第七十三話 地下
雨は夜になっても止まなかった。
古いアパートの窓を雨粒が叩き続けている。
カイの部屋にはエストとメル、それからタマがいた。
狭い部屋だった。
元々一人暮らし用だ。
男二人と女一人が入ると妙に窮屈だった。
メルは端末を弄りながら黙っている。
カイは机の上へ紙を置いた。
――五番を見るな。
タリムが残した一行。
「五番って何だ」
エストの目が紙へ落ちる。
エストは頷いた。
「東地区研究所地下」
「第五研究区画」
部屋が静かになる。
カイは続きを待った。
「公式記録には無い」
エストが続ける。
「研究所の記録にも出てこない」
「管理局も存在を認めてない」
「だがある」
「少なくとも昔から噂だけは残ってる」
カイは腕を組んだ。
「行ったのか」
「行けなかった」
「何だそれ」
エストは苦笑した。
「入口は知ってる」
「場所も知ってる」
「地下にあることも知ってる」
「だが辿り着けない」
「は?」
カイの眉が寄る。
エストは肩を竦めた。
「絶対にここのはずだと手練れは言うがね」
「いうにはぱっと見何の変哲もない壁らしい」
メルも頷く。
「情報屋は何人か消えてる」
「調べようとしてね」
「死体も出ない」
「だからみんな気味悪がる」
カイは黙る。
意味が分からない。
だが気になった。
非常に気になった。
その時だった。
エストが端末を取り出した。
「一人だけいる」
「何が」
「実際に行った奴だ」
カイが顔を上げる。
エストは番号を呼び出していた。
「生き残りだ」
「聞けばいい」
発信音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
カイはソファにもたれた。
「切れ」
「まだだ」
四回。
五回。
そこで繋がった。
『おう』
野太い声だった。
開口一番それだけ。
後ろでは何かが壊れる音が聞こえる。
金属音。
悲鳴。
爆発音。
ろくでもない場所にいるらしい。
「177」
エストが言う。
「第五研究区画について聞きたい」
『知らん』
即答だった。
カイは思わず顔をしかめる。
「行ったんじゃないのか」
『行った』
「なら説明しろ」
『知らん』
また同じ返答だった。
エストが頭を押さえる。
慣れているらしい。
『行った』
『戦った』
『何も変わらねえ』
『終わり』
それだけだった。
カイは本気でイラついた。
「何と戦った」
『知らん』
「何だった」
『知らん』
「何がいた」
『知らん』
数秒。
そして177は心底楽しそうに笑った。
「全力でも届かなかった」
「先があるとわかった」
それだけは断言した。
カイはため息を吐く。
話にならない。
だが。
エストは逆に黙っていた。
何かを考えている。
『それより』
177が急に言った。
『776いるんだろ』
部屋の空気が止まる。
カイは目を細めた。
「何で分かる」
『いるんだな』
声色が変わる。
今までの適当さが消えていた。
『黒い犬いるか』
カイはタマを見る。
赤い目。
部屋の隅に座っている。
「いる」
沈黙。
電話の向こうも静かになった。
数秒。
十秒。
やがて177が口を開く。
『なら行くな』
エストが顔を上げる。
カイも黙る。
『やめとけ』
今までで一番真面目な声だった。
『多分』
『届きすぎる』
それだけだった。
「何が」
カイが聞く。
『知らん』
即答だった。
だが今度は誰も突っ込まない。
『だから行くな』
『以上だ』
通話が切れた。
部屋が静かになる。
雨音だけが聞こえていた。
メルが呟く。
「参考になった?」
「全然」
カイが答える。
だがエストは違った。
煙草に火をつける。
そして小さく言う。
「十分だ」
「何が」
「177が引いた」
カイは眉をひそめた。
エストは続ける。
「NO177は強い相手から逃げない」
「死にかけても笑う」
「面倒事には自分から突っ込む」
「そんな奴が二回も行くなと言った」
煙がゆっくりと上へ昇る。
「それだけで異常だ」
カイは窓を見る。
東。
研究所の方向。
その時だった。
胸の奥が脈打つ。
ドクン。
まただ。
魚屋で感じた感覚。
研究所を思い出した時だけ起きる違和感。
エストも気付いていた。
「やっぱりか」
「何が」
「お前」
エストはカイを見る。
真っ直ぐ。
観察するように。
「地下に呼ばれてるぞ」
部屋が静かになる。
タマがゆっくり立ち上がった。
赤い目が東を向く。
まるで何かを知っているように。
あるいは。
帰る場所を覚えているように。
雨はまだ止まなかった。




