カサブランカ沖 3
第3艦隊第1航空戦隊の空母「瑞鶴」飛行隊長、大宅大尉は、愛機の99式艦上爆撃機を駆って、米空母「サンガモン」に接近しようとしていた。
次の瞬間、曳光弾が機体の脇をかすめた。
F4Fだ。
いつに間に現れたのか。
慌てて逃走を試みる。
だが、相手もしつこく喰い下がってきて、なかなか引き離せない。
こうなると、いくら歴戦のベテランパイロットといえど、重い爆弾を抱いたままでは、身軽な戦闘機を振り切ることは難しい。
戦闘機が照準を合わせる瞬間を見極め、紙一重でかわしながら、雲の中に逃げ込むしかない。
後方席に座る偵察員の小野飛行兵曹長が、敵機の軸線がほんの少し右にずれているのを見て叫んだ。
「左!」
大宅大尉は、素早く機体を左に滑らせた。
だが敵も、百戦錬磨のエースパイロットだったのだろう。
右に撃つと見せたのはフェイントで、銃弾を左に集中してきた。
撃ち抜かれた主翼から、ガソリンが細い霧となって迸り出る。
幸い、すぐに引火する気配はない。
命中したのは、徹甲弾か。
曳光弾だったら、今頃火だるまだ。
ほっとしたのもつかの間、次の弾丸が操縦席を襲った。
99式艦上爆撃機の操縦席に防弾鋼板はない。
銃弾は大宅大尉の右肩を貫通し、計器盤を粉砕した。
飛び散った鋭利な破片が左膝を抉る。
操縦桿から手応えが消え、次の瞬間、高温の排気ガスが奔流となって操縦席に吹き込んできた。
敵弾が操舵索を切断し、エンジンの排気管を突き破ったらしい。
熱風で喉を火傷して、呼吸ができない。
必死に風防を開き、喘ぎながら新鮮な空気を吸い込んだ。
なんとか一息はつけたが、舵の効かない機体では、攻撃を続行するのは不可能だ。
振り向くと、大宅大尉の鍛え上げた「瑞鶴」艦爆隊が、横1列の単横陣から、敵空母を包み込むように急降下していくのが見えた。
「あとは、頼んだぞ!」
いつのまにか、F4Fはいなくなっていた。
大宅機がコントロールを失い、煙の尾を引き落ちていくのを見て、撃墜と判断したのだろう。
まずは機体を水平に戻して揚力を回復しなければ、本当に墜落してしまう。
操縦桿を動かしてみると、昇降舵は利かないが、方向舵と補助翼は生きているようだ。
負傷した右肩と左膝をかばい、左手と右足だけでなんとか機体を水平に戻す。
投下レバーを引いて爆弾を投棄した。
飛行服を引きちぎって左膝を縛り上げ、右肩はマフラーを堅く巻いて止血する。
エンジンは異音を発し、不規則に振動を続けている。
プロペラはかろうじて回っているが、計器盤は全て破壊され、方角も速度も、燃料の残量すらわからない。
さて、どうする?
背後の偵察席で、小野飛曹長の叫び声がした。
炎で焼け爛れた真っ黒な顔に目だけを光らせて、なにかを伝えようとしている。
大宅大尉は、大きく頷いた。
何としても生きて帰るんだ。
太陽の角度で大まかな見当をつけて、ひたすら飛び続けた。
だが、友軍も陸地も何も見つけられないうちに、とうとう燃料が尽きる。
プロペラが回転を止めた。
飛行スピードが落ち、機首が下がる。
するとわずかに速度が上がり、揚力が回復して機体が水平に戻った。
グライダーと同じ飛行方法だが、艦上爆撃機の翼面荷重では、そういつまでも続けられるものではない。
やがて海面が迫ってきた。
目測で時速100キロ程度か。
両足を上げて飛行靴の底を計器盤に押し付け、両肩に首を埋めるようにして衝撃に備える。
左翼の端が波頭に触れ、左に旋回しながら海面に突っ込んだ。
機体は水中で裏返しになり、青い洞窟にでも迷い込んだような幻想的な光景が目の前に広がった。
風防の縁をつかみ、操縦席を蹴って飛び出す。
なんとか水面に達すると、小野飛曹長も浮き上がってきた。
着水の衝撃で首に負傷している。
大宅大尉は、自分の救命胴衣を折りたたんで小野飛曹長の首の後ろに当て、マフラーで固定した。
上腕部にも銃創があったので、腕の付け根を縛って止血する。
どうやら、銃弾は小野飛曹長の背後から腕をかすめ、大宅大尉の肩を貫通して計器盤と排気管を破壊したものらしい。
もし二人の座席に防弾鋼板があれば、不時着することもなく、攻撃を続行できたに違いない。
一段落したところで周りを見渡してみたが、ただ海と空が広がるばかりで、目に入るものは何もない。
南国の灼熱の太陽が、容赦なく照りつける。
しばらくして、なんの前触れもなくスコールが降り出した。
猛烈な雨で、数メートル先も見えない。
「しっかり水を飲め!」
2人で飛行帽に雨を貯め、真水でのどを潤す。
飲める時に飲んでおかなければ、次がいつあるのかわからない。
スコールが唐突に止み、灼熱の太陽が戻ってきた。
あまりの眩しさに目を細めていると、今度は何かが波間を横切った。
嫌な予感がする。
海面を切り裂くようにして、近づいてくるものがある。
鮫だ。




