第十五話:この手を離さない
「ガルシャ!」
名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
大通りから外れた、薄暗い路地。数秒前の状況からは想像できない、完全な沈黙に包まれていた。
そのど真ん中でペタンと座り込んでいる私の前に、ゼトの心配そうな顔があった。彼は私と目線を合わせようと、地面に膝をついている。
「大丈夫か?怪我は?」
「ゼトさん…」
そうやって彼の名前を呼ぶことしかできないくらい、私の頭はぼーっとしていた。だって、あんな輝かしい光景を見てしまったのだから。
そんな私の手首を、ゼトは突然掴み、自分の方へ引き寄せた。ドクン、と何かが脈打つのを感じた。体が、熱い。
「これはひどいな…急いで手当てしないと」
ゼトが見ていたのは、私の手首にくっきりと残っていた、青黒いあざだった。さっき、あの男に踏みつけられた時にできたものだろう。しかし、私は思い出した。こんなあざよりも、重視すべきことを。
「あ…私はいいので、先にメリルの手当てをしてあげてください!」
「私も全然大丈夫だよ〜!」
メリルはへらへら笑いながらそう言って、立ち上がろうとしたが、再び膝の擦り傷から痛みが走り、いっつつ、と声を上げた。
「メリル…!」
「あの…」
その時、横からもう一人の声が聞こえた。ドレスの埃を払いながら立ち上がっていた、ピクシーの女性だ。
「私の店に救急箱があるわ。ここにいたら、また変な輩に目をつけられるかもしれないし、ひとまずそこへ行きましょう」
私は瞳に希望の光を灯し、パァッと笑った。
「いいんですか?ありがとうございます!」
すると、ゼトも安心したような笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。
「よかった…じゃあ、僕はこれで」
「あっ…」
ゼトが踵を返し、私から離れていく。まただ。また、あの諦めたような顔をしている。もう一度話をしてみようだなんて、これっぽっちも思っていない。
そうはさせない。今度こそ、繋いでみせる。
「待って!」
私は声を上げ、咄嗟にゼトの手首を掴んだ。彼が目を丸くして振り向くと、私も自分の行動に気づき、少し頬を赤らめた。この世界に来てから、あまり男性と話したことも、接触したこともなかったため、正直かなり恥ずかしかった。けど、これだけは譲れない。何が何でも、彼と一緒にデスメタルバンドをやりたい。
「ゼトさんも…一緒に来てくれませんか?」
「えっ…?」
熱く燃える、真っ直ぐな眼差しをゼトに向けた。彼はひどく困惑しているようで、私の突然の誘いにどう対応すればいいのかわからないという表情を浮かべていた。だが私は、彼が今まさに張ろうとしているバリアを突き破ろうと、目力をさらに強めた。その圧倒的な意思表示を、ゼトは拒否できずにいた。
ーーー
ピクシーの女性に導かれ、辿り着いたのは、とある街角にある小さな店だった。外壁も内壁も黒く塗られており、床はチェスボードのような白黒の市松模様だった。入り口の真上に、金色の古代文字で店の名前が書かれていた。その名前は…
「ようこそ…『暗黒夢装』へ!」
扉を潜ると、そこはまるで異空間のようだった。女性が現在着ているものと似た、暗い色の独特なドレスが、壁に沿ってずらりと並んでおり、鏡やタンスなども、この世界ではあまり見たことがない、古風でおしゃれなデザインだ。全体的に、私の世界で言う、「ゴシック」みたいな感じだった。
「わぁ…すごい…!!」
前世で初めて原宿に行った時のように、目をキラキラと輝かせながら、私は店の中を見回した。私が肩を貸していたメリルも、好奇心旺盛な子犬のように、クンクンとあちこちを嗅ぎ回っていた。一方、内気なゼトは慣れない空間に戸惑っている様子だった。少しもじもじしており、背負っていたルドゥケースがマネキンなどにぶつからないよう、ものすごく慎重になっていた。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私はネビュラ。見ての通り、洋服を作る仕事をしているの。ちょっと独特すぎて、あまり売上は良くないんだけどね。さっきは本当に助かったわ。ありがとう」
「いえ…!こちらこそ、ありがとうございます」
「待ってて。今救急箱を持ってくるから。あなたは…とりあえず氷ね」
