第百三十話 泡沫の熱を見ないふりをして
アレスと二人きりになるのは、なんだかひどく久しぶりな気がした。
毎日顔を合わせていたはずなのに、あの一週間という空白が、まるで数年分もの距離を感じさせていた。
「あーあ……。後が怖いな、あれは」
アレスが、お父様とお母様が出ていった重厚な扉を呆然と見つめながら零す。
「ふふっ。お母様さえいれば、お父様はなんだって許してくれそうな気がするけどね」
私が茶化すように笑うと、アレスの頬もようやく緩んだ。
「そうだな。……だけど、ディルから聞いてた話と随分性格が違くないか? なんかもっと、こう……もっと静かで自己犠牲の塊みたいな人だと思ってた。実際は、俺のことおちょくって遊んでくるし」
「あはは、私も少し思った。でもね、アレス。あの明るさの中に、きっと入り切らないほどの自己犠牲が詰まっているんだと思う」
お母様の瞳の奥に時折過る、透き通るような寂寥。
彼女は卑屈ではないけれど、天秤に自分と誰かが乗れば、迷わず自分を捨てて微笑む人だ。
あの快活さは、愛する者たちに罪悪感を抱かせないための、彼女なりの優しさという名の「盾」なのだと、同じ血を引く私には分かってしまった。
「ふーん……」
アレスが短く相槌を打った瞬間、私はたまらず彼の背中にしがみついた。
「どうした?」
アレスの低い声が鼓膜を震わせる。
彼のお腹に回した手に、彼のごつごつとした指が優しく重ねられた。
「……アレス。好きだよ。本当に」
回した腕に、ぎゅっと力を込める。
私の無惨な運命を塗り替えるために、どれほどの孤独と恐怖を越えて動いてくれたか。「愛おしい」なんて言葉では、この胸の昂りは到底収まりきらなかった。
「なんだよ、急に……」
照れくさそうに、けれど愛しそうに響く声。
「ねぇ、キスしたい」
「ステラ、お前なぁ……」
「……ダメ?」
そう問うと、アレスは溜息をつきながら、ゆっくりと私の腕を解いた。
向き合い、彼を見上げる。その射抜くような強い眼差しに、吸い込まれそうで目が離せない。
「ステラはいつもそうやって、俺を煽るよな」
冗談めかした響きはない。
剥き出しの熱を孕んだ真剣な声だった。
重なった唇は、最初は羽が触れるほど微かなもの。けれど、私が彼の首に手を回した瞬間、温度が跳ね上がった。
啄むような、食むような、深い口づけ。
密やかな、湿った音が静かな部屋に溶けていく。
ようやく唇が離れたとき、いつもなら私より赤くなっていたはずのアレスは、見たこともない男の顔をしていた。
子供の頃の彼の面影が思い出せなくなるほど、目の前の肩幅は広く、体躯は逞しく育っている。
私だけが顔を真っ赤にして立ち尽くしていると、アレスは熱を帯びた瞳のまま、ふわりと私を抱き上げた。
「……ぁ」
向かう先がベッドだと分かり、動揺で小さな吐息が漏れる。
「安心しろ。場所を変えるだけだ。ステラが嫌がることはしない」
リネンが擦れる音と共に、ゆっくりと身体が沈む。
アレスは私を閉じ込めるように、両サイドに手をついた。
降ってくるキス。
触れるたびに、心臓が痛いほど鼓動を打ち鳴らす。
鼻呼吸だけでは足りず、微かに唇を開いた隙に、熱い舌が滑り込んできた。
もっと触れたい。
もっと、彼を感じていたい。
加速する情動に身を任せ、アレスの指先が私の耳朶に触れたとき、あまりの擽ったさに身体をびくりと震わせた。
その瞬間、アレスの動きがぴたりと止まった。
彼は私から顔を離すと、私の肩を掴んだまま、深く項垂れた。
「……悪い」
「え……?」
情けない声が出る。
「いつも我慢が効かない……。今は、こんなことしてる場合じゃねぇのに」
「別に、私が誘ったんだし……っ」
「お前は『キスしたい』って言ったんだ。勝手にそれ以上に触れるべきじゃなかった」
彼はどこまでも真面目だった。
貴族令嬢としてあるまじきことと分かっていても、アレスになら全てを委ねてもいいと思っていた不真面目な私とは、根底が違った。
「それに……隣の部屋にディルがいると思うと、今更罪悪感が……場所も、ここは皇宮だ」
現実に引き戻される。
あまりにも時と場所が適さなすぎて、不意に可笑しさが込み上げた。
「じゃあ……もうちょっとだけ、キスしよ?」
