蛇足の冬
隆は一番末っ子であったから、身近な赤ん坊と言えば近所で産まれたマタギの子とか、父と同じ藩邸の藩士の子供しかいなかった。
だから、もっと幼い頃は弟やら妹やらという生き物は純粋に「いいな」と思えるものだった。子供らしい玩具的な意味で。
自分の下に弟がいたら、いつだって自分の後ろをちょろちょろと着いて来る子分ができるようなものだろう。妹というのはどんなものだろうか。女といえば良く泣いて騒がしくて面倒くさいという感覚が浮かんだが、考えてみれば男兄弟のすさまじいまでのやかましさは呆れる程に熟知している。
養子に行った先、義理の母の腹は臨月も近くなると、まるで瓜やら干瓢やらが入り込んでいるのではあるまいかという程に大きくなって、日々その存在を主張していた。
屋敷の中ではやれいつごろであろうかとか、男かとか女であろうかとか落ち着きがなく、更にいえば先々代山田浅右衛門である吉次などはせっせと子供の玩具やら着物やらを持ち込こみ、やたらと華やかな雰囲気をかもしていた。
そわそわと皆が浮き足だち祝いの雰囲気の溢れる中で、隆の心臓はとくとくと早鐘をうち、時折不安によって押しつぶされてしまいそうだった。
赤子が産まれることを、純粋に喜んでいないのはきっと自分だけだろう。
義父は子が産まれようとその子は決して跡取りとは考えていないと言っていた。
だが、産まれたのが立派な男の子であったら――やはり考えは覆され、自分は捨てられてしまうのかもしれない。優しい雪花が、自分を邪険に思い、追い出してしまおうと意地悪をしてくるかもなどとせんのない考えがぐるぐると頭と腹とを駆け巡る。
――自分は、赤子に優しくできないかもしれない。
もしそうであったらどうしたら良いのだろうか。
自分の居場所が不安定なつり橋の上のように……あの頃の隆は不安におののいていた。
その不安を感じ取ったのか、ある日雪花が隆を指先で招いた。
「お腹が気に掛かりますか?」
こっそりと、けれどちらちらと確実に腹を見やってくる視線がわずらわしかったのかもしれぬと慌てた隆に、雪花は困ったように微笑んだ。
「早く出たがるように良く動くのですよ。触ってみますか?」
そんなことをしていいのだろうか。
びくびくしながら、好奇心に負けて雪花の横に座り、そっと突き出た腹に手を伸ばす。もちろん着物の上からだから、動くといってもそれ程判るものではないだろうと思うのに、それはどくりと自分の手の平を着き返して自らの命を主張した。
慌てて手を引っ込めて雪花を見れば、義母は控えめに微笑んだ。
「兄さまがわかるのかしらね」
「……兄?」
「兄さまとなってくださるのでしょう?」
兄。
その単語の心地よさに、幾度も舌の上で転がした。
今までは末とか、弟でしかなかった自分がはじめて兄になるのだ。
もう一度おずおずと雪花の腹に手を添えて、今度は動いてくれない胎児に「兄ちゃんだよ」と小さく囁いてみる。
途端、もう一度ぼこぼこと反応が返り、隆はぱぁっと自分の中の霧が四散するのを感じた。
――はじめての弟妹。
血のつながりは確かにないのだけれど、それでもきっと良い兄になろうと思った。途端、不機嫌そうな低い声が「何をしているんだ」と背後から襲い掛かり、隆はひっと息をつめ、雪花は「お腹の子が動くのです。旦那さまも触りますか?」とおっとりという。
なんとなく怖くて身をすくませる隆だが、この家の主である山田浅右衛門嘉弘は「いらん」と短く返答して、どかりと雪見窓の近くに腰を落とした。
極力気配を消すように身を縮めている隆の努力など知らぬ気に、雪花は隆に続けたものだ。
「隆さん、良ければ耳をつけてみますか?
