【追日ノカケラ】騎士ハ想イ真白ハ唄ウ
「そんなもん喰って、大丈夫なんですか?なにか入ってたら…むぐっ!」
「入ってるだろう。すでに、カリュオンが」
ブラウニーは、脱力してはならない場所で無防備に項垂れた。
「…わかってて、言ってます?」
しかし対するサバランは、いつもと変わりなく感情の読めない顔をしている。
ブラウニーは、タメ息の代わりに口に放り込まれた“物体”に歯を立てて噛み砕くことにした。
空煎りしたカリュオンを、“ちょこれーと”という茶色く甘いもので包んだソレは、なかなかおいしいとブラウニーは思っている。
保存にも適していて、どんな魔術かは知らないが少量で腹が膨れるという、遠征に向いた食糧だ。
ただ、問題は作った相手にあるだけで。
「これに毒でも入っていたら、どうするんですか?大体、身元不明な魔女を国王陛下に疑われてもなお、手元に置く意味がわかりません」
口の中にただ入れているだけでじょじょに溶けていく“ちょこれーと”を咽下し、ブラウニーは先程はいわなかったことにさらに付け足しながら言葉にする。
その表情は、甘いものを口にしているのに、苦い。
ブラウニーが言ったことは、別に誇張でもなんでもない。
魔術師団長であり、“黒剣の魔王”の二つ名を持つ最凶の魔術師であるサバランは他国から見れば驚異だ。
そして国内からも、世界をも破壊出来るほどの魔力を危険視する者もいた。
さらに言えば、彼自身の微妙な立場もまた、要因のひとつである。
今回のように。
「玉座に興味などない」
「師団長のことをよく知ってれば、理解してもらえるんですけどねー」
ブラウニーの言葉の端々が若干、イヤミっぽく聞こえるのは仕方ない。
「普通、バカ正直に本心を口にするとは思わないでしょうよ。そこが人間のイヤなところで、否定されればされるほど疑いたくなるってものです」
悲しいかな、サバランは無表情な挙げ句、口下手である。
言葉を尽くすでもなく、『玉座不用』などと言っても誰も信じてはもらえず。
おかげでこうして、『忠誠心を試す』と称して魔術師団長が出る必要もなかったはずの遠征に駆り出される羽目になったのだ。
そもそも、玉座を望むための王位継承権などとうの昔にないのに、それすら忘れているのだろうかと、サバランは先代国王とあまり似ていない現国王を思う。
「たかが、血筋と面の皮だけだろうに」
「その他に地位と実力、魔力と剣の腕があるんですから余計ですね。あぁ、あとは後ろ楯?確か母君は先代魔術師団長の妹だとか」
自分の口にした言葉と共にタメ息を吐いたサバランだったが、ブラウニーの言葉の後半でなにやら思うことがあったらしい。
しかし、結局はなにも否定せずに無表情を貫き通した。
「たかが、それだけだ」
もう一度、常に冷静さを失わない声が同じことを重ねた。
魔術師が王家に生まれたら、その者は王位継承権を失う。
私欲で魔力を振い、民を傷付かせないための配慮だ。
自身の意思ではなく、公平な判断が出来る者に使役される存在。
彼の場合、王の振るう最凶の剣であり続けること、それがサバランの役割だった。
彼は王城に飾られた、歴代国王の肖像画を思い出す。
現国王の横に飾られた絵の中には、持つ色は異なるものの、自身と同じ顔立ちをした男が描かれている。
剣を掲げ、敵へと自ら斬り込む勇猛果敢な王。
考えなしで無謀な、王にあるまじき行動を取るバカ者としかサバランには思えないものの、いまだに民に慕われている。
だからサバラン曰く『面の皮』一枚であるにも関わらず、民に担ぎ上げられるなどと余計な心配をする者たちがいるのだ。
さらに、魔術師団長に匹敵しゆる魔女が現れ、それを囲い込むように隠すものだからその疑惑はより一層真実味を増している…らしい。
「いっそ、あの魔女を陛下に献上したほうが…いえ、冗談っすよ」
真っ黒なオーラが魔術師団長から噴出され、ブラウニーはすぐに意見を撤回した。
無表情なのに、どこか恐ろしい顔をしているように見えるのは、気のせいだろうか?
