9.降りてはいけない場所
あの異常なエレベーター。
開くはずのない扉が、次々と開いていった“丑三つ時”。
9階で見えた黒崎の姿。
そして、足元に転がっていた「D15」のタグ。
エレベーターの“怪異”が、また始まったあの時間に――。
*
由里が目を開けたとき、そこには見覚えのない天井があった。
――無機質な白。仄かに点る蛍光灯が、じわじわと視界に滲んでくる。
「おそよ〜」
隣から聞き慣れた声がした。遥だった。
「……遥? ここ、どこ?」
かすれた声。喉の奥が乾ききっている。
「病院やで〜」
のんびりとした口調で、遥はいつも通りに笑っている。
起き上がろうとした瞬間、左肩に鈍い痛みが走った。
「……いっ……た……」
「倒れたときに左肩と頭を強打したんやってー」
買い物の話でもするかのように、遥はさらりと言った。
ぼんやりとした頭を押さえながら、由里はようやく訊ねた。
「……で、なんで遥がここに?」
遥は携帯を取り出し、由里に向けて画面を見せた。
そこには、たった一言。
《たすけて》
――由里の名前から送られたメッセージだった。
「ちょ、ちょっと待って! それ、あたしちゃう!送ってない!」
慌てて携帯を手に取り、履歴を確認する。――送信履歴、なし。
「ほら見て。私からは何も送ってへん。てか、遥からめっちゃ着信来てる!」
「誰かに襲われてるんかと思って、パニくってかけまくってん」
遥は肩をすくめた。
「……ごめん、ほんまにありがとう」
気が緩んだのか、由里の目にじわりと涙がにじんだ。
時計を見れば、午前10時を少し過ぎていた。
「由里のおばちゃん、さっきまでおったで。大丈夫そうやからって、パート行った」
「そっか……じゃあ、昨日は……遥が助けてくれたん?」
「うちが夜中におとん叩き起こして、車でここ来たら、エントランスホールで倒れてた」
「何階?」
「エントランスホールやから1階やろ」
「私、9階で降りたはずやねん…」
「ふーん。てかさ、なんでまた“丑三つ時”にエレベーター乗ってんの?」
「え……? 22時前やったはずやで……」
遥が携帯の画面を指差す。
「これ、送られてきたの、AM2:08」
由里は、ひとつ息をのんで言葉をつないだ。
「昨日また……扉が全部の階で開く、あの現象が起きてさ。で、9階で黒崎さんが見えたから、安心してつい降りてしまって……でもすごい違和感があったというか……」
そこで由里は、あの夜の出来事をすべて語った。黒崎が“有科”と呼びかけていたこと。
足元に落ちていた、「D15」のタグがついた鍵のこと。
話を聞き終えた遥は、ベッド脇のテーブルに手を伸ばし、あるものを指さした。
――数珠袋。遥から借りていた、あの数珠。
そっと取り出された数珠を見て、由里は目を見開いた。
「……うそやん!」
翡翠の珠が、真っ二つに割れていた。
「ご、ごめん! 倒れたときに……これ……弁償する!」
「ちゃうよ、それより……」
遥の声が、少しだけ震えていた。
「これ、由里の身代わりになってくれたんやと思う。無事でほんまによかった……」
いままで飄々としていた遥が、ぽつんとそう言って――ぎゅっと、由里に抱きついた。
驚きながらも、由里はそっとその背を抱き返した。
「……心配かけて、ごめん、遥……」
<第10話へつづく>