10.声の聞こえる倉庫
新しく研究棟のバイトにやってきた彼は、なぜか最初から妙におどおどしていた。
彼の口からぽろりとこぼれた“ある言葉”が、由里と遥をざわつかせる。
何気ない会話のなかに、ひとつの名前が混じった瞬間、
止まっていた歯車が、音を立てて動き始める。
*
由里は数日の経過観察を終え、ようやく退院した。
研究棟のバイトはしばらく休むことになり、今日は引き継ぎを申し出てくれた後輩と顔を合わせる日だった。
待ち合わせ場所は、医学部エントランスホール横のラウンジ。丸テーブルとソファがいくつか、ゆったりと配置された静かな空間に、
篠原淳平の姿があった。
今年入学したばかりの1年生。成績優秀で礼儀正しいものの、気の弱そうな雰囲気は隠せない。
「まずは、大まかなところから話すね」
由里は、バイトの引き継ぎ用に自作したと思われるファイルを開き、淳平に見せながら説明を始めた。
一方の淳平はというと――斎藤由里先輩を目の前に、完全に緊張で固まっていた。
「由里って、圧あるよなあ。いるだけで威圧感やばいわ」
遥が笑いながら肩をすくめて、場を和ませるように口を挟む。
なぜ遥がここにいるのかといえば――
「また一人で行ったら、どうせ怪異に巻き込まれるんやろ」
そう言って強引についてきたのだった。
「い、いえっ、そ、そんなことないです!」
淳平は慌てて首を振ったが、顔は見事にひきつっている。
「そやんな〜、ほら、そんなことないって」
由里はあくまで軽く、否定した。
「いや、あるやろ実際」
遥は苦笑を浮かべながら、小さく突っ込んだ。
そもそも淳平がこの研究棟のバイトに名乗りを上げたのは、備品倉庫の在庫点検がどうしても嫌だったからだという。
「てかさ、なんで最初からそんな地味なバイト選んだん? 他にも色々あったやろ?」
由里が不思議そうに問いかける。
「えっと、あそこ……もともとD棟って呼ばれてた建物で、昔は手術棟だったらしくて。それで、なにか分かることがあるかなと思って……」
淳平は視線を泳がせながら、おどおどと答える。
「へえ、手術棟に興味あったん? なんか調べてたん?」
今度は遥が首をかしげる。
「……あ、はい。ちょっとだけ……」
淳平の声は、また小さくなった。
彼が片桐大学を選んだのは、ある出来事がきっかけだった。
――昔、彼の親戚の女性がこの大学で消息を絶ったのだ。
両親ですら顔を知らないほど遠い親戚だったが、祖母がぽつりと語ったその話は、子供だった彼の心に不思議なひっかかりを残したという。
「で、その人が在学してた頃に使われてた建物って、今残ってる中ではD棟くらいしかなくて……それで、まずはそこから調べてみようかなって」
話すうちに、淳平の声にも少しずつ柔らかさが戻ってきていた。
「へえ〜、そういう理由やったんや」
遥が身を乗り出しながら、にっと笑う。
「でさ、淳平くん。備品倉庫のバイトの、なにがそんなに嫌やったん?」
「えっ、あ、その……」
また、淳平の口ごもる声が小さくなった。
「幽霊が、出るとか?」
由里がズバリ切り込むと、俊平はビクリと肩を震わせた。
「……で、出るというか……声が、聞こえるというか……」
「ヤバ。こわっ」
由里の目が一瞬、きらりと光った。
「叫び声、とか、物を叩く音とか……それに……会話も……」
「会話? どんな内容?」
遥が真顔になる。
「ひとつだけ、すごくはっきり聞こえたんです。
『それはさすがに手伝えませんよ。僕はプロジェクトから外してください』って……」
部屋の空気が変わった。
「プロジェクト……?」
由里と遥が同時に顔を見合わせる。
「……それと、もうひとつ。『アリシナ』って、聞こえました」
「有科!?」
ふたりが同時に立ち上がり、椅子が音を立てる。
俊平はその気迫に押されて、びくっと体を引き、椅子ごと後ろに倒れかけた。
「ひっ……!?」
「では、淳平くん。本題です」
由里がニヤリと笑う。
「そのバイト、私らに紹介してくれへん?」
「えっ、あっ、はい」
*
淳平の案内で、三人は資材管理室までやって来た。「じゃ、僕、講義あるんで……」
そう言い残して、淳平はそそくさと足早に立ち去っていった。
残された由里と遥が、無言のままドアの取っ手に手をかける。
ギイ、と控えめな音を立てて扉が開いた。
中は整然としていて、棚にはバインダーと在庫表がぎっしり並んでいた。
「備品倉庫バイトの担当の方、いらっしゃいますか?」
由里はいつも通り、回りくどい言い方をしない。
「はいはい、いらっしゃい。バイト希望の方?」
「はい。あの……在学生じゃなくても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。その場合は、身分証だけ確認させていただきますね」
手続きはあっさりと進んだ。名前と連絡先を記入し、簡単な説明を受けるだけ。
由里と遥は無事に、備品倉庫バイトの登録を済ませた。
*
ふたりが何に近づこうとしているのか。
その意味を知る者は、まだ、誰もいなかった。
<第11話へつづく>




