第1話:薄曇りの下で干された真実
(蕎麦でも啜りたい)
重たい雲が空を覆い、道端の露天が屋根布を引いて閉める音がする。
ぽつぽつと小雨が落ちてきた帝都の石畳を見つめながら、**瑠花**は淡々とため息をついた。
背中に括りつけた薬籠は空っぽ。
辺境の診療院を出たきり、補充もさせてもらえないまま、彼女は王宮の外門に連れてこられていた。
「後宮の女が死んだ。呪殺、らしい」
そう言ったのは、腰に印をつけた宦官だった。
その口ぶりに“医師”としての敬意はなかったし、そもそも彼女が正式な王医でもないことも知っていた。
もっと言えば――。
(ただの巻き添えである)
三日前。山中の村で、蛇に咬まれた子供を治療した帰り道、謎の“使者”と出会った。
名も告げず、ただ「上の命だ」と言って馬車に押し込まれ、気がつけば都の石畳の上。
実にシンプルで、実に迷惑な話である。
「こちらでございます」
宮門をくぐると、香の匂いと化粧の香りが混ざり合った濃密な空気が押し寄せる。
紅を差した唇、艶やかな黒髪、衣擦れの音――。
女、女、女。
ここは後宮。
皇帝の寵愛を待つ千人以上の女たちが暮らす、もう一つの“国”である。
「亡くなったのは、香蘭妃様。今月ご懐妊されたばかりでした」
案内役の宦官がぽつりと漏らす。
「……妊娠中?」
「ええ、しかし、ある晩、急な吐き気と腹痛を訴え……翌朝には冷たく」
「診たのは?」
「御医さまが一度だけ。『祟りかもしれぬ』と……」
あとは祈祷と香の煙で済ませた、という。
(話にならない)
呪い、祟り、先妃の怨霊。
“そうであってほしい”と願う空気の中で、誰も“現実”を診ようとしない。
案内された部屋の中、香蘭妃の遺体は薄布をかけられて横たわっていた。
まだ若い。頬には血の気が残り、瞼は伏せられていた。
「触れても?」
「……お、お好きに」
宦官は視線をそらした。
だが瑠花は手早く布をめくり、唇、爪、腹部、そして――口元の吐瀉を見た。
(嘔吐……ただの胃痙攣じゃない。舌にざらつき……これは)
掌にそっと吐瀉物の一部を取り、指で粘り気を確かめる。
(濃縮された麻痺毒か……いや、腹膜の出血もある。二種類? 段階的に毒を?)
「香の煙では、死なない。巫の手でもない。これは――毒殺です」
静かに言った言葉に、周囲の女官が息を呑んだ。
「し、しかし香蘭妃様は……人望もあり、敵も……」
「誰にでも、“偶然のように見せかけて”殺す手段はある」
そう、毒はいつでも最も静かに殺せる。
しかもこの毒は、香の煙で隠せるよう調合されている。
香を焚けば焚くほど、毒の匂いが隠れる仕組みだ。
(意図的だ。誰かが、香の効果を“利用した”)
しかも妃は妊娠していた。
狙われたのは彼女一人か、それとも……腹の子も、か。
「……どなたが、香蘭妃様の食膳を?」
「え……ええと、それは……」
女官が言い淀む。
「記録が、消されています」
声を絞るように告げたのは、部屋付きの女官。
妃の食膳に関する帳面だけが、ごっそりと抜き取られていたという。
(始まったな)
証拠を消す者がいる。
香に隠された毒。
そして――身ごもった妃が、誰の子を抱えていたのかも不明なまま。
「私に、遺体の保管室を。あとは、女官たちの証言を順に聞かせてください」
「そ、それは……陛下の許しが……」
「それがなければ何も分かりません。死人の口は開かないのですから」
淡々と告げるその口調は冷たいが、事実だけを追い求める瑠花の流儀だ。
(何が“呪殺”だ)
そんなものに責任を押し付けるな。
死んだ妃は、“誰かに殺された”。
ならばそれを突き止めるのが、自分の仕事だ。
そうして、“辺境の異端医”は王宮という伏魔殿の奥へ、足を踏み入れることとなった。
自らの意志ではなく――
だが、好奇心と、わずかな正義感とともに。