有村様の話では、しっかりと心の臓が鼓動しているのですって」
嬉しそうな雪花には申し訳ないが、隆はそれだけは辞退した。
――隆の教育係、師となった有村藤吉にそれを許したのかという疑問は、雪花の向こう側、妻の軽々な台詞に不機嫌を更に増し、思い切り目つきも悪く殺気まで垂れ流している義父の前ではとうとう尋ねることはできなかった。
隆は未だ子供ではあったが、本能的にその言葉が自殺行為であろうことはひしひしと感じたのだった。
***
「師匠はよく当代をからかえますね」
いくら弟弟子だとは言え、相手は山田浅右衛門の当主である。だというのに、有村は時折その嘉弘をネタとして面白おかしい過去話を暴露しては笑ったり、当人を前にずけずけとものを言う。
その日も、午前中に出仕し、七つ半頃に帰宅した隆が庭の井戸端で改めて顔を洗ったりとしていると道場から顔を出し、有村が楽しそうに言い始めたのは「当代のどう考えても赤っ恥」な子供の頃の話であった。
他にそんなことをする者と言えば、先々代の山田浅右衛門吉次くらいのもので、なかなかそうはできない荒業だろう。
二十一の冬、隆は一仕事を終えた体の汗を手ぬぐいでふきあげ、同じように首筋の汗をぬぐう有村に問いかけた。
「からかうなんてとんでもない。尊敬している相手にそんなことはしませんよ」
それはいったいどういう意味であるのだろうか。
からかっているつもりが本気でないのか、それとも嘉弘を尊敬などしていないという暴言であろうか。
隆の師匠である有村藤吉とはなんともつかめない人物だ。その飄々とした外見も嘉弘の兄弟子だということであるしも山田の師範代として長く勤めているというのも聞いているが、いつまでたっても出会った頃と変わる様子が見られない。軽く考えても四十は超えているものと思うのに、気に掛かるところといえば目尻の深い皺くらいのもので、少しも老いていく様子がないのだ。
雪花さえも子を孕む前には有村に師事していたのだと言い、今も仲良く縁側で茶を飲んでいるのは良く見かける。その二人の様子を当代が快く思っていないことは誰の目にも明白だというのに、当人はまったく気に掛けていないのだ。
――心臓に毛が生えているのだろう。
豚並みの剛毛が。
以前、そろそろ嫁はとらぬのかと問いかければ、有村は少しばかり考える風を見せたが、やがていつも通りの何を考えているのか判らない微笑を浮かべてみせたものだ。
「跡継ぎが必要な身ではありませんし――嫁をとってしまっては、いざあの人が来た時に困るでしょう?」
「なんだ、いい人がいるんじゃないですか。どなたですか?」
からかうように言えば、有村はにこにこと言った。
「どなたもなにも、雪花さんです」
「……」
「当代と仲たがいしたらいつでもいらっしゃいと言っているのですけどね。なかなかそういうことにならないですね。でもほら、当代はあれですからね」
本気なのか冗談なのかまったく判らない。
また、こういった事柄をわざわざ嘉弘がいる場で言ったりするものだから、豪胆が過ぎるというものだ。
庭先の井戸水の冷めたさが、ほんのりと温かいにかわっていく季節。
口から白い息を吐き出しながら「そろそろ陸奥は雪に閉ざされた頃でしょうか」と低くなった空をみあげていると、門弟の一人が慌しく中庭に飛び出て、二人の姿に気付くと玉砂利をけるようにして面前に立ち、頭をさげた。
「吉隆様、有村様――一月後に箱根から護送される予定であった罪人が、獄中死したと連絡がありました」
と痛ましそうに報告する。
その言葉に、有村と隆は顔を見合わせて――ふかぶかと嘆息していた。
「そろそろ冬ですし……そのまま来ますかね」
「川越あたりならともかく、箱根ですからね。ああ、護送はもともと一月後ですか。では冬を超えて春になるかな。期待しても無駄でしょう」
有村はそういうと、同情するようにぽんっと隆の肩を叩いた。
いらだたしい程の笑顔で。
「何事も経験です」
「やっぱり俺ですか」
「当代は大嫌いですから、塩漬け」
はははっと笑う有村が恨めしい。
到底笑う話題でも無いだろうが、笑い話にしなければやっていられないという心境か。
――極悪人はただでは死ねぬ。
市中引き回しの上打ち首獄門。
そんな刑が確定している人間は、獄中にして命を落としたとしてもやすやすと眠らせてはもらえないのだ。
