第7話(1)
アレクサンドラは、巻き戻る前と同様に、週に3度、公証長室に通って実務を学ぶことになった。
応接ソファが彼女の常駐場所で、決裁や報告、相談を求めて入室する上役達と父伯爵との議論に、父の隣で耳を傾けるが、特に耳新しいことはない。
父伯爵は時折娘に解説を与えながら応じ、判断を求められた時は、必ず先に「サーシャはどう思う?」と尋ねた。
アレクサンドラはそれが嫌でたまらなかったが、誰に聞いても答えは1つということは素直に答え、候補が複数あり、理論通りの選択をすると実務の先例が曲がる場合は、分からないとはぐらかした。
アレクサンドラが意見を言えば、父伯爵がその通りの指示をしてしまうことを、彼女は経験から知っていた。
父伯爵は、娘にも分からないことがあるか、理論だけではなく実践を教え始めて良かった、と可愛く思いながら嬉々として最善策を教え、アレクサンドラはその都度「そうなのですね。ありがとうございます、おとうさま」と虚ろな礼を述べた。
自分が学んできた理論を貫き通せないことについては、アレクサンドラはある程度は諦めていた。
理論の方が実務に合っていないと感じられる点もいくつかあると感じ、そこは自分の知識の方を更新すべきだった。
ただ、だとしても誤ったやり方、または無駄が多い事項への気づきを止めることはできず、口にできないま日々溜まっていくそれは、ストレスになり重量を増していった。
そうして押し潰されそうになるたび、アレクサンドラは執務室を抜け出して、あの階段、突き落とされた最後の階段に足を運んだ。
人がいないか少し様子を見、職員が通りかかると、非常に恐縮してお嬢様に道を譲ろうとするのを宥め賺して先に行かせた。
そうして誰もいなくなった階段を、最下段から1段ずつ、ゆっくりと踏み締めるように上がっていく。
あの時は書類に気を取られていたが、今は上を向いて、正確には上階から誰も降りてこないことを確かめながら、コツコツと大理石を踏み、身体を持ち上げていく。
そして、誰にも会わずに上り切ったところで、手すり上の天使の彫刻を両手でしっかり掴みながら、ゆっくりと首を巡らして下を、自分がかつて落ちていった階段の全景を眺め下ろした。
今目の前にある階下には、誰もいないし、何もない。
落下した自分の亡骸もないし、今立っている最上段には、ピョートルの姿もない。
そこで初めてアレクサンドラは深呼吸しを、今日は突き落とされなかったという冷たさを体中に回して、心の平穏さを取り戻すのだった。
2回目のデビュタントでは、アレクサンドラは前以上の視線と賞賛を集めた。
床を滑る純白のドレス、あしらいが最低限である代わりに、プラチナブロンドが繊細に輝く。
そして何よりも顔立ち、作り物のように完璧に整った容貌には、この日を迎えた瑞々しい誇らしさを湛えて胸を張る令嬢の中でただ1人、慎ましく目を伏せたその中に微かな憂いの影があり、それが逆に、彼女の類い希なる美しさを際立たせるアクセントになっていた。
両陛下の御前で、令嬢達が順番に行うカーテシーも、姿の優美さはずば抜けており、特別にお褒めの言葉を賜ったほとだ。
最初のワルツの相手は家同士で決めるものであり、今回も侯爵家の子息だったが、すっかり見惚れてしまって浮き足立っており、うまくリードできるか危ういのは誰の目にも明らかだった。
淑女の靴を踏み付けるのでは、と心配されたが、アレクサンドラがパートナーのもたつきを見事にカバーして、申し分ない踊りを見せる様子は、光風に揺れる白百合のようであり、躓いたパートナーを咄嗟に支えた時零れた、憂いの中の微かな笑みは、見る者を釘付けにした。
1曲を終えてパートナーの手を離し、次から次へと差し伸べられる誘いを丁寧に断って、アレクサンドラは少し疲れたようにしながら壁際の長椅子へ寄っていく。
その様子を玉座のすぐ傍から目で追いながら、ニコライは、母皇后から踊ってはどうだと一切勧められないことが不満だった。
彼女がデビュタントの年齢になっても未だに1人っ子なのが最大の理由なのだろうが、しばらくぶりに見たアレクサンドラの、少女から淑女へ、"大人びた"から"大人"へ移り変わった姿の何と美しいこと、そしてなお失われない可憐さに、駆け下りてダンスを申し込みたくてたまらなかったが、王子が自発的に誘いをかけるわけにはいかない。
王子の関心がオルトワ嬢に向いていると衆目に認識させることになりかねないからだ。
ニコライは勘違いをされても一向に構わないが、人々は彼女の方が妃の座を狙っていると裏腹に考えがちであり、果ては家を継がないという噂が、厄介だと陰口を叩かれている現当主の弟の暗躍を許すことになりかねない。
さすがに臣下の家の窮地を招く行いは慎まなければならなかった。
アレクサンドラの家のことであれば尚更だった。
「しかし、よくもまあこう美しい花が毎年揃うものであるな」
「本当に。今年も粒ぞろいでございますわ」
「ニコライはどうだ、目移りするのではないか」
父王に声をかけられたニコライは、笑顔を繕って答える。
「そうですね。オルトフ伯爵令嬢は際立っていると思います」
「オルトフ……ああ、アレクサンドラ・イワーノヴナか。父のイワノフが目に入れても痛くないと本気で申していたが、先程の娘か?」
「ええ陛下、陛下が特に美しいと御指摘になった。翠の眼の娘でございますわ」
「なるほど、あれがそうか。オルトフ家の跡継ぎだとも聞いている、大層利発だそうだな」
父王と母皇后の談笑を聞きながら、せっかくの機会だというのに声もかけられず、何ともったいないことだ、とどうやら1曲で退出する様子のアレクサンドラを見守りながら、ニコライは唇を噛んだ。