ロシア 5
ナタリア・シェフチェンコ少尉が引き金を引こうとした瞬間、兵士が急に立ち上がった。
整列して、直立不動の姿勢をとる。
何事なのか様子を見ていると、しばらくして数名の将校が現れた。
その中に1人、ひときわ目立つ将校がいる。
制帽に金の縁取りがあり、肩から下げた参謀飾緒も、朝日を浴びて金色に輝く。
乗馬用の長い鞭を弄びながら周囲を睥睨する様子から、それなりの地位にある人物とみて間違いない。
狙撃目標を変更することにした。
照準を、金の縁取りの下に合わせる。
突然、アンナの声が頭の中に響いた。
「やつらを殺して。1人残らず殺して!」
指をそっと引くと、乾いた音が朝の静かな空気を震わせた。
将校が、無言のまま崩れ落ちる。
慌てて駆け寄る兵士を、1人、また1人と撃ち倒す。
ようやく狙撃されていることに気付いた兵士たちが物陰に隠れ、射界から人影が消えた。
ライフルに徹甲弾を装填し、MG34重機関銃の機関部を撃ち抜く。
これでもう、ただの鉄の塊だ。
次の瞬間、怒り狂った獰猛な野獣のように、凄まじい反撃が始まった。
迫撃砲の砲弾や、軽機関銃、自動小銃の銃弾が墓地に集中し、その破片や銃弾が唸りを上げて頬をかすめる。
目の前の葉が弾き飛ばされ、枝が粉々に砕け散った。
数え切れないほど目にしてきた、戦友たちが命を落とす瞬間が、ありありとよみがえる。
このままここに留まれば、確実に死ぬ。
といって、逃げようとしても、背中を蜂の巣にされるだけだ。
体中から、血の気が引くのがわかる。
だが、こんな時でも、自分の命より愛用のライフル銃の無事を優先するのが狙撃手だ。
銃が壊れないように、そっと下の枝に掛ける。
それから撃たれたふりをして、仰向けになったまま、樹上3メートルから落下した。
頭と身体を墓石で強打し、息ができず身動きもならず、やがて意識も遠のいていく。
どれだけ時間が経ったのか、ふと気がつくと衛生隊のテントのベッドの上にいた。
戦友たちが、危険を冒して救出してくれたのだ。
しばらくはベッドから起き上がることもできなかったが、なんとか命は長らえた。
後日、射殺した将校が、ルーマニアの国家指導者、アントネスク総統の右腕とされる実力者だったことが判明した。
だが、幸運はいつまでも続かない。
悲劇は、半年後に訪れた。
久しぶりに休暇をもらい、自宅のダイニングで恋人のサーシャとたわいもない話をして笑いころげていると、ドイツ軍の砲撃が始まった。
だが、その弾着は遠く、話に夢中になった2人はつい油断する。
そこに突然、砲弾が降り注いだ。
「伏せろ、ナターシャ!」
そう叫んで、サーシャが覆いかぶさる。
次の瞬間、至近弾が炸裂した。
鋭利な刃物のような破片が、四方八方に飛び散る。
サーシャは右肩を押さえ、うめき声を上げた。
急いで傷を確かめる。
傷口が小さいにもかかわらず、出血が激しい。
見る間に、顔面が蒼白になっていく。
すぐに病院へ運び込み、緊急の外科手術を受けた。
だが、背中に食い込んだ破片のうち、外科医が摘出できたのは、半数だけだった。
残りの破片は太い血管に突き刺さっていて、抜けば出血多量で即死するからだ。
それ以上手の施しようもなく、翌日、サーシャは息を引き取った。
怒りに燃えるシェフチェンコ少尉は、復讐を誓う。
だが、今度は心と身体が悲鳴を上げた。
ライフル銃を持とうとしても、手が震えて持てないのだ。
恋人を目の前で死なせてしまったショックから発症した、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、精神科医から2週間の入院を命じられた。
だが幸い、症状は1週間で消える。
後追い自殺を心配した上官が、保管していた拳銃も返された。
1週間ぶりに触れたトカレフは、旧友に再会したように懐かしく、心が安らいだ。
すぐに最前線に復帰し、確認戦果(同僚の兵士の目撃証言があり、射殺した敵兵の軍服から切り取った階級章などの物的証拠が揃っているもの)を、251から303へ伸ばした。
その後、米国市民に欧州上陸作戦の必要性を訴える訪米使節団の一員に選ばれ、輸送機が発着するバクーまで来たところで、戦況の悪化により足止めされていたのだ。
霧の奥で、何かが動いている。
じりじりしながら待つうちに、霧が薄らいできた。
幾重にもかさなる白いベールを通して、うっすらと何かが見える。
やがて、風が霧を吹き払い、しだいに輪郭が露わになった。
見たものが信じられず、目を疑い、もう一度目を凝らす。
見間違いではない。
ドイツ軍の装甲師団が現れた。




