50 灰色の日々、ひとつぶの彩り
王都から離れたとある町。城館と見まごうような学び舎の敷地に建つ、古い館。ルーナと仮の契約を結んだメルクリオは今度、そこに連れてこられた。
グリムアル大図書館――その中に一歩踏み込んだとき、彼は圧倒されてしまった。
玄関広間以外のほとんどが本棚に埋め尽くされた空間に、当たり前のように濃いアエラが漂っている。魔法の明かりが揺らめいて、書架の番号を示す飾り板を輝かせていた。
とても現世とは思えない。これからここで暮らすのかという思いが遅まきながらこみ上げてきて、少年は身震いした。
奥へ向かって歩きながら、メルクリオはルーナの説明を聞いた。彼女はこの図書館の構造や業務について話してくれたが、とても一回で覚えきれる内容ではない。メルクリオが思わず目を伏せると、精霊は安心させるように笑った。
『わからなくなったら、いつでも訊いてください。私はあなたのそばにいますから』
その言葉には、皮肉げな響きがある。メルクリオはあえて何も言わず、首を縦に振った。
この日から、メルクリオは大図書館の番人として働きはじめた。
はじめのうちは魔族の封印が緩むことはなく、図書館らしい業務をこなすこととなる。蔵書の点検、整理、修復作業などなど。中でも、本の修復は技術と集中力が求められる作業で、『新米番人』のメルクリオには難しかった。ただ、嫌いではなかった。――ひたすら作業に没頭できたから。
メルクリオはとにかく業務に集中して、余計なことを考えないようにした。激しい感情が湧き上がってきたときには、無理にでも抑えつけた。そうしているうちに、怒りや悲しみを感じることは少なくなっていった。同時にそのほかの感情も体の奥へと沈み込み、業務以外の何もかもがどうでもよくなった。
精巧なからくり人形のように、ただ淡々と決められた作業だけをこなす。
そんな日々が、どのくらい続いただろう。あるとき、不思議なことが起きた。
澄んだ音が大図書館じゅうに響き渡る。メルクリオが書架から視線を離したとき、虹色の星々が彼に向かって飛んできた。
「……なに、これ?」
彼は久しぶりに表情を動かした。その横で、ルーナが薄羽を震わせる。
『来客です。入口のハンドベルが鳴らされたんですよ』
「ああ。……初めて聞いた」
平坦な声で呟いて、メルクリオは歩き出した。途中、魔法で飛んだり足を速めたりして広間へ向かった。
普段、メルクリオ以外の誰かが立つことのないカウンターの前に、見慣れぬ人物が立っている。
大柄な男性だった。肩から足までを筋肉の鎧が覆っていて、それは上質な黒服の上からでもよく見える。顔もごつごつしているが、恐ろしい雰囲気はない。榛色の瞳を子犬のように輝かせて、書架の森を見つめていた。
「……ようこそ、グリムアル大図書館へ。何かご用でしょうか」
メルクリオが声をかけると、男性はすぐさま彼の方を見た。
「おお。おまえさんが当代の番人か」
「……はい。今のところは」
今は試用期間だ。メルクリオはまだ正式な番人ではない。その意味を込めて曖昧な返答をしたのだが、男性はまったく気にしていない様子だった。満足げにうなずいて、かかとを揃える。
「今日は、挨拶にうかがった」
「……挨拶?」
メルクリオが首をかしげると、男性は口の端を持ち上げる。
「このたび、大図書館監査員に任命されたサダルスウドだ。よろしく頼むよ、大図書館の番人殿」
名乗る声は清々しい。灰青色の瞳をみはったメルクリオは、思わずかたわらの館長を振り返った。
「大図書館監査員って……確か、王宮から時々来る人だっけ?」
『そうです。王国からの伝言を持ってきてくださったり、逆にこちらの要望を王国に伝えてくれたりする人ですよ』
「……そう」
メルクリオは返事をしたものの、目の前の客人とどう接するべきか、決めあぐねていた。今のところ要望はないし、王国からの伝言、というのもぴんと来ないからだ。
「おれは――メルクリオ。大図書館の番人だ。まだ仮だけど」
なので、とりあえず名乗っておいた。
サダルスウドはそれを聞いて、嬉しそうに笑う。
「おう。だいたいのことは聞いているから安心しろ。よろしくな、メルクリオ」
メルクリオは小さく頭を下げた。
そのとき、ルーナが彼の目線まで下りてくる。楕円形の目は監査員の男性を見ていた。
『お久しぶりです、サダルスウド』
「おう、館長。王都での顔合わせ以来だな」
『聞きましたよ。王宮で上司の方と揉めたとか』
呆れているらしいルーナに対し、サダルスウドは目をすがめる。
「揉めたつもりはねえさ。俺は自分の意見を述べただけだ。番人選抜のやり方がおかしいってな」
