雲の上の、土竜。
僕はまだ、何も知らない。
僕はずっと、多くを知らないまま死んでいくんだ。
朝になると鳴く小さな鳥が、もう卵を温める親であることを知っている。大樹のそばにすむ友人が、自分で舟を作れるようになったことを知っている。
きっと死ぬまで、あの山の向こうのことは知らない。僕らの街に神様なんていないことはよく知っているけれど、あの山の向こうに本物の神様がいるのかどうかは、死んだって知らないままだと思う。僕はこの街の人間だから。
「土竜、君はスミレをくれたな」
「いつの話だい?」
「初めて君が声をかけてくれた時のことだ。ここで本を読んでいたら、君が来たね」
あの時はまだ、教会は今よりずっと綺麗だったのかもしれない。覚えていないけれど、きっとそうだ。
覚えていないけれど、あの時の感情を思い出す。
「スミレの色が、雲に似合うと思ったんだ」
「君は変わらないやつだな!あの時もそう言ったじゃないか」
「僕は僕だからなぁ」
西の広場で話した後、雲は教会の近くへ行こうと言った。山に近付くのが怖かったけれど頷いた。雲はもう、僕の手首を掴んで引っ張ったりしない。
教会の中に入ろうともしない。
「今でも恨んでいるよ、この街のこと、北の木のこと」
雲は微笑んだ。初めて会った時は、きっと微笑んでいなかった。
「それでも、土竜を恨んだりはしないよ、恩人で、友達だからだ」
美しいと、僕は何度だって思う。
「もう魔法は見つかったな」
「雲……」
「世界は変わったんだ」
「雲!」
僕らの街に神様はいないけれど、あの山の向こうにはいると思っていた。雲の家で見た硝子の天使は、やっぱりそうなのだと思うには十分すぎるくらいだったのに。
「あの山の向こうではね、神様のいる世界は別にあると信じられているのさ。そこに争いはなく、幸せな街」
「それは……どこだい、とてもとても、遠いのかい」
「ああ、たくさんの山を越えて、最後に一際大きな山をひとつ越えるんだ。その山には道もないから、とても大変だ……ここだよ、土竜。この街のことなんだ」
「僕らの街、?」
そうさ、と雲は言う。とてもじゃないけど信じられなかった。だって、確かに僕らの街は幸せな街だけど、こんなの普通じゃないか。神様のいる世界はもっともっと美しくて幸せなんじゃないか?
「神様がいるのなら、自分の住む世界を特別だなんて思わないさ。当然だと思って、その他の世界を見下すだろう。あの山の向こうは見下されるべき世界なんだ」
「僕は、僕は見下してなんかいないよ」
「土竜はそうでも大人たちは知っているよ。だから父親は殺されたんだ」
これからは土竜も見下して生きていけ。
そんなことを言われても混乱するだけなのに、雲はやっぱり手厳しい。
「天国はここにあったんだ。幸せだった」
幸せならここにいればいいのに。
「それでも帰るんだよ。土竜、君と2人で魔法を見つけなきゃいけなかった。世界を変えてしまわなくちゃいけなかった。そうしないと君は、もしかしたらあの山の向こうまで追いかけてきてしまうかもしれない。冒険は終わりだ」
君の世界を変えるための魔法だよと、笑った。
何か一つを知るだけで、魔法のように世界は変わる。誰か一人と出会うだけで、変わる。この世は脆い。何度も何度も崩れ去る世界は、崩れ去るために生まれ変わる。
「土竜、私は君が好きだったのだ」
そうして雲は、僕を抱きしめた。
本当に華奢だった。昔から細くて弱そうな雲だったけれど、大きくなってもそうだった。雲と知り合った僕は父さんに、とても綺麗な子と友達になったと言った気がする。そしたら父さんは寂しそうに笑って、仲良くしてやりなさいと答えた。僕の世界は美しい。
「私は君が好きだった。そして、忘れていくのさ。あの山の向こうはそういう世界だ」
「僕は忘れないよ」
「ここは神様の世界だからな。あちらはそうではない。愛したものは薄れていく。失ったものは戻ってこない。私も例外ではない」
僕を抱きしめながら笑っているのかもしれなかった。細い肩は小刻みに震えている。最後まで、酷いやつだなあ!
僕はこんなに、こんなに辛いのに。
「僕は何度だって思い出す。雲、君を忘れない」
「もしその言葉が本当ならば、土竜、君は死ぬまでこの街から出てはいけないよ」
死ぬまで覚えていてくれ。
彼女はそう言ったのだ。
僕はこれからも生きていく。
夢は消えた。あの山の向こうの幻想は、子供の頃の思い出に消えた。
悪霊も消えた。彼岸花の大地へ迎えられること無く縛り付けられた神様は、今やっと、夢と共に薄れていく。残ったのは僕らの街の、唯一の罪だ。
そして僕は、新しい世界を生きることにする。冒険は終わり、変えられてしまった世界を。魔法にかかったまま、君を愛したまま。
死ぬまで僕は、忘れない。
有難うございました!