どこぞの重鎮であれば尚の事、その刑は見せしめとして市井に示さねばならぬ。
だが、遺骸は放置しておけば傷むのだ。
山田であれば、ある程度は地下蔵に作られた氷室が遺骸の傷みを防ぐことができるが、これは単純に金子が掛かる。
では一般的にどのようにするかと言えば、塩漬けだ。
遺骸をある程度処理し、巨大な樽に収めて塩で埋め尽くす――やがて樽の下から水が流れ、塩が減れば塩を更に追加する。そんなことを水分が流れなくなるまで繰り返し、そうやって作られたものが人間の塩漬けだ。
わざわざそんなものをつくり、さらにそれを首切り役人が他の罪人と同じように普段通りの作法にのっとって首を落とす。
まさに茶番だ。
「俺……腹が痛くなってきた」
もう幾人も罪人と対じてきたが、塩漬けについては幸い未だ経験が無かった。嘉弘はすでに幾人かを切ったというが、その後は決まって荒れるという。
罪人は人で無しと談じる嘉弘だが、その実おかしな哲学のようなものがあるのか、遺骸に対しての処理には煩いのかもしれない。
――山田にしてみても、解体して薬として精製してしまうのだが。
人の役にたてるという意味では塩漬けより意味はあるのだろう。ただ、塩漬けにすると薬にできないなどという事柄で嫌がっているのではないと思いたいが。
「何の塩漬け? おいしいの?」
うんざりとした考えに浸っていると、突如割って入った甲高い声に隆はびくりと身をすくませた。ぱたぱたと駆け寄り、有村の腰にべたりと抱きつく赤い着物の少女は、齢十三。
最近では外出時には渋々髪を結い上げるようになりはしたものの、屋敷の敷地内では相変わらず髪は結わずに濡れたような黒髪を背に流し、左耳の一房を結い紐でくくり、鈴を下げている。
有村がいつもと同じように冬香の頭をぐりぐりとなでると、その鈴が涼やかなちりちりという音をさせた。
「さぁ、美味しいかどうかは食べたことがないので」
「お漬物?」
「漬物ともちょっと」
「お魚?」
「肉ですねー」
冬香の話に合わせるには危険な会話を楽しむ有村に、隆は顔をしかめて割って入った。
「猪の塩漬けが食べたいって話だよ。陸奥にいる時には近所のマタギが保存用に良く作っていた」
「獣肉を食べるの?」
驚いた様子の冬香は、途端に可愛らしい顔をしかめた。
切れ長の眼差しに眉間に皺を寄せるそんな表情は実に父親に似ている。
京や江戸やらでは獣肉を食べるのは野蛮などと言うが、そんなものは地方にいってしまえば薄れるものだ。何せ、食べられるものであれば何でも食べる。冬香など卒倒するやもしれぬが、田舎のガキ共などはヘビを捕まえて小腹が空いたと食うこともよくあることだ。
有村の腰にぺったりとくっついたままの冬香は、興味を失ったという様子で有村に甘味屋に連れて行けとねだりだす。
隆が十五、六の頃まではそういった事柄はたいてい隆へとねだってきたものだ。それがいつの間にか冬香ときたら隆に抱きついてくることも何かをねだったりすることもなくなってしまった。兄離れといわれてしまえばそれまでだが、なんとも寂しいことだろう。
そんな隆の哀愁を感じ取ったように、有村が冬香の肩をぽんぽんと叩いてそっと冬香の体を隆へと向けた。
「隆に頼みなさい。私はこの後まだ門下の人達と仕事がありますから。隆はこのところ仕事が立て込んでいたから、この後はあけてある筈ですよ」
途端、冬香は眉間にくっきりと皺を刻んだ。
そのありありとした嫌がるような所作にどうしたって隆も心が痛む。まさか自分は冬香に嫌われているのではあるまいか。そんなつもりはなかったが、何か冬香の気に障るようなことをしでかしていた――であろうか。
悲しいような気持ちとがっくりとしたような疲労感が胸に飛来し、何故か愛想笑いを浮かべて「いや、俺も用事があるから」と相手が求めているであろう解を口にすると、今度は冬香は不快そうに声を荒げる。
「そうよね、冬のお守りなんて兄さまはお嫌よね」
「いやっ、え?」
何で冬香が怒るのだ。
別に好きで下手な理由を作って断った訳ではなく、そのように言ったほうが冬香が喜ぶであろうと思ってのことだというのに。
「そんなことを言わずに、隆。たまには冬香を観音様のお茶屋にでも連れていっておあげなさいよ」
ふいっと顔をそむけてしまった冬香を尻目に、有村がまたしても余計なことを言う。途端に冬香は有村に噛み付いた。
「兄さまはお忙しいのですって!