まさか、サバランがここまであの少女に執着するとは、幼馴染みであるブラウニーにもわからなかった。
手元に置き、外に連れ出すときは周囲に人を付け、わざわざ男装までさせる。
少しでも、自身の疑いを晴らすならば、ブラウニーがいうようにいわれるまま国王に魔女の身柄を明け渡すのが最良の方法だろう。
もう二度と、後宮かどこかに隠されて会えなくはなるだろうが、少なくとも今回のような面倒事になることはない。
もっとも、サバランにはそんなつもりは毛頭ないようだが。
ブラウニーは、サバランのその様子にひっそりとタメ息を吐く。
遠くで、合図が上がり、場の緊張が高まる。
サバランは、鋭い眼差しで前方を見据えていた。
「…早く帰りたいですね」
「そうだな」
呟いたブラウニーに、若干鋭さを和らげた目を向けたサバランは静かに返す。
「ブランも待っているしな」
「んなっ…!?」
あわてて否定しようと、サバランに身体ごと向けるが、からかう内容だったくせに魔術師団長は常と同じ無表情だった。
…本人にからかう意図があったのか、はたまた事実を述べただけなのか、ならばなぜモンブランの名だけしか出さなかったのか。
問い質したいことはあったものの、サバランの表情からはやはり読み取ることは出来なかった。
仕方なく考えるのを放棄して、サバランから前方へと向き直る。
変なふうに高ぶった神経を落ち着かせるためにブラウニーはゆっくりと目を閉じた。
彼のそのときの記憶は、痛みと恐怖が常に伴っていた。
らんらんと輝く血走った目に、狂ったように笑うのは、当時の彼よりいくらか年上の…ちょうどあの魔女の外見年齢と同じくらいの幼い少女。
いや、ソレはただの少女ではなく、魔女という存在だった。
ソレの関心は魔力がない者に向けられ、『なぜ魔力がないのか』『なぜ魔術が効かないのか』『どういった原理で魔術を防ぐのか』『効果のある魔術は存在はするのか』『他の人間と身体の作りはどう違うのか』と、興味があるのはそれだけ。
被験者はその疑問を解消するための所詮は実験体でしかなく、どんなに泣こうか叫ぼうが人として扱われたことはなかった。
薄暗い部屋で“あの日”も、いつもと同じように諦め、絶望し切った目で虚空を眺めていたブラウニーは、外の騒がしさに気付く。
逃げないと侮られ、カギなど掛けられていないドアは呆気なく開き、彼は外へと恐る恐る出ていった。
遠くで苛立ちも顕な魔女の怒鳴り声や、八つ当たりされたのであろうなにかが壊れる音、魔術が連続して放たれる音、そして…魔女と対峙する者の声が聞こえる。
普通であれば、それを聞いて助けが来た、もしくは騒ぎに紛れて逃げ出そうと打算する場面だろう。
しかし、ブラウニーはいままで幾度もなく挑み、そのたびに賭けに負けて、すでに心は折れていた。
ただただ、震えて立ち竦むことしか彼には出来ない。
だから、目の前に怒りに鬼のような形相になっている魔女が現れたときも、硬直するばかりで一歩どころか指ひとつ動かせなかった。
「お前が、お前があたしの役に立たないからっ!だからあたしの研究が認められずに、あいつらみたいなのがジャマをするんだっ!!」
それは完全な八つ当たりだった。
だが、魔女にとって不愉快なこと全てがブラウニーのせいであるのはもう決まり切ったことである。
いや…なにもかも、悪いことは自分のせいではないとそう、思い込んでいるのだろう。
「この役立たずっ!!」
肉を打つ、高い音。
張られた拍子に鋭い爪が頬を抉り、鮮血がじわりと滲む。
「役立たず、役立たず、役立たずっ!!」
叫びながら腕を振るう魔女。
狙いを定めないそれは、ブラウニーの身体を殴打し続けている。
魔女の、幼い少女で筋肉とは無縁そうな細い腕でのそれは大した痛みはない。
しかし重ねられた恐怖の記憶が、ブラウニーの反撃するだけの気力を奪い、腕で頭をかばうだけでただただされるがままであった。
ブラウニーのその様子に怒りをさらに煽られたのか…反撃したらしたでさらに怒りそうだがーー魔女は顔を真っ赤にして無抵抗な少年の肩を強く押す。
「もういい!あんたなんていらないわっ!!」
