ノブの話
産まれて数十年経つが一度も風呂に入ったことも体を拭かれたこともなかった。
だがここ最近異常なほど磨かれる。
いつもは手垢でぴかぴかであったが、今は清潔感がある。
開くときと閉じる時、それから数時間おきに柔らかな布がやってきて私の体を丁寧に磨いていく。
この家のドアノブになって数十年、こんなに丁寧な扱いを受けたことは一度もなかった。
また一人やってきて私をねじって扉を開けた。
ちりりんと鳴った鈴は私に引っ掛けられたどこかの土産物の鈴だ。
熊が追い払えるらしいが、当然この家の中でそんな物騒な動物が出たことはない。
なぜこんな無意味なものが私にかけられているのか。
最大の謎であるが、それはこの鈴にとっても不本意なことらしく、鈴が鳴るたびに熊がいるのかと見張っている。
絶対出没しないと教えてやりたいが、熊除けとして生まれた使命を否定することもできず、私はその音を声を殺して聞いている。
扉が閉まると、うとうとと居眠りをする。
それからまた唐突にひねられて扉が開けられる。
触れるたびに消毒スプレーのきついアルコールの香りが吹き付けられる。
最近の変化は私が磨かれるようになっただけではない。
磨かれているのは私だけではなく、家じゅうが清潔になったのだ。
アルコールの匂いは常にいたるところから漂っている。
さらに住民の滞在時間が増えて使用回数も増えた。
一日のドアノブ使用回数が倍増したのだ。
つまり私の仕事量も倍増だ。
居眠りしている暇もないほどひねられるのだ。
ぐるりとひねられ、ちりんと鈴を鳴らす。
またぐるりとひねられちりんと鳴らす。
そんな日々だ。
住宅内も多少うるさくなった。
どたばたと足音がしては乱暴に扉が閉まる音がする。
幸いここのドアノブの扱いは丁寧だが、下の階から聞こえる音は二階まで響くほどだ。
どたどたと足音が響き、ばたんと閉まり、さらにバタンと開く。
時々何か物を落としたり投げたりする音まで聞こえてくるようになった。
不穏な空気を醸し出して住人が私に触れる回数も増えているが、ドアノブとしてはかなり充実した日々だ。
使われ、磨かれ、そして扉をしっかりと閉ざして開く。
そんなある日、私のドアノブから例の熊除けの鈴が取り除かれた。
ついに熊出没地域に出動していくのかと、私は内心ほっとした。
だが、本当にあのちりんちりんという軽い音で熊というものが逃げていくのだろうかと疑問に思った。
と、ガチャリと普段聞かない音がした。
私の鍵が閉められたのだ。
そういえばこの扉のドアノブとして生まれてから鍵は滅多に使われたことがなかった。
珍しいこともあるものだと思っていると、今度は何か分厚いものがかけられた。
白い無地のタオルであった。二つのタオルを結び付けて輪にしてある。
それが私のくびれに食い込むようにかけられた。
これでは私をひねって扉を開けるのは難しいのではないかと思った。
その次の瞬間だった。
ずしっと体を全部持っていかれるような重さで下に強く引っ張られた。
どさっと重い物が床に落ちるような音がした。
吊り下げられた何かの重さで私が壊れたのかと思ったが、かろうじてねじが私の体をドアに繋ぎとめていた。
それでもぎしぎしと軋む音を立てているのは私に引っ掛けられたタオルの音であり、ぎゅうっと引き伸ばされて下の錘をドアノブの下で固定していた。
これはドアノブの本来の使い方ではない。
私はなぜか悲しくなった。
この家に来た時、私はまさかドアノブとしてこんな使われ方をするなど夢にも思っていなかったのだ。
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第一発見者は父親だった。
救急車と消防車が到着した時、父親は二階の部屋の扉を叩き壊しており、息子の首からタオルを剥ぎ取ると、必死に心臓マッサージをしていたのだ。
土足で走って駆け上がってきた救急隊員が息子の体から父親を引き離し、呼吸を確認した。
「た、たすかりますか?かろうじて息が……」
すっかり動揺している父親に救急隊員は何も言わなかった。
一刻を争う事態であった。
運ばれていく息子を呆然と見送り、父親は立ち上がった。
とにかく病院へ向かわなければならなかったのだ。
部屋を出て行く父親の後ろで、消火器で壊された扉がノブを落としてぶらぶらと揺れていた。