51 『ヌーメニア山脈の怪物たち 第一巻』
それからは、また淡々とした日々が続いた。
サダルスウドの最初の来訪から、二か月が経とうとしていたある日。膨大な蔵書の点検をしていたメルクリオは、弾かれたように振り返る。背中から鋭利な物で突き刺されるような寒気を感じた。
「これ――」
呟いた瞬間。館内が小刻みに揺れた。
かたわらに浮いているルーナが、薄羽を震わせる。
『メルクリオ、地下です!』
「地下って、まさか」
『はい。魔族の封印が緩んだようです。急いで!』
いきなり言われて、メルクリオは戸惑ってしまった。
もちろん、魔族のことは知っている。封印の手順も説明された。実際に彼らが封じられている地下へも足を運んだ。だが、いざ魔族と対峙するとなると、様々な感情が彼の体を凍らせる。
しかし、悠長にしてはいられない。凶暴な魔族を封印できるのは、大図書館の番人だけなのだ。
「『赤き血潮は巡り、躍る。心臓から指先へ、指先から心臓へ。生命は高揚し、四肢には疾風の力が宿る』」
詠唱する。体が温まると同時、思い切って床を蹴った。
一時的に身体能力を向上させた体で、地下室の入口まで走る。梯子をかける時間すら惜しみ、地下へ飛び降りた。
吐き気を催すほどのアエラが押し寄せ、鋭い鳴き声が少年の鼓膜を震わせる。
巨大な書棚に囲まれた、広い空間。その天井付近に、異様な生き物がいた。頭と翼は鷲のようで、体は獅子を思わせる。色は黒いが、翼には血のように赤い模様が走っていた。大きなくちばしを開き、威嚇の声を上げている。
「あれ、は――」
『ノワですか! このところ元気だとは思っていましたが、まさか封印を破るとは』
呆然としているメルクリオのかたわらで、ルーナが羽を張った。声には、驚きと呆れの念が同じだけ含まれているようだった。
「ノワ……?」
メルクリオは、彼女が口にした耳慣れない言葉を繰り返す。
『ノワ・グリフォン。かつては南方の山脈に生息していた魔族です。急速にアエラをとりこみ、あまりに凶暴になってしまったことから、“あちらの世界”へ移り住んだのだそうです』
そして、シェラ・レナリア大戦に参加し、〈封印の書〉に入れられたというわけだ。〈月桂樹の館〉での歴史の授業を思い出し、メルクリオは顔をしかめた。
およそ生物の声とは思えない高音が、静寂を貫く。部屋をわずかに照らし出す魔法の明かりが不安定に揺れた。
赤いくちばしが開かれる。口腔に夜空色の光が集束する。メルクリオは考える前に飛び退っていた。
ごう、と空気が振動し、力は光線として射出される。アエラの塊と熱波が、容赦なく足もとを焼いた。距離を取ったにもかかわらず、光線はメルクリオのもとにまで届く。
「うわっ!」
彼は思わず悲鳴を上げて、伏せた。焼かれることも覚悟したが、恐れていた熱と痛みはやってこない。その前に、彼を薄い光の膜が覆って、光線をすべて打ち消したのだ。
月光のアエラを感じる。メルクリオは思わず、かたわらを振り返る。
『よそ見をしない!』
彼女は珍しく鋭い声を飛ばした。メルクリオは反射的に頭を戻す。ノワ・グリフォンの両目は、未だ好戦的に輝いていた。
『メルクリオ。封印の手順は覚えていますね』
「う、うん。魔族の隙を作って、〈封印の書〉を呼び出して、〈書〉に書かれた呪文を詠唱する……んだよね」
『完璧です』
「で、でも。おれ、あいつのこと、まだ知らない」
この大図書館にいる魔族のことは少しずつ勉強している。しかし、ノワ・グリフォンについては、勉強する前に実物と対面することになってしまった。
不安をのぞかせる少年に対し、しかし精霊は言い切った。
『問題ありません。あなたの中には、すでに彼の情報があります。名前を知った今なら引き出せるはずです』
「え……?」
魔族の方を向いたままで、メルクリオは目を泳がせる。言われていることの意味がよくわからない。しかし、あれこれ訊いている暇もなかった。――ノワ・グリフォンが再び口を開けたからだ。
メルクリオは今度、相手が力を溜める前に駆け出した。壁際まで走って勢いよく反転する。靴底が床をこすって高音を奏でた。
アエラが、光が、集束する。メルクリオも負けじと息を吸った。
「『顕現せよ、魔を拒む聖なる盾よ』!」
詠唱に応じるかのように、光の盾が現れる。ほとんど同時に発射された光線が表面にぶつかって、青白い火花を弾けさせた。