呆気なくバランスを崩したブラウニーは、よろよろとその場に尻餅を着いた。
力なく見上げる先には、狂気を孕んだ魔女の瞳。
「死んじゃえ」
いつの間にか、魔女の手にはその幼さに似合わぬナイフが握られていた。
振りかぶられたナイフを防ぐことは、ブラウニーには出来ない。
例え先程のように腕で庇おうにも、ただでは済まないだろう。
振り下ろされるナイフが、ブラウニーにはやけにゆっくりと見えた。
口を半開きにしながら、それを彼は見上げている。
真っ赤に腫れた頬はひりひりと痛み、今まで実験動物のように酷使され続けた身体はボロボロだ。
自分は死ぬのだろうか。
ブラウニーの脳裏に、不意にそんな考えが浮かぶ。
何度だって、魔女の実験中に死にかけたというのにこの瞬間、少年は強くそれを意識した。
意識した瞬間、マヒしていた感情が呼び起こされる。
理不尽だった、なにもかもが。
魔力がないのは、ブラウニーのせいではない。
それなのに、ひどい扱いを受けてそのまま理不尽な理由で殺されるのか。
じわりじわりと生まれた感情は、四肢に再び立ち上がる力を与えた。
歯を食いしばり、よろめきながら立ち上がったブラウニーに一瞬、魔女は目を見開いたが驚異とは思わなかったのだろう、振り下ろすナイフはそのまま少年へと向かう。
「…ってに、き…るな」
掠れた声は弱々しい。
だが、沸騰するような怒りに突き動かされたブラウニーは強い眼差しで魔女と迫り来るナイフを睨み付けて叫ぶ。
「お前が、勝手に決めるなっ!!」
もはや、避けることが出来ないほどの距離に迫ったナイフ。
しかし、ブラウニーは目を逸らすことも、睨み付けることもやめなかった。
「…≪展開≫!!」
「きゃああぁぁっ!?」
肉体的にも精神的にも痛手を受けた現在の状況で、大したことは出来ないことくらいブラウニーは理解していながら、せめてもの抵抗だった。
しかしながら、『これで自分が倒れても悔いはない』…などと思えるほど達観しているわけではない少年は、自分の目の前でナイフが止まったのを確認して大量の汗を流すこととなる。
「よく言い返した」
息の乱れと動悸がやたらと早くなるのを、あとから震えてきた手で宥めるように胸を撫でていたブラウニーの肩を誰かが強く叩く。
憎らしげにこちらを睨む魔女では、もちろんない。
この場にいるのはブラウニー、対峙する魔女の他に魔術を完成させ、魔女の動きを封じた者がひとり。
ブラウニーの肩を叩いたまま少年の横を通り過ぎ、彼を守るように前に立つ長い真白は薄暗く、ろくな明かりがない場所でも浮かび上がり、スラリとした立ち姿は氷付けになった手を押さえて踞る魔女とは対称的に凛としていた。
「同じことをやり返せとはいわないが、やられっぱなしでただ助けを待つなど言語道断!せめて、さっきのように抵抗しろ」
姿と同じ、凛とした目が彼女より小さなブラウニーを見下ろす。
長く、先が尖った耳は長命種であるエルフの証であり、だからかは少年はわからないが、清廉な空気を持つ彼女の目に薄汚れた自分が映るのが無性に恥ずかしくなっていっそうと身体を縮めた。
「…しかしまあ、自分の足で逃げ出そうとしたことは評価できるぞ、うん」
身体を縮めた理由をどうやら勘違いしたらしい女エルフは、ほんの少し焦った様子でそう付け加え、ブラウニーの頭を撫でる。
しばし、二人の間にだけ和やかな空気が流れた。
しかしそれをブラウニーが心地よく感じる前に、舌打ちが和やかな空気を打ち消す。
無論、憎らしげにこちらを睨む魔女であった。
「亜人ごときがこのあたしに魔術を放つなんて、いい度胸ね」
「そうだな、貴様ごときに放つだけ魔力がムダだな」
「なんですって!?」
真っ赤だった顔が、それを通り越して赤黒くなっていた。
顔の作りは悪くはないのだが、憤怒の表情が彼女を醜悪に見せる。
反射のように震える足を叱咤し、ブラウニーは二人のやり取りを見詰めた。
「抵抗するだけムダだぞ。罪状は先程述べた通りだ。魔術師団長“雷光の魔女王”代理として、我々が派遣されたのだ、決して逃しはしない」
『我々』?
