樽の精霊
大海原のど真ん中に樽が一つ浮いていた。
幸運なことに中は空洞でまだ浸水していなかった。
おかげでこの樽の中に詰め込まれた男はまだ息があったのだ。
とはいえ、波に揺られるばかりでどこに辿り着けるのかもわからない。
「困ったなぁ」
男は樽の中からぴちゃんぽちゃんと聞こえる波の音に耳を澄ませ、ため息をついた。
男はつい先ほど海賊船から海に投げ落とされたばかりであった。
ワインや干し杏子をちょっとばかり盗み、飲みすぎて伸びていたところを見つかったのだ。
縛り首か、海に飛び込むか、酒樽に詰められて流されるかの三択で、一番長く生きられそうな酒樽を選んだ。
しかしこの途方もない飢えと絶望感は一瞬で命を落とした方がましだったのではないかと思うほどの恐怖であった。
トントン
突然樽が叩かれる音がした。
男は喜んで助けを呼ぼうとして踏みとどまった。
なにせ男は海賊なのだ。見つかれば縛り首である。
相手を殺せば助かるかと思ったが、外に何人いるかわからない。
だからといって、海賊でないとごまかすにはかなり無理のあるいでたちであった。
トントン
再び樽が鳴った。
何も入っていないと思われ放置されても困るのだ。
海賊の男は頭をひねり考えた。
「何か用か?私は樽の精霊であるぞ」
海賊の男はどんな答えがくるか耳を澄ませた。
「樽の精霊様ですか?!ああ、聞いたことがあります。豊富な食べ物と水を約束してくださるというあの樽の精霊様ですね。ああ。わが島に来ていただけたらこれほどうれしいことはありません」
樽の外から聞こえてきた言葉に海賊の男は喜んだ。
海の上を生業にする船乗りは迷信深いと決まっている。
こういう目に見えない存在を有難がる傾向にあるのだ。
「わしを陸に運び敬えば、お前の村に良いお告げをしてやろう」
「それは有難い。ぜひわが村においでいただこう」
樽の中の海賊はそれを聞くとにやりとし、やっと陸に辿り着くと安堵したのだった。
_________
予定外に遠くまで小舟で流されてしまった漁師は浮いている樽を見つけると、すぐに何であるか察しをつけた。
時々流されてくる樽の中にはよく海賊の死骸が入っているのだ。
樽の内側にひっかいたような生きた証が残されていることから、恐らく海賊船で何らかの罪を犯し、罰として樽に入れられ海に捨てられたのだろうと思われた。
だが、今回の樽の中には生きた海賊が入っているようであった。
さすがに出て来られれば漁師の男などあっという間に殺されてしまう。
急いで離れようかと思ったが、樽の中からの返答に気がかわった。
助けを呼ぶわけでもなく、樽の精霊だと名乗ったのだ。しかも陸地に連れていけば良いお告げをくれるという。
樽の中の海賊は外にいる人間を恐れているのだ。
こちらの人数も不明であるから当然だ。
そうであれば陸地に到着するまで海賊はこちらを襲いに出て来られないだろう。
そう考え漁師は適当に返事をし、中の海賊を安心させると船尾にロープで樽を固定した。
もう既に夕刻であり、すぐに日が落ちて夜になった。
漁師は星を見て方角を確認し、休まず小舟を漕ぎ続けた。
幸いにも明るい月明かりがまるで道筋を作るようにあわく海面を照らし出していた。
漁師は手元のランタンにも灯りを入れると、後ろの樽を確認し、再び前方に目を向け力強く船を漕いだ。
帰り道に迷いはなかったが、村の入り江に戻るには難関があったのだ。
そこはサメが多く集まる領域であり、そこを通り抜けるのにどうしても餌が必要だったのだ。
釣った魚で足りない時は、大物の餌が必要だ。
さすがにこの大きさならサメも一口で食べるわけにはいかず、時間がかかるだろう。
その間にそこを通過すれば安全に村に戻れるはずであった。
もし万が一村まで無事に辿り着けたとしても、樽が海に浮かんでいる間は中の海賊は襲いかかってはこないだろう。
樽は桟橋に繋ぎ海に浮かせたまま村の者たちを呼びに行って樽の上から剣で突き刺してしまえばいい。
前方に大きな水しぶきが上がった。
鮫の尾がばしゃんと海面にしぶきを立てて波間に沈んだ。
そろそろ鮫の生息する領域であった。
「樽の精霊さん、頼みますよ……」
漁師はひっそりと呟いた。
完。
拙い作品を読んで下さりありがとうございました。