冬に付き合うような時間は兄さまにはっ――」
「行こう。冬香」
何故かいたたまれないような気持ちになって、隆は咄嗟に二人の間に割って入っていた。
冬香と出かけることで冬香がまたしても不機嫌になるかもしれないが、なんだかこの空気を打開しないことにはどうしようもないような気がしていてもたってもいられなくなってしまったのだ。
「……何か御用がおありなのでしょう」
冬香が案の定不満そうににらみつけてくる。
やれやれと思いつつ、隆はいい加減な理由をでっちあげた。
「いや、丁度観音様の市でちょっと買いたいものがあっただけで――冬香さえよければ、茶屋の行き帰りにでも寄れればそれで……」
何が買いたいなどと具体的なものは無いが、歩いているうちに適当な店の一つや二つあるだろう。少しばかりしどろもどろに隆が言えば、それまであからさまに不機嫌を示していた冬香が驚くことに瞬く間に口元に笑みを浮かべた。
「冬っ、したくしてくる」
身をぱっと翻し、訪れた時同様に慌しく庭を駆けてひょうたん池の石橋を渡っていってしまった冬香の背を呆気にとられて見送り、隆はなんとなく額に手を当てた。
「何もしたくなど要らないのに」
「朴念仁」
ぼそりと低い声音で言われ、隆は「え?」と有村を振り返った。
「いえいえ――あなた達、血がつながっていない癖に似ているというか……いや、どちらかといえば冬香が当代に似ているというべきか。見ていて面白いですけどねぇ」
やれやれと肩をすくめ、有村はふいにぶるりと身をすくませた。
「汗がひいたら途端に冷えますね。
雪花さんのところで私はゆっくりと温かいお茶をいただいてまいりましょう。隆、貴方も出仕服なんて野暮な格好で冬香に付き合ったりしないで、きちんと部屋で着替えていらっしゃい」
たしなめるように言う有村に――どこまで本気であるのか問いかけてみたくなる。
秘めるように雪花への想いをにじませたり、あからさまに口にしたり。
本気であるのか、それともただの言葉遊びのようなものであるのか。
義理とはいえ自分の母に対しての恋慕まがいの想いを、どのように受け止めてよいのか隆には判らない。
「師匠」
ふいっとそのまま離れへと足を向けようとする人の背に、隆は何の言葉も用意していないというのに声を掛けてしまった。
「何です?」
「……師匠は」
師匠は――……言葉の勢いが鈍り、手のひらの中でぐしゃりと握りつぶされる。
「師匠は、今の生活に満足していますか?」
「もちろん。おかしなことを聞きますね」
有村は目元の小皺を更に深くして、肩を揺らすようにして微笑んだ。
「私は――もしかしたら違う今を手にしていたのかもしれません。たった一度だけ、手に入らないものが手に入りそうな、そんな瞬間を確かに迎えたことがありますけれど、けれど、今ある【今】は確かに私自身が望んで手にした【今】です。
何の悔いも無く、【今】は私にとって素晴らしい【今】ですよ」
言い切り、また改めて歩き出した足が数歩進んでぴたりと止まる。
玉砂利が竜の髭にぶち当たり、青々とした葉が小さく揺れた。
「私はいついかなる時も自らの心に正直に、自由に生きてきた。
自由の中で手に入れた【今】を――後悔などしませんよ」
その言葉を口にした途端、有村は何故かクスクスと笑い、小首を傾けた。
「あなたも、自らの道を自らの意思で突き進みなさい」
何だか意味ありげな物言いに、隆はただじっと有村の背を見送った。
――有村の内にある心を追求することに意味はない。
ただ、師匠が今という時を幸せに過ごしているのであればそれで良い。
隆にしてみれば嘉弘よりもむしろ有村のほうがずっと身近な存在で、ともすれば気持ちは有村寄りになってしまうからそんな風に思うのかもしれないが。
自らの道を自らの意思で――
以前、似たようなことを雪花に告げられたことがある。有村はあの時、雪花と自分との会話を耳にしていたのだろうか。
あなたは誰にも縛られてなどいない、自由なのですから――
山田の名を受ける時に雪花が与えてくれた言葉。
それがふわりと胸に飛来し、思わず拳を握り締めて胸元に押し当てた。
今ここにいる自分は自らが望んだ自分。
幼き頃に山田浅右衛門を目指し、その現実に涙を流し血反吐を吐いて……それでもここを目指して駆けてきた。
この先も、ただひたすらに駆けるのだろう。
自分の手で勝ち取るという自由の中で。
「兄……吉隆兄さまっ」
ふいの声に驚いて、隆は慌てて顔をあげた。