それはつまり、この女エルフ以外にも誰かがいるということだ。
しかし、今まで気配も感じなかったのだがー…。
「ブラン」
たぶん名であろう、咎めるような響きを含んだそれは幼い声だった。
突然、聞こえてきた自分より幼そうな子どもの声にブラウニーは驚き、魔女は肩越しに自身の背後を一瞬、振り返ったと思いきや、猛然とこちらに向かって駆け出す。
「どけえぇぇぇっ!!」
凄まじい勢いでこちらへと向かってくる魔女の顔は、恐怖に引きつっている。
混乱からか、中途半端にしか形成されなかった魔術はしかし、まともな形では展開されることはなかった。
「「≪展開≫」」
小さく術式を唱えていた女エルフの凛とした声と、幼いが平坦な声がそれぞれ魔術を展開する。
女エルフの魔術は白い光となって、魔女の半端な魔術を相殺する。
正面から衝突した魔術は霧散し、白い光は舞い上がってからひらひらと落ちてくる白い結晶となった。
「…雪?」
頬に当たった結晶はゆっくりと形を崩し、冷たさを残して溶けて消える。
不思議なことに、直接放たれた魔術はブラウニーの身体に影響を与えないのだが、こうして魔術から間接的に発生したものは彼の身体に『冷たい』という感覚をもたらすのだった。
キラキラと白く淡い光が降る中、その光景には似つかわしくない恐ろしい絶叫が響き渡る。
音にし難い、ただただ聞く者に恐怖心を与えるような、そんな声だ。
もはや年端のない少女の声だとは認識出来ない、濁音混じりの音。
聞くに堪えぬその音に、幻想的ですらある光景に目を奪われていたブラウニーはそちらに視線を向けー…上げそうになった悲鳴を飲み込んだ。
…実際は、“飲み込んだ”のではなく、衝撃のあまり喉に声が張り付いて“出なかった”の方が正しいのだが。
腕を振り回して必死に抵抗しているのは、あの魔女だった。
魔力量が多く、術式も短縮出来るはずであるのに、彼女はろくな抵抗にもならないことを繰り返す。
しかし、仕方がないのかもしれない。
魔女と対峙しているのは、どこまでも暗く淀んだ、闇“そのもの”。
徐々に広がる先にあるものは全てそのまま飲み込まれていき、どんなに目を凝らしても飲み込まれたものがどうなったのか、その中身は知ることが出来ない。
それはまるで底無し沼のようで、見ている者を不安にさせる、そんな存在だった。
そのような存在が、背を向け再度逃げを打とうとした魔女の隙を突き、覆い被さる。
質量など感じさせない姿のそれが覆い被さると、のし掛かられた方はしばらく足を震わせながらも耐えるが、呻きながら倒れた。
ずるりずるりと這い上がる闇は、倒れた瞬間を見逃さずに飲み込む範囲を広げていく。
軋むような音と、乾いた固いものが割れる音がブラウニーの所まで聞こえてくる。
そして、この世の終わりのような絶叫を最後に上げた魔女は直後、動くことはなかった。
息を殺して見守らざるえなかったブラウニーは、魔女が背を向けていた向こう側に立つ存在に気付く。
先程の声の主だろう、声も姿も幼いのに子ども特有の無邪気さや天真爛漫さもない、不自然なほどの無感情。
そんな子どもがまとうのは、幼い子どもには不似合いな、女エルフと同じく魔術師を表すローブと…本能的な恐怖を与える黒い黒い髪だった。
魔女ですら恐怖を覚えるのだ、心身ともに魔術を扱う者に傷付けられたブラウニーが同じように…いや、むしろそれ以上に感じるのはムリはない。
恐怖に歪むブラウニーの表情を、静かに凪いだ青紫色の瞳が見詰める
その瞳に一瞬、悲しみと寂しさめいた感情が浮かんだのを、ブラウニーは見た気がした。
ー…それがブラウニーが“白光の魔術師”と呼ばれる女エルフと、“黒剣の魔王”と後に呼ばれることとなる子どもとの邂逅だった。
養父となった騎士団団長との出会いもこの後のことで、男手ひとつで育ててもらったことは感謝しているし、騎士てしても尊敬をしている。
