第5話:正しき死体、歪んだ喪服
帝都の朝は、辺境とは比べものにならないほど騒がしい。
──だが、王宮の内は異様に静まり返っていた。
「……死体が、ない?」
不穏な報せに、ハン医官の眉がわずかに跳ねる。控えの間には重苦しい空気が漂い、若い下女がひとり、膝をついて震えていた。
「間違いございません……今朝、棺を開けたときには、もう……中には、何も……」
「何も、というのは?」
「お布だけが残っており、あの、殿下の……お身体は、影も形も……」
喉を震わせるその声に、宰相補佐の老文官が苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「よくもそんな寝言を! 二日前、正式に納棺したのは我らの目の前だったのだぞ!」
王宮内で急逝した若君・タル殿下の遺体が、王家の霊堂から忽然と姿を消した。事件は密やかに扱われ、外へ洩れることはなかったが、医務院には即座に召集がかかった。
だが、集められた医官たちは「医師」としてではなく、「目利き」としての働きを求められた。
「つまり、盗まれたのは“遺体”のみ。そして遺体は病死扱い、納棺の儀も問題なく済んだ……そうですね?」
問うたのはセイカ。控えの間の隅、畳まれた椅子に腰をかけ、相変わらずの猫背で首を傾けていた。
「何か思い当たることでも?」
ハン医官が尋ねると、セイカは小さくため息をつく。
「はい。ひとつだけ……この話に、妙な“整い方”があるのが気になります」
「整い方、だと?」
「ええ。病死、納棺、喪の儀礼、棺の封印。どれも隙なく済まされていた。それなのに、今になって《死体が消えた》とくる」
セイカの視線は、震える下女から棺の図を描いた文書へと移った。
「妙だと思いませんか? あまりに“ちゃんとしていた”んです。あたかも、“誰かに見せるための完璧な納棺”だったかのように」
「……つまり、最初から中身は空だったと?」
「その可能性もあります。もしくは“何か”をごまかすために、納棺に見せかけた別の意図があった」
ハン医官は腕を組み、うなずく。
「ならば、確認すべきはふたつだな。ひとつは、殿下の実際の死の経緯。もうひとつは……」
「納棺時に《その死体が本当に殿下だったのか》」
セイカが静かに言うと、その場にいた者たちの空気が、一瞬凍りついた。
検分が始まった。
棺の構造、封印の方法、保管中の警備、そして何より、タル殿下の死に立ち会った者たちの証言。
「熱と痙攣、最期は吐血だったと」
ハン医官が書面を読む。症状は、古い毒の典型──だが、それにしては経過が早すぎた。
「不自然な死でも、それを《自然な病死に見せかける》ことはできる」
セイカは、当直の小役人から引き出した記録帳を手にしていた。そこには納棺当日の不審な点がいくつか記されていた。
「――『布の交換を許可された見習い女官が、納棺直前に一度だけ棺に触れた』?」
セイカが目を細める。
「その女官、どこに?」
「……二日前、実家に帰されたようです。急な病で、とのことでしたが」
ハン医官が苦い顔をする。
「見事な煙幕だったということか」
午後、セイカは宮内の衣装部屋に向かっていた。
「喪の装束を確認したいんです」
彼女の言葉に、女官たちは顔を見合わせたが、最年長の仕立て女がすぐに通した。
「これが、タル殿下のために織った喪服。……奇妙な話でしてな。なぜかサイズが小さかった」
「小さい?」
「ええ、最初は測り間違えかと。だが、納品書には《従来の殿下の寸法通り》とありましたから……」
セイカは、ふと気づいたように呟く。
「納棺のとき、顔を確認した者は?」
「……頭巾で顔を隠したまま、でしたな。お顔がむくみ、哀れな姿だったと聞きましたので……」
控えの間へ戻ると、ハン医官が封じていた棺の内部を指し示した。
「封印は誰も破っていない。それは確かだ。だが、最初から“死体がなかった”とすれば――」
「違いますよ」
セイカの声が遮った。
「“死体”は、確かにあった。でも、《タル殿下ではなかった》」
全員の視線が、彼女に集中する。
「──それは、別人の子供の死体だったんです。死因は恐らく毒殺。でも、それを殿下の死と偽装した」
「……では、本物の殿下は?」
「まだ、生きている可能性があります」
推理の糸をたぐったのは、喪服のサイズ、目撃情報の食い違い、急な病で帰郷した女官、そして最初から“用意されていた死体”。
「これはただの死ではない。“死んだこと”にして、殿下をどこかへ消したかったんです。理由は……政変の火種を消すためか、あるいはもっと個人的な保身か」
ハン医官は唸る。
「……まるで、宮廷劇だな」
「ええ。しかも筋書きのうまい、ね。けれど、細部の“縫い目”が甘い」
セイカは、証拠の品々を広げる。
「殿下の喪の衣、寸法の合わない小さな死体、血液のついた布、すり替えられた医療記録。そして“封印された棺の中から、遺体が消えた”というこの矛盾」
彼女の指先が、記録帳の一文を指した。
「『女官が、布の下に香草を添えた』……これが鍵です」
「香草……?」
「保存性の高い香草と布で“中身があるように見せかける”……そうすれば、棺を開けずとも、弔いは成立する」
「つまり、最初から《空の棺》に向かって弔っていたわけか」
「誰もが“死んだ”と思い込むように仕組んだ偽装劇です」
セイカはふっと笑う。
「……でも、死体を隠すより、《死を作る》ほうがずっと難しいんですよ」
「これで、殿下が生きているという仮説には、根拠ができた」
ハン医官は頷いた。
「だが、次にすべきは?」
「偽装に協力した女官の捜索。そして、殿下がどこへ“生かされた”のかの追跡です」
セイカは静かに続ける。
「これがただの後宮の企みなら、私は薬でも裁縫でも対応できます。でもこれは――《誰かが死を操ろうとした》事件ですから」
その瞳に、凍てついた医者の冷静さが宿る。
──《死》が動くならば、それを見抜くのも医の務め。
王宮の“死”は、始まったばかりだった。
書き溜めた話の掲載が終わったので、一度完結済みにします。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。