エピローグ
1943年2月23日 館山
まだ2月だというのに、房総半島の館山は春を思わせるうららかな陽気だった。
季節を間違えたのか、冬の蝶がゆらゆらと浦賀水道を渡っていく。
1人の男が、釣り糸を垂れていた。
元参謀本部次長で、予備役陸軍大将の大原旬だ。
第2次世界大戦終結の知らせを聞いて、万感の思いに浸っていた。
以前、陸軍士官学校同期の侍従武官長と、茶飲み話をしたことがある。
「国家は、それぞれ自立した軍事力を持つべきだ。私は、満洲国軍をそういう軍隊に育てたかったが、実際には匪賊相手の治安部隊のレベルまでもっていくのがやっとだった。
しかし、東アジアの諸民族の独立を目指し、植民地解放の武力闘争に立ち上がる独立革命軍となると、最初から宗主国の正規軍と戦わなければならない。
そんな軍隊をゼロから育て上げるとなると、マニュアル通りの考えが骨の髄まで染みついた、並みの軍人には難しいだろう。
それができるとすれば、歩兵戦を念頭に置いた陸軍のマニュアルにとらわれることなく、ノモンハンでロシア軍戦車部隊を撃破した、宮崎繁三郎少将くらいじゃないか。独自にロシア戦車の情報を収集し、どの距離からどの角度で撃てば装甲を貫通できるか実弾を使って検証して、連隊に対戦車戦の訓練を徹底させたというから、たいしたものだ。彼は今、上海で特務機関長をしているらしいが、南方の特務機関にもっていったらどうだ」
そんなたわいもない雑談から、インド国民軍やミャンマー国防軍といった、大東亜共栄圏の多国籍軍、フリーダム・フレンドシップ・ファイターズ(自由友愛同盟軍)が生まれたのだから、感無量だ。
第2次上海事変のことも、忘れられない。
中国蔣介石政権軍は、「東洋のパリ」と讃えられる美しい上海の街の治安を守る日本の海軍陸戦隊4千を、3万の兵力で襲い血祭りにあげ、救出しようと駆け付ける陸軍35万を、ドイツの元参謀総長ゼークトが構築した要塞線「ゼークトライン」に誘い込み、75万の大軍で包囲殲滅するという壮大な作戦を構想した。
もし成功すれば、蔣介石政権軍の完勝という形で事変は終結し、動員可能戦力の大半を失った日本軍は中国からの全面撤退を余儀なくされ、第1次世界大戦のタンネンベルクの会戦に匹敵する、包囲殲滅戦の金字塔として、世界戦史にその名を刻むことになっただろう。
しかし日本軍は、新兵器である揚陸艦「神州丸」や上陸用舟艇「大発動艇」を投入し、奇襲的な上陸に成功する。それでも待ち構える蒋介石政権軍に苦戦を強いられ、甚大な損害を被ったものの、第一次世界大戦でドイツ軍が創始した浸透戦術を駆使して、要塞線の脆弱部を突破、「ゼークトライン」の準備が整う前にその後背を襲った。
大軍なだけに玉石混交のきらいがあった蔣介石政権軍は、作戦の要である「難攻不落の要塞」が突破されると、練度不足の兵がパニックを起こして総崩れになる。
蔣介石政権軍を指導していたドイツの軍事顧問団も、自らが創始した戦術とはいえ、歩兵の浸透戦術で最新の築城ノウハウを注ぎ込んだ要塞線が破られる日が来るとは想像もしていなかった。
軍事顧問団のリーダー、ファルケンハウゼン中将からその話を聞いたドイツ参謀総長フランツ・ハルダー大将は、フランスの誇るマジノ線も、延長部を浸透戦術で突破し、その空隙から侵入して後背を突けば瓦解させることができる、という着想を得たのではないか?
他方日本軍は、敗走する蔣介石政権軍の退路を断ち、揚子江に包囲することには失敗した。
重火器を駄馬に轢かせ、ぬかるんだ道を徒歩で進む歩兵師団では、武器を捨てて一目散に逃げる蔣介石政権軍を捕捉することができなかったのだ。
主力の脱出を許したことは、事変の泥沼化を招く。
首都南京に逃げ込んだ敗残兵は、軍服を脱ぎ捨てて市民に紛れ込み、テロリストとなって略奪、暴行、殺人を繰り返した。
手を焼いた日本軍は、殺気立った第一線部隊を市街地に入れてしまう。
それが失敗だった。
血みどろの戦場を生き抜いてきた第一線の兵士たちは、手負いの肉食獣のようなものだ。
殺さなければ殺されるという切迫した精神状態にあり、テロリストも市民も見境がない。
その結果、多くの一般市民を市街戦に巻き込んでしまった。
さらに、根拠のない流言飛語や虚偽の密告により、無辜の市民が誤ってテロリストとして逮捕、処刑される例が続出する。
南京市内に残っていた市民20万人の実に6%、1万2千人もの犠牲者を出したことは、痛恨の極みだ。
南京市内で難民の救済に当たっていたドイツ人宣教師から、その凄惨な様子を知らされたドイツ軍は、フランスの整備された舗装道路なら、機械化された装甲師団を突進させ、敗走するフランス軍の退路を断つことができると考えたのではないか?
そうすれば、敗残兵をパリに入れることなく、フランスを降伏に追い込めると。
1937年の上海が、1940年のアルデンヌ突破、ダンケルク包囲戦の反面教師になったとすれば、以て瞑すべしだ。
さて、これからの世界はどうなるのだろうか。
占領地から全ての日本軍が撤退を終えるのは、25年後の1968年だ。
それまで平和は保たれているだろうか?
1938年に返上したオリンピック、1940年に中止した万国博覧会は、開催されているだろうか?
それとも、アメリカがマンハッタン計画に成功して原子爆弾を完成させ、世界の軍事バランスが根底から変わってしまうのだろうか?
その時日本は、どのような政戦略を採るべきなのか?
久しぶりに石原莞爾を呼び出して、酒でも飲みながら、そんな話に時を忘れるのも一興か。
遥かに富士を望んでいると、陶淵明の「飲酒」が浮かんだ。
採菊東籬下
悠然見南山
「菊」といえば、先日食した海菊という貝はなかなかの美味だった。
富士の古称に「ひがしやま」もある。
ふと戯れ歌を思いついた。
採海菊籬下
悠然見東山
おっと、あいつは酒を飲まないんだった。
甘い菓子も用意しておかなければ。
安房の海に陽は綺羅を撒き、富士の嶺は生絹を纏っていた。
完