しかし出会いが衝撃的だったせいか、魔術を扱う者に恐怖心を抱きながらもふたりに対してならば自分から、近付くことが出来た。
“黒剣”に対する本能的な恐怖は、結局のところ緩和された程度で克服は出来なかったものの、端から見ればかなり気安い…幼馴染みのような関係に見えるくらいにはなった。
それも単にあの寂しげな顔を二度と見たくないから…などという殊勝な心掛けではなく、子どもの傍で細々と身の回りの世話をする女エルフに関わりたいからという、下心丸出しな理由からである。
…いろいろ台無しだが、まあほんの少しだけ、さまざまな意味で恐ろしい幼馴染みの手助けが出来たらーーと、意外に真面目に思っていたりするブラウニーだった。
魔術によるカマイタチが、戦場を駆けサバランを目指す。
しかし素早くサバランの前に立ちはだかったブラウニーに触れるか触れないかの瞬間で、魔術は霧散する。
盗賊の一味にいる魔術師が舌打ちするのを視界の端で捉えるが、サバランの傍を今離れるのは危険だ。
戦場において、魔力のないブラウニーは魔術に対する盾としてその力を発揮している。
正直、魔術師の最高位である“魔王”を名乗っている男に護衛など不要だが、魔術を放とうとするたびに敵…となぜか味方から邪魔が入るため、負担を減らすためにそうしているのだ。
「ブラウニー」
「大丈夫です!」
こちらを気遣うように名を呼ぶサバランに、すぐに返事をすれば再び彼は魔術の構築に入る。
いっそ、敵味方問わず一掃できたらと、物騒なことを考えるブラウニーはまたサバランに向けて放たれた魔術に気付き、その前に割り込む。
トスッ
そんな、軽い音だった。
さきほどと同じように、魔術は無効化したはずだ。
しかし今、自分の脇腹に刺さっているものは、なんだ?
ブラウニーは、無意識に自身の脇腹へと手を伸ばし、そこに突き刺さっている存在に手を這わす。
ぬる付く感覚が、手袋越しにあり気持ち悪いと妙に冷静に思う。
「ブラウニーっ!!」
対ブラウニー用に目眩まし代わりの魔術が、きほどとは違い一切掛かっていない矢が無数に飛んできて、しかし展開位置をずらしたサバランの魔術がそれを呆気なく射手ごと吹き飛ばした。
「ブラウニー!」
「だい…じょーぶ、ですよ」
じわりじわりと、紅い生命の雫が手の間からこぼれ落ちる。
手足は冷え、傷は熱さとして認識していたはずなのに、今や感覚は痺れたようにない。
けれども、安心させたくていつものように笑いたかったが、緩慢で掠れた声は本人の意思に反して途切れがちになってしまう。
脇腹を押さえたまま、地面に力なく膝を付き掛けた彼を支えたのはサバランだ。
サバランは刺さった矢の深さと出血量を見て、視線を巡らせる。
今回の盗賊討伐任務にも法術師は同行していたのだが、見渡せる範囲にその姿はない。
眉間にシワを寄せて、整った顔を凶悪な表情へと変化させたサバランはそのまま口を開こうとする。
転移魔術か、はたまた単純に法術師を呼ぼうとしたかはわからない。
しかし、その動作は続けることは出来なかった。
「っ!」
殺気に気付き、とっさにブラウニーが握っていた剣を奪って振るう。
その一瞬後に、鮮血が散った。
「ぐあぁぁっ」
腕を切り落とされた盗賊は、獣じみた声を放ち必死に傷口を押さえる。
だらだらと流れ出る紅などサバランは気にも止めず、次から次へと殺到する盗賊らを切り捨てていく。
魔術師という先入観だろう、剣であれば敵うとでも考えているらしい者たちは、予想に反して剣の使い手であるサバランに手こずることとなった。
もっとも、数の暴力というべきか、微々たる力ではあるが次から次へと敵が来るために、サバランもろくに術式を練れない様子ではある。
いや、負傷したブラウニーがいなければ、話は簡単なのかもしれない。
「師…団長、はな…し」
「ムリだ」