名残惜しさにそう強請ると、アレスは「ああもう!」と毒づきながら、困ったように、けれどさっきよりずっと甘い口づけを降らせてくれた。
◇◇◇
「もう……いつまでそうしているつもり?」
セレーナは、扉の前を獣のようにうろつくディルを、呆れ顔で見つめていた。
「ステラが……あいつと、よからぬ真似をしているかもしれない」
普段の彼なら、魔法で扉を吹き飛ばしてでも制圧するだろう。
けれど、今回ばかりは娘にあれほどの仕打ちをした後ろめたさが、その足を縛っていた。
さらにここは皇宮。
不敬や不祥事は、市井のそれとは比較にならないほど重罪となる「鉄の掟」の場所だ。
「あの子たちは大丈夫よ。ここは皇宮だし、特にこの南館は今出入りが厳しく制限されているわ。使用人も足りないし、そんな子供ができるような真似はしないわよ」
「こ……子供……っ」
セレーナの言葉に、ディルの動きがピタリと止まる。
(あ、余計なこと言っちゃったかしら……でも、こんなに焦っちゃって、かわいい)
「そうそう、どんなにキスしたって子供はできないから安心しなさいな」
「キ、……!」
「私たちだっていっぱいしてたじゃない。十五の時から」
「俺たちは結婚していただろう!」
「あら? 一度目の人生のときは、結婚前にステラを身籠ったわよ」
「な、……に!?」
驚愕に目を見開く夫を見て、セレーナは堪えきれずに吹き出した。
(まあ、私が断れないのを分かっていて、あなたが強引に誘ったんだけどね)という言葉は、飲み込んで。
「どちらにせよ、私たちは見守ってあげましょうよ。あんなに寂しい思いをしてきた二人が、ようやく光の方を向いているんだから」
一度目の人生、死ぬまで暗い塔に幽閉されていたアレス。家族の愛を知らず、最期まで孤独に殺されたステラ。
二人の間に流れる時間は、誰にも邪魔させてはならない聖域なのだ。
「ディル、あなたは悪役じゃない。……もう、いいのよ」
「俺は別に、そんなつもりは……」
「分かってるわ。ステラが大切なのよね。ただ、少しだけ不器用なだけで」
押し黙ったディルに、セレーナは静かに歩み寄り、その大きな手を取った。
そして、その掌を自分の頬に添える。
「今は……私だけを見て?」
ディルの指が震え、彼女の灰茶色の髪を優しく耳にかけた。
導かれるように重なる唇。
けれど、それは触れた瞬間に離れる、祈りのような口づけ。
「セレーナ……どうすれば、ずっとお前と居られる?」
縋るような、切実な問い。セレーナはディルの手を、自分の胸元へと誘導した。
「……」
「……ね? 聞こえないでしょう。私は、もう死んでいるの。それは変わらない事実……生き返ることは、ないわ」
「心臓が動いていなくてもいい。……こうして、側に居てくれればいいんだ」
セレーナは悲しげに視線を落とした。
「ステラの魔力を、三年以上も吸い上げてきたのよ。あの子に魔力不足の苦しみを強いてまで、私がその方法を取ったのは……ステラを死なせないため。ただ、それだけ」
現実という名の刃を突き立てるのは、彼女にとっても苦痛だった。
「それでも、この若い姿を維持するのが限界よ。……多分数日、保って一週間かしら」
「神獣たちの力は借りられないのか?」
「ステラは、私の血を引く唯一の、膨大な魔力を持つ触媒なの。神獣の力をもってしても、ステラの魔力でしか、私の魂を具現化することはできないのよ」
「俺の魔力では……だめなのか」
「ええ。そうなのよ」
諦めきれない。飲み込めない。納得など、できるはずがない。
ディルの貌は、絶望に歪んでいた。
「セレーナが書いた運命では、君はこの後どうなる?」
「……もう、続きはないわ。ステラを救うための選択しの一つ。メモ書きなの……私の存在とヴァルを使った救済案を書いただけだもの。未完の物語だから、この先世界がどう動くかは……私にも分からない」
それでも、とセレーナは笑う。
「大丈夫。見えないだけで、私はずっと側にいるわ」
彼がそんな言葉で満足しないことは百も承知だった。
けれど、そう告げることしかできない。
悔しそうに、血が滲むほど固く握り締められた彼の拳を、セレーナは見ないふりをして、ただ愛おしく彼を見つめ続けた。




