第1章 過負荷の日常
東京圏の地下深く、遮音壁に囲まれた星間インフラ・システム管理センター。
そこには朝も夜もなかった。
空調設備の低い唸りと、無数のモニタが放つ青白い光。そして、絶え間なく更新される数字と警告だけがあった。
ソラの指先は、冷えたキーボードの上を休みなく動いている。
『警告:セクター4の回線容量が限界値に到達』
『エラー:外惑星通信網パケットロス率、許容値超過』
『自動修復シーケンス失敗。手動介入を要求』
一つ消す。
すぐに別の警告が点く。
二つ直す。
三つ増える。
まるで波打ち際に書いた文字を、次々と海に消されていくようだった。
「第七セクター、復旧率八十二パーセント……」
独り言のように呟きながら、ソラは次の画面を開いた。
地球と月面都市。
火星の居住圏。
木星圏の研究施設。
そのさらに外を航行する輸送船団。
すべてを結ぶ通信インフラの一部を、この管理センターでは二十四時間体制で監視している。
通信の遅延一秒。
座標データの欠損一行。
ほんのわずかな異常が、遠い星では人命に関わることもある。
だから、間違えてはいけない。
止まってはいけない。
休んではいけない。
少なくともソラは、いつの間にかそう信じるようになっていた。
「おい、ソラ」
背後から上司の声が飛んできた。
「第七セクターのログ、まだか。本社が待ってるぞ」
「……今、処理しています」
声が掠れた。
その瞬間。
耳の奥で、チリ、と小さな音がした。
ソラは一度だけ目を閉じた。
最近、この音がよく聞こえる。
最初はサーバーラックの冷却ファンだと思った。
だが、自宅へ戻っても鳴った。
ベッドに横になっても。
シャワーを浴びていても。
何もない部屋でも。
医療端末で簡易チェックをすると、「疲労」「睡眠不足」「ストレス反応」というありふれた単語が並んだ。
ソラは診断画面を閉じた。
休め、と言われても困る。
自分が休めば、誰かが代わりに夜勤へ入る。
その誰かも疲れている。
なら、自分がやるしかない。
そう考えることが、いつの間にか当たり前になっていた。
「ソラ」
隣席のミナトが小声で話しかけてきた。
「何?」
「今日、何時間目?」
「何が?」
「勤務」
ソラは答えようとして、言葉に詰まった。
モニタの端を見る。
午前二時四十八分。
昨日の朝九時に出勤したことを思い出す。
「……十八時間くらい」
「帰れよ」
ミナトが呆れたように笑った。
「俺ら、宇宙を支えてるけど、不死身じゃないからな」
「これだけ終わったら」
「それ、六時間前にも聞いた」
ミナトはそう言い残し、自分の席へ戻った。
ソラも再び画面へ向き直る。
文字列が流れる。
その速度を追っているうちに、視界がふっと揺れた。
白い文字が二重になる。
ソラはデスクへ手をついた。
頭の中に、唐突な映像が浮かんだ。
自分がこの床に倒れる。
救護ロボットが運び出す。
数時間後には別の管理者が自分の椅子に座り、同じモニタを見ている。
それだけだ。
システムは回り続ける。
自分がいても、いなくても。
その想像は、恐怖より先に奇妙な空虚さを連れてきた。
(僕のほうが先にシャットダウンする)
そう考えた瞬間、ソラはブラウザを開いた。
社内メニュー。
その隅に、何年も使っていない項目がある。
――有給休暇申請。
残日数、四十一日。
「四十一……」
思わず声が出た。
以前なら、その数字をどこか誇らしく思ったかもしれない。
それだけ働いた。
それだけ頼られている。
そんな証明のように。
だが今は、ただ使われず積み上がった時間にしか見えなかった。
休暇期間。
七日。
理由。
空欄。
目的地。
指が止まる。
旅行先など考えていなかった。
そもそも旅行など、最後にいつしたのかわからない。
検索欄を開く。
海洋惑星。
月面峡谷。
火星旧市街。
木星浮遊都市。
そして、一つの名前に目が留まった。
――宇宙遺産・リングワールド・アルカディア。
数日前、ニュースの片隅で紹介されていた。
三百年前に主要機能を停止した巨大人工天体。
かつて数千億人が暮らした、人類史上最大級の居住構造物。
現在は一部区域だけが観光客へ開放されている。
ソラはその名称を入力した。
送信。
数秒後。
『休暇申請:受理されました』
『期間:七日間』
『目的地:リングワールド・アルカディア』
画面を見つめているうちに、ソラは笑った。
本当に申請してしまった。
「ミナト」
「ん?」
「僕、休む」
隣の席から顔が上がる。
「今日?」
「一週間」
「……熱ある?」
「旅行に行く」
数秒の沈黙。
それからミナトは吹き出した。
「それは重症だな」
ソラも少し笑った。
最低限の仕事を引き継ぎ、端末を閉じる。
椅子から立ち上がる。
足元が頼りない。
それでも歩いた。
地下深くの管理センターを出る。
エレベーターが上昇する。
階数表示の数字が一つずつ増えていく。
地上。
扉が開いた。
冷たい朝の風が頬に触れた。
管理センターの空調とは違う。
温度が均一ではない。
湿り気がある。
匂いがある。
遠くで鳥が鳴いている。
東の空は、まだ暗い。
それでも端の方から、わずかに白み始めていた。
ソラは顔を上げた。
空をまともに見るのは、いつ以来だろう。
その時ようやく、自分が本当に旅へ出るのだと実感した。




