第百二十九話 離れません!
「じゃあここは、そのマン……ガ?とかいう物語の中。つまり空想上の世界ってことか?」
アレスの低い声が、静まり返った部屋の空気を震わせた。
「そうよ。私はその物語が存在する別の世界で、別の人間として生きていたの」
セレーナが淡々と、けれどどこか遠くを見つめるような瞳で告げる。
アレスは「ふーん」と短く応じただけで、机に視線を落とした。
その無機質な反応に、私は胸の奥がチリりと痛む。
信じてもらえていないのか、あるいは突飛すぎて拒絶されているのか。
不安に駆られて様子を窺っていると、お母様がふと私に視線を送り、静かに頷いた。
(……話せってことね。本当の私を)
私は一つ、深く息を吸い込んだ。
「アレス……信じられないかもしれないけど、私もお母様と同じ世界から生まれ変わったの」
言葉が溢れ出す。
堰を切ったように、私は一気に畳み掛けた。
「って言ってもね、生まれ変わりだって自覚したのは、一度目にお父様に殺される直前だった。前の世界の常識や景色は断片的に覚えているけれど……自分の名前すら思い出せない。今の私は、もうこの世界のステラ・アルジェランなの」
必死だった。
別の世界の誰かだと思われたくなかった。
魂の根源がどこにあろうと、今アレスの前にいる「私」を否定されたくなかったのだ。
そんな私の焦燥を、アレスはあっさりと、拍子抜けするほど穏やかな眼差しで受け止めた。
「あんまりよくわからないけど……要は、俺の母親と同じ世界にいたことがあるってことだろ?」
「……まあ、そうだね。生まれ変わり、と言うのが一番近いのかもしれない」
アレスは得心がいったように、一度だけ深く頷いた。
「私が話した時はあんなに興味なさそうだったのに。ステラが話すと、随分と簡単に受け入れるのね」
お母様が可笑しそうに、けれど慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
アレスはふいと顔を背け、ぶっきらぼうに言い放った。
「……そりゃ、好きな女の言うことは、たとえ嘘でも信じますよ」
心臓が跳ねた。
重く、独占欲の混じったその愛の言葉。
不安に揺れやすい今の私には、その重さこそが何よりの錨となって私の気持ちを繋ぎ止めてくれる。
「子供って、どうして親に似た人を好きになってしまうのかしらね」
お母様は全てを見透かしたような、茶目っ気のある溜息をついた。
しかし、アレスの表情がふと真剣なものに変わる。
「……残りの話は、いいんですか?」
アレスの問いに、私は首を傾げた。彼に伝えていない情報はもう無いはずだ。
お母様は一瞬だけ視線を伏せ、貼り付けたような笑顔を浮かべた。
「……? なにかあるのですか?」
「なんだか、ずっと核心に触れないように話している気がして。気になったんだ」
アレスの鋭い指摘に、お母様は困ったように頭をかいた。
「んー、バレちゃうか。……ここからは、後でステラに話そうと思っていたの。でも、ディルと一緒に話したいから、今はまだ……」
「じゃあ、お父様は知っているんですね」
「ええ、昨日話したわ。ただ、なるべく全てが終わったあとに話したいのよ。晩餐の後の話し合いを終えて……。その整理がつかないと、きっと今日の一番大事な話は貴方たちの頭に入らないわ」
お母様の瞳の奥に、言葉にできないほど深い覚悟の色が見えた。
私は抗う術もなく、ゆっくりと頷くことしかできなかった。
◇◇◇
廊下に、鋭く速い足音が響き渡る。
ディルが纏う漆黒のローブが激しく翻り、すれ違う王宮の使用人たちはその凍てつくような覇気に息を呑み、壁際へと身を縮めた。
(クソッ、決定的な証拠が掴めない……!)
憤怒がディルの胸を焦がしていた。
ハイルドが犯人であることは明白だ。
だが、現場に残された魔力の残穢は巧妙に処理され、決定的な証拠は霧のように消えていた。
ハイルドは幼少期からディルに劣等感を抱き、同時に彼を深く憎んでいた。
だからこそ、ディルの追跡すらも逃れられる魔法を、その執念で磨き上げていたのだ。
ステラの声を封じた時も、王宮の塔に気配を残したのも、すべてわざとだった。
『お前の娘をこうしたのは俺だ』と、ディルの精神を揺さぶり、嘲笑うために。
(とにかく、今はセレーナとステラの側へ……!)
ハイルドが自分に対抗しえる魔法を使えることを知り焦っていた。
正面から自分を殺す力はなくとも、結界をすり抜け、守るべきものを掠め取ることなど奴には造作もないかもしれない。
守らなければ。
自分の目の届く場所に繋ぎ止めておかなければ。
強迫観念に近い想いで部屋の前に辿り着いた瞬間──。
「きゃーーー!!」
愛する妻の悲鳴が聞こえた。
ディルは思考を飛ばし、蹴破らんばかりの勢いで扉を跳ね上げた。
「セレーナッ!!」
殺気を放ちながら飛び込んだ視界に映ったのは、想像とはあまりにかけ離れた光景だった。
ソファに並んで座るステラとアレス。
そしてその正面で、身を乗り出して目を輝かせているセレーナ。
「あ、ディルおかえり」
ケロッとした顔で振り向く妻の姿に、ディルは突き上げた殺気のやり場を失い、呆然と立ち尽くした。
「今ね、二人の恋の話を聞いてて……私たちの若い頃を思い出していたの」
「いや、それは……」
アレスとステラが、悪戯が見つかった子供のように気まずそうに身を縮める。
その様子はあまりに平穏で、微笑ましくすらあったが──ディルの感情は瞬時に別の方向へと沸騰した。
「……恋だと?」
低く、地這うような声。ディルがアレスをギロリと射抜く。
だが、アレスも今度は退かなかった。
ステラの肩を抱き寄せ、真っ向からディルを見据える。
「ああ、そうだ。俺たち、また恋人になることにした」
「……そんなこと、この俺が許すと思うか?」
どす黒い威圧感を放つディルに対し、ステラは震える手でアレスの腕をぎゅっと掴んだ。
「お父様が何と言おうと……今度は、私たち離れません!」
意志の強い娘の言葉に、セレーナがポンとディルの肩を叩く。
「ほらディル、今日はもう私とお部屋に戻りましょう? 若い二人の邪魔をしたらバチが当たるわよ」
「しかしセレーナ、俺はステラを守るために……」
「そんなに意固地になってると、本当に嫌われてしまうわよ? それに──」
セレーナが背伸びをして、ディルの耳元で甘く囁いた。
「今は早く、ディルと二人きりになりたいの」
「……ッ!」
その一言で、最恐魔法騎士は彫像のように硬直した。
「じゃあ、あとはお若い二人で。ステラ、無理しちゃダメよ」
赤面して固まった夫の背中を押し、セレーナは軽やかな足取りで部屋を後にする。
去り際、娘とアレスに向けて悪戯っぽくウィンクを残していくのを、彼女は忘れなかった。




