドラは咄嗟に動揺を押し隠した。
巻き戻る前に何度も言い争った時も、激化すると言い方は酷く荒く乱暴になった。
しかし、その乱暴さは自分を始めとした職員達の、円滑な業務遂行を、現場に無知な新米補佐から守ろうとした責任感ゆえのものだった。
今のこれはそうではない、不手際を知られての投げやりの形だった。
何とか微かに眉を顰めるだけに留め、回答を促す。
「酷く急いでいたものですから。リーディアが対応したのは、それはもう苦情の多い方で、少しでももたつくとすぐに怒鳴る問題の多い方だったので、彼女が理不尽な罵声を浴びないように急いだのです。
臨機応変に、ルーティーンに目を瞑るというのは皆していることですので」
あっけらかんと答えたピョートルは、ふと心配そうになって、「ところで、今回の処分はどうなるのでしょうか」と尋ねた。
「そうね、処分については私ではなく公証長が決めることだけれど、何らかのお咎めはあると思います」
「まさか私にも、ですか」
「それは、分からないわ。今のところは」
それを聞いたピョートルはあからさまな溜め息を吐いて、
「実際にミスをしたのは私ではないないのに、私も処分を受けるのですか。それでは割に合いません。報奨は不十分なのに懲罰は十分というのは、皮肉でございますね」
と嘆いた。
アレクサンドラは沈黙を保つ以外の所作が取れなかった。
目の前の彼は本当にピョートルなのかという戸惑いが、アレクサンドラの胸中に満ちていた。
以前は、わざわざ出頭に同道して、部下でもない者を庇うまでした人が保身を口にし、軽微とはいえ犯したミスを棚に上げて、公証の批判に矛先を転じた。
それから、リスト作成で優秀な成績を収めた自分への評価を、いつまでも形にしないと責めている。
これは本当にあのピョートルか、こんな人物だっただろうか、アレクサンドラが思う彼の姿と、目の前の人物像とのずれの大きさに眩暈がする。
爪弾きされるべき人物だとみなされたと本能的に感じ、ショックに飲まれそうになりながら、何とか踏み留まった。
臆するな、この聴取の目的を忘れたか、真相を知りたいのではなかったのかと萎れそうになる心を奮い立たせ、冷たい自分を呼び込む。
それでもやっとのことで、内心を一筋も表情に出さないようにしながら、アレクサンドラは薄く微笑んだ。
「言いたいことは分かりました、気持ちは必ず公証長に伝えます。職務中に大分時間を取らせてしまったわね、ありがとう」
(顔を見る)
ふと思い浮かんだ農夫の言葉に誘われて、アレクサンドラは礼から頭を上げた立位のピョートルの顔を見てみた。
巻き戻る前は言い争い、軽口を叩き、頼りにし、そして突き落とされた時、折々で目にしていたはずの顔は、記憶と重ね合わせることのできない、別人の表情をしているように感じられた。
彼が変わってしまったのか、それとも元々誤った印象を抱いていたのだろうか、アレクサンドラはピョートルが去った後もしばらく物思いに耽っていた。