サバランがこの場で手を離せば、負傷してろくな抵抗も出来ないブラウニーは狙われる。
しかし、このままではサバランも消耗する一方だ。
近くにいるはずの味方からの手助けは、ない。
敵に手間取っているのか、あるいは誰かの手の者がこれ幸いとジャマ者を…。
『ギリッ』っと、歯軋りをする音が聞こえた。
掠れてよく見えない目をサバランに向ければ、その凛々しい眉はつり上がり、青紫色の目は鋭くなっている。
もとより愛想がない表情は、先程よりさらに凶悪なものへと変化していた。
盗賊たちは、気付きはじめている。
剣を振るう漆黒の魔術師から漏れ出す、禍々しく黒いオーラに。
味方は、敵と切り結びながらも気付く。
最強の魔術師を中心に、地面が震動していることに。
ブラウニーは、気付いていた。
サバランの魔力が暴走しはじめたことに。
彼が次期“魔王”となる存在だと知らしめた事件を、ブラウニーは直接知らない。
養父から聞いた話だと、そのときの魔力の暴走は当時の魔術師団長が鎮めたらしく、その後は師匠となった魔術師団長や当時もうひとりいた魔女が溢れる魔力を抑え込んでいたらしい。
ブラウニーが知る頃は、ほぼ制御を覚えて暴走させても自分で対応していたが、現在の次席・三席でも桁違いの魔力の暴走など、食い止めることは出来ない。
ましてや、魔術師が本人しかいない今の状態では止めるのは不可能だ。
ブラウニーは自身の血で汚れた手を動かし、騎士服の内側に隠した固いものに服の上から触れる。
なんの変哲もない、そのナイフはもしものときのために国王から渡されたものだ。
国王がいう『もしものとき』とは、正に今の状況だろう。
国どころか大陸…いや世界すら滅ぼせる魔力が暴走し、止める者がいない今、もはや止める方法はひとつ。
ナイフを国王から渡されたとき、その皮肉な運命に笑うしかなかった。
魔女に拐われて恨む一方で、サバランや女エルフと親しく接する。
養父は国王の腹心の部下であり、自身も王家に忠誠を誓っている。
ブラウニーが選ばれた理由は単純に、国王を裏切らないということ、幼馴染みという立場で簡単にサバランの懐に入れるということ、対峙した場合に魔術が効かないということがあるのだろう。
実際、今もサバランはブラウニーを庇いながら戦っているのだ、国王の命令もこれなら簡単に実行出来る。
…しかし、だ。
ブラウニーはこれを、国王の命令だからと実行するのではない。
するとしたらそれは“魔王”と呼ばれ漆黒の髪に畏怖を抱かれる、冷静な魔術師団長であり、恐れられるのに傷付き疲れ、魔力制御のために感情を殺すしかない幼馴染みがこれ以上傷付かないようにするために。
ブラウニーは内側に震える手を入れ、ナイフを握り締めた…のだが。
レースのあしらわれた繊細な日傘に、穢れなき真っ白なワンピース。
それをまとうのは、ほっそりとした華奢な身体。
背中の半ばほどに伸ばされた金色の髪が、歩くたびにふわりふわりと揺れる。
楚々と歩く姿は、それなりに裕福な家庭の令嬢が散歩を楽しんでいるように見えた。
世界は揺れ、真っ黒なオーラが周囲から漏れ、魔力の暴走に恐怖し相変わらずどこもかしこも悲鳴がひっきりなしに上がるにも関わらず、そこだけ場違いなほど平和そのものだった。
戦場と化したこの場において、現実的であり異常な存在にブラウニーは思わずナイフに込めていた力を抜いた。
金色の髪も日傘もワンピースも、楚々と歩く大人しい姿も知らない。
魔女という存在など、大嫌いだ。
だが、こんな状況下で堂々と歩く豪胆さはまあ…認めてやってもいいと思う。
その瞬間に現れた、タイミングの良さも。
真白の存在が、日傘を持つ手とは反対の腕を上げ、前方を指差す。
視界がボヤけるブラウニーには、その華奢な背中しか見えない。
「≪展開≫」
彼女は…真白をまとう幼い魔女は、指差しながら唄うように唱えた。