ゆっくり話をするためにもノワ・グリフォンの動きを止めなければならない。早鐘を打つ心臓をなだめながら、メルクリオは言葉をつないだ。
「『熱束ね燃える炎よ集まりて、劫火の矢となり立ちはだかるものを撃て』!」
空気が熱されてうねる。天井近くに出現した炎の矢は以前より粗かったが、燃える勢いは強かった。
メルクリオの手ぶりに合わせて矢の雨が降る。ノワ・グリフォンは耳障りな鳴き声を上げながら、そのほとんどを回避した。二、三本が翼や尾をかすめ、そのたびに室内のアエラが激しく震動する。ノワ・グリフォンは怒っているようにも、慌てているようにも見えた。
「もしかして、効いてる?」
『彼は高温と湿気が苦手ですからね』
「あ、そう……なんだ」
ルーナの言葉に自然と答えかけて、しかしメルクリオは眉を寄せた。言葉にできない不快感が胸の端をかすめていく。その理由に気づかなかったふりをして、彼は精霊の言葉を舌に乗せた
「高温、湿気……何か、もっと効く魔法は……」
『――メルクリオ、来ます!』
ほかならぬ彼女の警告が、少年の思考をさえぎる。同時、窓もない部屋に突風が吹いた。
メルクリオは再び詠唱しようとしたが、その前に吹き飛ばされた。どうどううなる風が耳をふさぎ、世界が回ってぐにりとゆがむ。
小さな体は床に叩きつけられた。しかし、またしても痛みはない。月光が彼を覆って、衝撃から守ったのだ。
ノワ・グリフォンが怒りの声を上げ、立て続けに細い光線を放つ。しかし少年を包む光の衣は、そのすべてを打ち消した。
「さっきのと同じ……」
『私の結界です』
自分を覆う光を見ていたメルクリオのもとに、ルーナがふわりと下りてくる。いつもより、ほんの少しだけ険しい表情をしていた。
『メルクリオ。無理に一人で対処しようとしなくていいんですよ。番人を補助するために、館長がいるんです』
アエラの悲鳴の合間を縫って、静かな声が響く。メルクリオは答えず、うつむいた。
普段の業務の最中も、ルーナに声をかけることは少ない。もちろんわからないことがあれば尋ねるが、なるべく話したくないというのが本音だった。
焦げ付いた怒りの中からのぞく、ひどく幼稚な反発心。それを見透かされていたことに気づいて、メルクリオは恥ずかしくなった。しかし、考えてみれば当然だ。彼に彼女の内心が伝わってくるのだから、逆も然り、である。
むっつりと黙り込んだ少年を見て、何を思ったのか。轟音をさえぎるように、ルーナが薄羽を震わせた。
『不服ですか?』
メルクリオは、沈黙を保った。灰青の瞳が迷いに揺らぐ。
『では、言い方を変えましょう。もっと私を上手く使いなさい』
思いがけない言葉が、凍った胸をわずかにくすぐる。
メルクリオは、ぱっと顔を上げる。月光の精霊の表情は変わらない。
『私は少なくとも、今のあなたよりは、ここの魔族のことを知っています。精霊ですので、この顕現体でも並みの人間よりは高度な魔法を扱えます』
羽が震える。さざれ石をかき混ぜたときのような、澄んだ音が響く。
『魔族に殺されたくなければ使いなさい。あなたの手もとにあるものを、すべて。――私はただ、全力で応えます』
そう言って、ルーナはふわりと浮き上がった。そのとき、メルクリオを包んでいた光が揺らぐ。
『そろそろ限界ですか。大図書館の結界を消すわけにはいきませんからね』
ルーナの呟きが降る。
それを聞いたメルクリオは、細く息を吸って、立ち上がった。
「……わかったよ、館長」
両足で床を踏みしめる。天に居座る黒いグリフォンをにらみつける。腕を持ち上げ、五指を開いた。
「そこまで言うなら、せいぜい全力で守ってみせろ!」
結界が消える。しかし、メルクリオの顔に動揺の色はない。
「『劫火よ、立ちはだかるものを焼き払え』!」
鋭い詠唱とともに、どこからか燃え上がった炎が広がる。しかし、ノワ・グリフォンは羽ばたきひとつでそれを消し飛ばした。甲高く鳴いて、ふたりの方へ急降下する。
メルクリオは駆け出した。突っ込んでくる魔族から逃げ回りながら、かたわらの存在に話しかける。
「ルーナ! あいつ、高温と湿気が苦手なんだよね?」
『はい』
「この部屋って、蒸れても大丈夫? 本がだめになっちゃわない?」
『問題ありません。書架は結界で守られていますから』
