第3話:目の前の毒、背後の毒
「……これは、毒ですね」
屋敷の一室。薄明かりの中、ロの机に広げられた食器と、胃内容物と、使用された薬の紙包み。その中央で、薬師でもあるリョウは、落ち着き払った声で言った。
「しかも、極めて控えめに盛られた毒。致死には遠く、吐き気や頭痛、微熱など、いわゆる“体調不良”程度に収められている」
「それって……嫌がらせ?」
茶を淹れていたカエは、首を傾げた。屋敷に出仕している侍女としては、この事態に眉をしかめつつも、ある種の“見慣れたもの”として受け止めている節がある。
「単なる嫌がらせ、か……いや、むしろこれは“試している”。」
リョウはゆっくりと立ち上がり、部屋の奥、衣装棚の影に置かれた箱に目を向けた。床にこぼれていた朱色の粉。それを少しばかり拝借して嗅ぎ取り、指先に馴染ませる。
「毒が盛られていたのは、“薬”の方だ」
「……え?」
「この家で、何よりも信頼されているはずの薬。それが汚染されていた。しかも、服用者が“毎朝必ず飲む”という前提に甘えてね」
リョウの声は低く、だが確信に満ちていた。
その毒の正体は「阿魏」と呼ばれる物質だった。通常、薬膳の材料として微量使用されるが、体質や体調によっては激しい反応を起こす。しかも、偽造や混入が容易で、外見上は薬の一部にしか見えない。
「つまり、これは“毒を盛った”というより、“毒の耐性と反応を見るために投与した”と考えるのが自然です」
「それって……」
「実験だよ、カエ。人体実験。それも、“自分の屋敷の中で、気づかれぬように”だ」
屋敷の主・ミナギ公爵の病が、ここ数日で悪化したのは、まさにこの“仕掛け”と一致していた。微熱、頭痛、倦怠感。そして、一時的な幻覚症状。
「幻覚? まさか……呪いじゃ」
「違う。呪いなら、こんなに丁寧に“仕込む”必要はない。そもそも、呪いの発作なら、侍医はもっと早くに騒ぎ出しているはず。だが、彼らは『体調の問題』とした」
リョウは箱の蓋を開けた。中には、数種類の香薬と、いくつかの薬包が並んでいた。
だが、その配置に一つ、不自然な“ズレ”があった。
「この薬包は……逆さまに封がされている。つまり、中身を一度取り出して、戻した痕跡だ」
リョウはそれを丁寧に開封し、香の粉末をさらう。
「香薬のうちの一つ、これは“夢見香”の粉。強い香りで、眠気と軽い幻覚作用をもたらす。用途としては……眠れぬ貴婦人への処方、だな」
「つまり……あの幻覚症状は、これが原因?」
「併用していた阿魏との相乗効果だ。そう設計されている。だが……なぜ、こんな複雑なことを?」
リョウは床にひざをつき、部屋の隅の“通気口”に目をやる。
「香の効果を“観察するため”に、誰かがこの部屋に毎晩、香を送り込んでいた。だが、ミナギ公爵の寝所とは違う。これは……」
彼は立ち上がると、扉を開け放ち、隣の部屋を指差した。
「ここの使用人部屋だ。カエ、ここに毎晩寝泊まりしていたのは誰だ?」
「え、ええと……薬師の助手の……ラセンさんですけど……?」
カエの声が震える。
ラセン──ミナギ家に雇われたばかりの若い薬師助手。無口で目立たず、だが正確な手仕事をすることで、短期間で屋敷に馴染んでいた男。
「助手にしては、やけに“薬の知識が深い”と思っていたよ。あの時、俺が書庫で見ていた本に、さりげなく目を走らせていた。読んでいなければできない仕草だった」
「でも、なんでそんなことを……?」
リョウの顔に、冷えた光が灯る。
「──“毒見”だ」
「ど、どくみ……?」
「公爵が服用する薬に、毒が仕込まれているかどうか。それを“他人に試して反応を見る”ことで、安全を確かめる。おそらく彼の任務は、毒の確認と検証。そして、場合によっては……主を見限る判断材料とすること」
カエが手を口元に当てる。
「そんな……つまり、公爵の命は……」
「もう“見捨てられている”可能性がある、ということだ」
リョウの言葉に、部屋の空気が一瞬凍る。
「公爵の身に起きているのは、“毒を使った査定”だ。毒による耐性、影響、それに対する侍医たちの対応、屋敷の騒ぎ方……すべてを観察して、どこまで“耐えうる人物か”を見ている」
「じゃあ……その観察してるのは、誰なの?」
リョウはしばし黙り、机の上に置かれた印章を見やる。
「帝都。……あるいは、その背後にある“権力”だ。帝都からの監視の目は、すでに辺境にも届いている。だが、それが“医術”を通してだというのが──興味深い」
その夜、リョウは一人でラセンの私室を訪れた。
だが、そこはもぬけの殻。机には、薬包のひとつと、“中央式”の薬袋が置かれていた。
「中央──帝都の方式だな。やはり、お前は帝都の人間か」
ラセンの残した薬包には、“毒見”の結果が簡潔に記されていた。
「影響軽微。被験者は服用後、二日目に幻覚。主観的判断において排除対象と推定。」
リョウは眉をしかめた。
「“排除対象”……それが“人間”に対する言葉かよ」
彼は静かに立ち上がり、袋を折り畳んだ。
そして、心の中で呟いた。
──これはまだ、序章に過ぎない。帝都の“毒”は、もっと深く、もっと静かに迫ってくる。