第3話「初トレードと、大損と、カレーうどん」
やすらぎ荘のロビーに、いつもと違う空気が漂っていた。今日は“いよいよ”の日だった。
「さて……本日はいよいよ、皆さんに“初めての銘柄”を選んでいただいて、実際に取引してみようと思います」
佐藤誠は、緊張を押し殺して笑顔を浮かべた。
山根がいち早く手を上げる。
「ワシ、もう決めてある。ほら、この“夢の国”って言われてる会社。絶対伸びるやろ?」
「それ、名前のイメージで選んでません?」と誠。
「企業も夢を見せる時代なんだよ。なあ名倉?」
ちょうど顔を出した調理師・名倉がニコリと笑う。
「人の夢に投資するなら、せめて目ぇ覚めてからな」
山根、ちょっと不満げ。
中西は真剣な顔でスマホを見つめながら呟く。
「PERとROE……数字は嘘をつかん」
「中西さん、それ意味わかってます?」と誠が心配そうにのぞく。
「なんとなく語感が強そうだったから」
一同、苦笑。
小倉は淡々と、IR資料とチャートを並べて「ここですね」と静かにタップする。
そして田中トミ。
「ピンと来たとこに賭ける。それが私の流儀。そうやってうちの店も潰れずにやってこれたんだよ」
誠、思わず「潰れてないんですね?」と確認。
「潰れたら今ここにいないでしょ」
***
昼過ぎ、スマホに通知が届く。
誠が何気なく確認して、目を見開いた。
「……あれ? これ……」
山根が買った“夢の国”企業が、なんとストップ安。
ニュース速報:『某社長 不祥事報道』
沈黙。次の瞬間、ロビーに叫び声が響く。
「おいおいおい!オレの金があああああ!」
山根が頭を抱えて立ち上がる。
「どうすんだよこれ!オレ、やっぱ博打向いてないわ!」
「だから博打じゃないって……」と誠。
トミが腕組みして首を振る。
「株ってのはね、買う前の想像と、買った後の現実でまるで違う顔するもんなのさ」
中西もうなだれ、「やっぱり私はETFにしておくべきだった」とポツリ。
その場の空気が、しん……と沈む。
***
その空気を断ち切ったのは、カレーの匂いだった。
名倉が食堂の方から現れ、大きな鍋を持っている。
「今日はカレーうどんだよ。冷えた心には、温かくて、少ししょっぱいのがいい」
無言で集まる老人たち。
名倉は一人ひとりに器を手渡しながら言う。
「儲けることより、悔しさを味わうことの方が、実は人を育てる。熱いもん食って、涙の分だけ汗かこうぜ」
全員が一口すすったその瞬間。
山根:「この汁……なんか涙と同じ味するわ……」
トミ:「あんた、それ言いたかっただけでしょ」
小倉:「でも、またやってみたいと思った……負けたけど、楽しかった」
春香がそっと誠に声をかける。
「佐藤さん、こういう顔……いいですね」
「えっ、俺、泣いてます?」
「いえ、ちょっと笑ってます」
誠は照れくさそうに笑った。
***
誠が施設の玄関を出ようとしたとき、春香が玄関でモップを手に立っていた。
「今日もおつかれさまでした」
「あ、はい。皆さんのエネルギーにこっちが負けそうでしたけど」
「……佐藤さんって、相手のこと、本気で考えて話してくれますよね」
「え、そんなことないですよ。内心、焦ってます」
「それでも、ちゃんと向き合ってたじゃないですか」
(少し間があって)
「……それが一番、伝わるんだと思います」
誠、言葉に詰まる。
「……あの、白石さんって、なんでそんなに俺のこと見てるんです?」
「……見てませんよ。たまたま目に入るだけです」
にやりと笑って、春香はくるりと背を向け、モップを動かし始めた。
***
誠が外に出ると、掲示板に張り紙があるのに気づく。
『地域イベント 出展者募集 ——シニアの挑戦、地域の希望——』
それを見つめる誠の目が、少しだけ鋭くなった。
(……アイディア、あるかも)
──次回へ続く。