ルーナの返答はよどみない。メルクリオがやろうとしていることを察したのだ。彼は「よし」と呟いて振り返る。ノワ・グリフォンの方へ手をかざした。
「『根源たる力よ、燃えろ、燃えろ』『ただひと時の剣となりて、荒ぶる魔を退けろ』!」
詠唱が終わると同時、魔法の照明が再び揺らぐ。集まって熱されたアエラが黄金色に輝き、無数の小さな剣となった。すぐさまノワ・グリフォンめがけて飛び出し、その巨体を串刺しにする。
メルクリオは、喜ぶ間もなく息を吸った。
「『天地の恵み、生命の源泉はこの手に集い、渇きを癒す』『それは円を描き、小さな星となり、その姿を天へと隠す』」
こぽこぽと、音を立てて水が湧く。てのひらの上でまとまった水を、メルクリオは球技の球のように振り上げた。そして――
「『飛べ』!」
本来ならご法度である、ごく短い詠唱とともに、水の球を投げた。それは勢いよく炎の中に吸い込まれ、白い湯気を吐き出した。
雨後のような空気が地下を包む。ノワ・グリフォンは悲鳴を上げて、湯気の中からまろび出た。明らかに、動きが鈍くなっている。
「よし――」
メルクリオが拳を握った瞬間、鷲の両目がぎらりと輝いた。
ノワ・グリフォンは全身に怒りをたぎらせ、突進してくる。
身構えたメルクリオの前と頭上に、鏡のような銀色の壁が現れる。鷲の頭がぶつかって、激しい音を立てた。
「まだこんなに動くのか!」
メルクリオは、思わず強く頭をかく。隣でルーナがしょんぼりと羽を下げていた。
『うん、思ったより元気ですね。これは直接足止めしないとだめかもしれません』
「直接?」
『縛ったり、飛べないようにしたり……』
「縛れるものなんてないよな……?」
ノワ・グリフォンから距離を取りながら、メルクリオは周囲を見渡す。本来静かな地下室にあるのは、書架と古い書物、魔法の明かりだけだ。紐どころか糸の一本も見当たらない。
ないのなら――作るしかない。
重々しい翼の音が響く中、メルクリオは心の中でことばを組み立てる。
ふと、〈月桂樹の館〉でのことを思い出した。アエラで物を作り出す魔法を練習していたときのこと。ヘゼたちは、メルクリオが作った牛もどきを褒めてくれた。
「きらきらしてる!」
「それに細かいね。同じ要領で装飾品作ったら映えそう」
「いいね! 首飾りとか、冠とかさ!」
「アエラの塊だから、身に着けらんねえけどな」
「わかってるよ! ヘゼはすぐそうやって水を差す」
「まあまあ……。ほら、お祭りの演出とかならできそうじゃない?」
好き好きに語り合う彼らを、メルクリオは笑いながら見ていた。その一方、頭の中では様々な物を思い描いた。
記憶の中から呼び出すのは、数多の空想の中のひとつ。
きらきら輝く、魔族すら縛れる――鎖。
硝子が割れるような音が弾ける。悔しそうな精霊の声がする。
『くっ……! さすがに突進百回耐えきるのは無理でしたか……!』
その瞬間、メルクリオはささやいた。
「『交わりし光、二つ三つ四つと連なりて』――」
アエラが動く。連なった鈴のような音を奏でながら、それは絡まり合って、形を作る。
「――『深遠へ至る鎖となれ』」
しゃらん、と音を立て、光の鎖が生まれる。先端をつかんだメルクリオは、ノワ・グリフォンめがけてそれを振りかざした。鎖は意志を持っているかのように動き、獅子の足に巻きつく。
ノワ・グリフォンが悲鳴を上げて暴れ出した。メルクリオは引きずられそうになったのをなんとか耐える。
『メルクリオ! もう少し、そのまま!』
頭上から叫び声が降ってきた。同時、虚空から現れた大量の光の刃がノワ・グリフォンの体を貫く。さすがに耐えかねたのか、弱々しい悲鳴が上がり、引っ張る力が緩んだ。
『よし! 今のうちに〈封印の書〉を呼び出してしまいましょう』
ルーナがぱたぱたと羽を動かしながら下りてくる。珍しく、忙しない様子だった。一方のメルクリオは顔をしかめる。
「だからさ。それ、どうやるの」
『まず、自分の内側に意識を集中させてください』
「……は?」
突然の無茶ぶりに、メルクリオは思わず剣呑な声を上げてしまう。が、ルーナは気にしていないようだった。
『具体的に言うならば、あなたの中に混ざっている私のアエラを辿ってみてください。見えてくるものがあるはずです』
はあ、と言いながら、メルクリオは目を閉じて、体内のアエラを探ってみた。
