第2話:誰が茶を運んだのか
女の言葉ほど、あてにならないものはない。
この王宮で暮らして一日が経つだけで、瑠花はその実感を早くも噛みしめていた。
口元に笑みを浮かべていても目は笑っていない。
忠義を語りながら、言葉の裏には別の主を思わせる節回し。
そして、沈黙の中には数知れぬ“計算”が潜んでいる。
これが後宮。女と女、あるいは宦官と女の、剥き出しの腹の探り合い。
香蘭妃の死について、情報を得るべく女官たちを呼び集めたのだが――
「食膳は、わたくしども三人で交代制にしておりました。ええと、四日前は華苓が」
「違います。あの日は采菊が届けたかと」
「いえ、その日わたくしは体調不良で……台所の当番を代わってもらったのです」
「では……誰が?」
口々に証言がずれ始める。
しかも、記録帳は不自然な空白が続いていた。毎日正確につけられていた配膳記録が、妃の死亡前後三日分だけ、まるまる抜け落ちていたのだ。
「妙ですね」
瑠花はぽつりと言う。
「香蘭妃は妊娠中で、普段から香にも食事にも気を配っていたと聞きました。
にもかかわらず、食事の記録が三日も途切れるというのは……どうにも、偶然とは思えません」
女官たちはぎこちなく笑う。
だが、そのどれもが作り物だ。薬師の目は誤魔化せない。
「妃に出されていたお茶は?」
「……茉莉花茶でございます。妊婦向けに香りを抑えており、体を冷やさぬよう生姜も少量混ぜております」
「そのお茶を、誰が煎れて、誰が運んだかは?」
「……」
一瞬、空気が凍る。
「御妃さまの好みにうるさくて……あれは、基本的に侍女の麗環さまが」
「麗環……?」
「はい。お部屋付きの侍女で、幼少のころから仕えていたと……」
その名を聞いて、瑠花の脳裏に昨夜の光景がよみがえった。
香蘭妃の亡骸の傍で、布の折り目を乱さぬよう冷静に振る舞っていた黒髪の女。
眼差しは伏せられていたが、手の甲には、薄い火傷の痕があった。
(……熱湯でも跳ねたか?)
「麗環殿は、今どちらに?」
「今朝から姿が見えません」
「消えた?」
女官の一人が怯えた声で告げた。
「昨夜、香蘭妃さまの御遺体が保管室に移された後、麗環さまは部屋を一人で出て……それっきり」
(姿を消した侍女。消えた記録。ずれる証言。そして毒)
見えてきた一つの線に、瑠花の指先がぴくりと動いた。
「その侍女の部屋、見せていただけますか」
案内されたのは、香蘭妃の私室の隣室。
簡素な調度に、畳まれた布団と、櫛、茶器。
棚には薬草を入れる小瓶がいくつか並んでいた。
(……生姜、茉莉花、山椒……これは?)
見覚えのある粉末。
だが、瑠花の指先が止まったのは、最も控えめな位置に置かれた――
乾燥クチナシの実だった。
(……クチナシ)
料理の色付けに使われる。だが、妊婦に対しては禁忌とされることもある。
過剰摂取すれば胎児の成長を妨げるとも言われる。
「これを……妃に?」
「いえ、あの……香蘭妃さまは、たしかに少量を好まれておりましたが……」
「その“少量”が、本当に“少量”だったのか。今となっては、誰にも分かりません」
瑠花は視線を上げる。
「麗環という侍女。妃の死の前夜、茶を煎れたのは彼女で間違いありませんか?」
女官たちは目を伏せ、わずかに頷く。
(あとは――それを証明する、何かがあれば)
部屋を出ようとしたとき、足元に落ちたわずかな“擦れ痕”に気づいた。
石畳に落ちた白い粉。
雨に濡れれば消えてしまう。だが、室内にあれば話は別だ。
瑠花は指でその粉をすくい、瓶に詰めた。
(もしや……これは、“精製されたクチナシの抽出粉末”?)
煎じれば毒にはならない。
だが、高濃度で食中に混ぜれば、胎児の生育に障り、母体の負担にもなりうる。
(“妊婦用の茶”という名目で、毒を混ぜる。あまりにも――完璧な擬態)
しかも麗環は、記録帳の係でもあった。
彼女が三日分の帳面を抜いたのなら、動機は明白。
殺意ではなく、“発覚を恐れた罪”だ。
「麗環殿は、妃の死を予想していなかった。あくまで、流産させるつもりだったのでは?」
その問いに、女官たちの中で一人が顔を上げた。
「……もし、妃さまが男子を産めば、寵愛は確実に――」
言葉の続きを、誰も言おうとはしなかった。
王宮で男子を産むこと。それは、“母としての出世”を意味する。
それを止めたかった者がいる。
麗環なのか、あるいはその背後か。
真相は、まだ奥にある。
だが、最初の嘘は、もう見えた。
瑠花はゆっくりと部屋を出た。
視線の先には、濡れた中庭と、灰色の空。
すべてが“曖昧”なまま覆われているような世界。
だが、いつか晴れる。
真実というのは、必ず風に晒され、乾いてゆくものなのだから。