ネビュラという女性は私の手首を見て、そう言った後、畳んでいた羽を広げ、宙に浮いた。彼女が飛んでいった先は、天井の隅に開いていた、人が一人通れるくらいの穴だった。そこを覗いてみると、ミシンなどの道具や、試作品と思しきドレスがある薄暗い空間が見えた。あそこが彼女の工房なのだろう。
「え〜っと…どこだっけ……あ!あった!」
ネビュラは2階の奥にある棚の引き出しを漁り、救急箱を見つけた後、小さなスコップで、近くにあったバケツから氷を掬い出し、それを布で包んだ。
「あ、こら!覗き見は禁止よ!」
救急箱と氷袋を持って穴まで戻ってきたネビュラが、私の顔を見て言った。
「あ…す、すみません!」
私は慌てて後ろに下がり、1階に降りてくる彼女にぺこりとお辞儀をした。
「はい、これ。しばらく当てていなさい」
ネビュラはそう言って、私に氷袋を渡した。
「ありがとうございます」
「あなたはこっちへ」
そして彼女はメリルを端っこの丸椅子に座らせ、床に膝をつき、救急箱から取り出した消毒液の瓶で、擦り傷の手当てを開始した。
「巻き込んじゃってごめんなさいね」
「いえいえ!お気になさらず!」
メリルはいつものようにニコニコ笑いながら、申し訳なさそうな顔をするネビュラにそう言った。
その間、私は氷袋を手首に当て、あざを冷やし始めていた。
「冷たっ…!でも気持ちぃ…」
ズキズキという痛みが、氷の冷たさに上書きされ、私はホッと息をついた。
「あの…」
その時、いたたまれないような表情で隣に立っていたゼトが、ついに声を発した。
「どうして、僕をここに…?」
そんな彼に、私は再びあの真っ直ぐな眼差しを向けた。
「…ゼトさんともう一度、話がしたかったから」
ゼトは目を逸らし、不安そうな顔で俯いた。
「楽団のことなら…僕の答えは同じだ。残念だが、入団することはできない」
「魔法が使えないから…ですか?」
私が単刀直入にそう言うと、ゼトは目を丸くして顔を上げた。
「あの酒場のマスターさんや、いつもゼトさんの演奏を見に来ている人達に聞いたんです。余計な詮索をしてしまってごめんなさい。でも…どうしても、ゼトさんのことが知りたくて…」
ゼトは拳を握りしめ、どこか悔しそうな表情を浮かべた。
「なら…わかるだろう。僕なんかが入ったら…きっと、君達に迷惑をかけてしまう」
「そんなことないです!」
私が大きめの声でそう言うと、メリルやネビュラも驚いてこちらを見た。貫くような、熱い眼差しで、ゼトの弱々しい目を直視している私を。
「ゼトさんは、立派な才能を持ってるじゃないですか!魔法を一切使わずに、自分の手で、あんなに素敵な音を生み出せるんだから!なのに…どうして自分を…自分の心の音を、愛してあげないんですか?」
「僕は…」
「確かに、ゼトさんの事情の全てを知っているわけではありません。ゼトさんの心の領域に踏み込む権利なんて、私にはないってことくらいわかってます。でも…これだけは言わせてください」
私は自分の胸に手を当てた。ゼトを見上げる切実な目に、涙が溜まっていく。
「誰にも理解されず、たった一人で努力を積み重ねながら、闇の中を彷徨うこと……それがどれだけ寂しくて、虚しいことなのか、知っています。私も…ずっとそうでしたから」
ゼトが目を見開く。その色素の薄い右目が、私を見ている。私が曝け出した本心に、彼がそっと触れるのがわかる。心の音が、共鳴している。
「ガルシャ…」
「だから…」
私は笑みを浮かべた。彼の真っ暗な世界を、少しでも明るく照らせるように。
「明日の夕方、私達の演奏を見に来ませんか?」
「えっ…?」
「いつも学校の音楽室を借りて練習しているので、よかったら来てください。きっと先生も許可してくれると思います」
「いや、でも…」
「楽団に入るかどうかは…その後で…」
私は下を向いて拳を握りしめた。本当は諦めたくない。鬱陶しいと思われても、どうにかして説得したい。が、これが私の精一杯だ。それからどうするかは、ゼト自身が決めることだ。
彼も少し俯きながら、数秒間、深く考えた。そして——
「……わかった」
私はハッと息を呑み、顔を上げた。
「聞かせてほしい。君の…心の音を」
そう言ったゼトの表情は、まるで勇気を振り絞るようであり、その自信なさげな目も、ほんの少しだけ輝いているような気がした。
私は込み上げる喜びにより、ニコッと笑った。
「はい…!ありがとうございます!」
それを見て同じく笑ったメリルやネビュラと共に、ゼトも小さく微笑んだ。その胸の内に、新たな火が灯ったかのようだった。