番人選抜の後から、異物が入り込んでいるような感覚はある。それがルーナのアエラであると仮定して、その欠片を追いかける。
釣瓶を手繰るように引き寄せ、あるいは自分が潜っていくと――あるとき、自分が何かと繋がっている感覚を覚えた。
ひとつではない。一人ではない。メルクリオは、大勢の『何か』と、細い糸で結びついている。
契約魔法だ。
ルーナだけでなく、かつて初代番人ポラリスのもとに集まった〈封印の書〉の魔族との、契約。
そう悟ると同時、メルクリオは無意識のうちに、ノワ・グリフォンの情報を探していた。当の魔族が目の前にいるおかげか、探し求めていた情報は強い輝きを放っている。その輝きをつかみとると同時、頭の中にことばが流れ込んできた。
体も頭もおかしくなりそうだ。本来、人がしてよい体験ではない。
それでも、メルクリオは耐え抜いて――現実へと戻ってきた。
「〈封印の書〉第三百番、『ヌーメニア山脈の怪物たち 第一巻』」
知らないはずの言葉が、口を突いて出た。
遠くの書架から光が飛び出し、メルクリオの眼前へ飛んでくる。星を封じ込めたような球が弾け、中から本が現れた。革張りの表紙の本は、ひとりでに開く。ページが勝手にめくれて、あるところでぴたりと止まった。
そこに並ぶのは、メルクリオの知らない文字と精緻な挿絵だ。
読めるはずのない本。しかし、メルクリオはその内容を理解した。
「『雲多き青天、峻険なる山々の狭間に怪物の影あり。鷲の頭に獅子の体、背にはやはり鷲の翼が生えている。全身は黒く、翼に赤い模様あり。
女子よりも甲高く、同時に怒れる牡牛のように低い声を上げ、怪物は先を行く人々に襲いかかった。太い足で獲物を引きずり倒し、くちばしで肉を食いちぎる』」
随筆、もしくは調査記録の類だろう。初めて触れた文章を、何度も読みこんだ物語のように暗唱する。
言葉に呼応するように生ぬるい風が吹き、それはノワ・グリフォンのまわりで渦巻いた。
「『私は熟練の魔法使いと共にいたが、それでもグリフォンに恐怖した。逃げ出そうとして転び、水筒を落としてしまった。水がこぼれるのを見た魔法使いが、熱を発する魔法を使った』」
一語、一文唱えるごとに、風が勢いを増す。それはやがて湯気となり、暴れ狂う魔族の姿を覆い隠した。
「『すると、たちまち水は熱湯となり、もわもわと湯気が上がった。湯気に驚いたグリフォンは、“獲物”の一片をくわえて、遥か上方へと飛び去っていった』」
詠唱が終わると同時、ぼわん、と奇妙な音がする。気体がいつの間にか、魔族を閉じ込める白い固体になっていた。それは見る間に収縮し、大人の手のひらほどの大きさになると、本の中へ吸い込まれて消えてしまう。
白いものが見えなくなると、本はやはりひとりでに閉じた。浮遊魔法が解けたかのように落ちてきた本を、メルクリオは片手で受け止める。
「おもっ――『根源たる力よ、あるべきところへ還りたまえ』」
慌てて鎖をアエラに還し、本を両手で抱える。ほっと息を吐いたメルクリオに、ルーナが声をかけた。
『封印完了。お疲れ様でした』
少年は、大きな目を瞬く。
「終わったの?……これで?」
『はい、終わりました。よくがんばりましたね』
メルクリオは、一瞬唇を尖らせてから、手元の本をまんじりと見つめる。
すごく不思議な体験をした気がする。そして――二度と引き返せない領域に、足を踏み入れたような。
途方もない恐怖と緊張感が押し寄せる。メルクリオは、強くかぶりを振った。少しでも気をまぎらわせようと、壁を囲む書架を見回す。先ほど光が飛んできた場所を探した。
「ルーナ。この〈封印の書〉って、自力で戻さなきゃいけないの?」
『いえ。“戻れ”と命じれば勝手に戻っていきますよ。ただ、こだわりを持って自力で戻しにいく番人もいました。好きな方を選んでください』
「うーん……」
そう言われると迷ってしまう。メルクリオは、再び本の表紙を見た。思い出すのは、暴れ狂うノワ・グリフォンの姿。異様な鳴き声と、嵐のようなアエラ。
そのすべてが、一冊の本に収まっている。そう思ったとき、自然と背筋が伸びた。
「……自分で戻す」
『そうですか。では、一緒にがんばりましょう』
メルクリオの呟きに、ルーナは驚くこともなく答える。煙のように飛び上がった彼女を追って、番人は歩き出した。