思いがけないところで『あのとき』のことを持ち出されて、メルクリオは息をのんだ。意志に逆らって、頬と肩がこわばる。
「成功する見込みのない精霊契約を何も知らない子供にやらせるなんざ、正気の沙汰じゃねえ。手の込んだ殺人じゃねえか。今時、魔法研究者でももうちょいマシなことをすんぜ」
『……と、上司に言ったんですか? 監査員に任命されたこの時機に?』
「具体的な内容を知ったのが、任命直後だったからな。思いっきり抗議してやったさ。これで監査員から降ろされるなら、この国はそういう国ってことだ。――ま、そうはならなかったわけだが!」
身振り手振りを交えて語り、豪快に笑ったサダルスウドは、ルーナを見た。その瞳には先ほどまでよりも鋭い光が宿っている。
「館長。俺は、おまえさんのことは嫌いじゃねえ。が、おまえさん方がやってきたことは非難し続ける。今の体制が続く限りな」
『……ええ。承知の上です』
ルーナは、羽を張って目を閉じる。その佇まいは静かだった。「非難する」とはっきり言われたにもかかわらず、動揺の色が微塵も見えない。だが――メルクリオの中には、痛々しい声が小さく響いた。
サダルスウドは腕を組み「ならいい」と笑った。純然たる好意から出たものではなかったが、明るい笑みだった。
険しかった面が緩む。彼はメルクリオの方に顔を向けると、頭をかいた。
「おっと、いきなり殺伐とした空気にしちまって悪かった。せっかくだし、少し話をしていってもいいか、番人殿?」
メルクリオは黙って相手を見つめる。サダルスウドは怪訝そうにしたが、人懐っこい雰囲気が揺らぐことはない。
――番人選抜を非難する大人がいるとは、思わなかった。
人をさらって、あれだけ殺して、精霊の責任感を利用して。それでもまわりの大人たちが平然としているものだから、メルクリオは自分こそがおかしいのではないかと思い始めていた。
けれど、違う。『先生』たちとは違う考え方の大人もいるのだ。その事実が、凍りついた心をほんの少し温める。
「……わかった」
彼が小さな声で答えると、監査員は嬉しそうに笑った。
サダルスウドをどぎまぎと応接室に案内したメルクリオは、彼と一対一で話をした。正確にはルーナもそばにいるのだが、あえて会話に加わらず、台所の方にいる。
「業務には慣れたか? 困っていることはないか?」
「……だいじょうぶ」
「図書館の外に出てないって聞いてるけど、大丈夫か? 飯はどうしてるんだ」
「もらえる物で、自分で作ってる」
サダルスウドからの質問にメルクリオがぽつりと答える形で、話は進んだ。彼が一言二言しか答えなくても、監査員は気にするそぶりを見せない。メルクリオが淹れた――失敗して渋みが出てしまった――お茶を片手に明るく話し続けている。
一方、メルクリオは戸惑っていた。監査員と名がついているくらいなので、もっとお堅い人物が来て、お堅い話ばかりすると思っていたからだ。
サダルスウドに役人然とした雰囲気はない。大図書館の番人としてではなく、一人の子供として相手されている気分になる。メルクリオが少し顔を伏せたとき――次の問いが飛んできた。
「館長とはうまくやれそうか?」
小さな肩が、ぴくりと震える。メルクリオはとっさに部屋の隅を振り返った。確かにそこにいる月光の精霊は、しかし二人の話など最初から聞こえていないかのように、水気の残った食器を見つめていた。
メルクリオは正面を向きなおす。何度か唇を結んで開いた後、かぶりを振った。
「わからない」
「そうかい」
サダルスウドの返事は、やけにあっさりしていた。
ふと生まれた空隙。その中で、メルクリオは身を縮める。大きな手が伸びてきて、彼の頭をわしわしとなでたのは、その直後だった。
「まあ、なんだ。あまり無理はするなよ。どうしてもぶちまけたいことがあったら、俺を呼びつけろ」
「……でも……王宮で仕事してるんでしょ。遠いじゃん」
「小さいことを気にすんな。大図書館監査員の仕事の半分は、おまえさんの話を聞くことだ。遠かろうがなんだろうが、駆けつけてやるよ」
その言葉は大げさにも聞こえるが、偽りの気配もない。不思議な気分で男性を見上げたメルクリオは、曖昧に頭を揺らした。
「わかった。何かあったら呼ぶ。何かあったらね」
「おうよ。あ、でも二か月に一回は呼ばれなくても来るからな」
メルクリオが念を押したことに、気づいているのかいないのか。サダルスウドはそんなふうに言って、また笑声を立てる。メルクリオの方は釣られこそしなかったものの、ほんの少し肩の力が抜けたような気がしていた。