いつもと違い、髪はきちんと結い上げて簪やら櫛やらでしっかりと纏め上げた幼い少女は、新しい着物に合わせた可愛らしい雪駄でくるりと回って見せた。
「似合う?」
少し恥ずかしそうに上目遣いで見上げてくる冬香に、隆は呆気にとられるようにして口をぽかりと開き、さらにせっつく冬香に慌てた。
こんな時に言うべき言葉が何かある筈だと咄嗟に頭の中をかき混ぜる。田舎者の自分といえども、こういう時に言うべき台詞くらい持ち合わせていた筈だ。
普段から愛らしい義妹が、背伸びをするように少し大人びて。
雪花の腹の中からぽこぽこと蹴り付けてきた、あの小さな小さな命が、いつの間に成長して面前に立っていた。
***
深夜に慌しくはじまった出産で、けれど明け方を過ぎてもそれは続いていた。出産というものがこんなに長いものだと知らずに、何故か怖くて怖くて震えはじめてしまった隆は、母屋の片隅で体を縮こめてただひたすらに「恐ろしいことにならぬよう」祈っていた。
それまで単純に赤子が産まれるのだと思っていたものが、闇のようにどす黒い不安となった。
産まれない――そんな現実もあるのだ。頭の中によみがえってしまったのは、もっと小さな頃に幾度か見聞きした不幸ごと。
やはり大きな腹をした幾人かが、数日後には儚いことになったと。出産で母子ともに無事であるというのは当然のことではないのだ。挙句、そうやってやっと産まれたとしても七つまでは神の子。いつまた神に連れ戻されてしまうのか判らぬ命。
頭に浮かんでしまう恐ろしい考えをぶんぶんっと頭を振って振り払う。
雪花は大丈夫。
赤ん坊は大丈夫。
なんといっても産婆は二人も呼ばれ、医師までも詰めているし、人手は余る程ある。
恐ろしいことなどありはしない。
嘉弘は……雪花の夫である嘉弘は、気付けばその夜、屋敷にいなかった。
薄情だ。酷いと心の内で罵り、ぎゅっと自分の体を抱きしめる。せめて自分の近くにいてくれれば、似たような気持ちを共有できるのにと。
やがて離れから歓声があがり、赤子の声が聞こえた途端にひっくりかえってしまいそうに体の力ががくりと抜けた。
見に行きたいと思ったものの、自分のようなものがすぐに赤子を見られる筈はない。どうしたものかと迷っていると、ふいに有村がやってきて驚いたように隆を見た。
「おやおや、隆。君のほうこそ死にそうな顔をして」
「……産まれた?」
「誰も言いに来なかったかい? まあ、慌しいからね。
女の子ですよ。それはそれは愛らしい姫様が御生まれだよ。さすがに抱っこはさせてもらえませんけどね――」
さらりと父親より先に赤ん坊を見たと嬉しそうに告白し、少しだけ思案するようにして、有村はふいに微笑んだ。
「隆。すまないけど、お使いを頼まれてくれないかい?」
「お使い?」
やっと外がきちんと明るくなった朝――振り売りが声を出し始めたころあいだ。なんとか体を伸ばすようにして「どこへ?」と問えば、有村の口から出た場所は……墓であった。
「雪花さんのご両親のお墓に報告に行っておくれ。
可愛らしい赤様が産まれたと。雪花さんも無事だと」
そんなもの、と思ったがここでそわそわしているのも手持ちぶたさでうなずいた。
幾度か雪花に付き添って行ったことのある寺へはそう遠くない。途中までは歩いたものの、気が急くように境内に続く階段を駆けていけば、墓には――嘉弘が居た。
「産まれたか?」
呆気にとられる隆に、嘉弘はぼそりと尋ねる。
「あ、はいっ」
「雪は?」
「ご、ご無事だって――……あの」
父上と言うべきか、どう呼ぶべきなのか咄嗟に浮かばず混乱する子供に、嘉弘は組んだ腕を解いて細く長く息を吐き出すと、ふいっと身を翻した。
子供の性別など聞こうとすらせずに、産まれたという事実と雪花の無事だけを確かめて。
昨夜姿を消した嘉弘を意外な場所で見つけてしまった隆は、どうするべきかわからずに墓と嘉弘の背中を交互に見つめ、嘉弘について戻ろうかと足を動かしかけたが、そもそも墓に報告に来たのだったと慌てて墓石へと顔を向けてしゃがみこんだ。
墓といってもただの石だ。
隣に作られている名白の墓に比べてちっぽけな石。だが、それは雪花の父母の墓なのだと雪花が嬉しそうに教えてくれた。
――本来はあってはならぬ墓なのです。でも、旦那様が作ってくださっていたの。あの人は……とても恐ろしい方ですが、優しいところもお持ちなのよ。
一旦言葉を切った雪花は、少し考えるようにしてくすりと笑んだ。
「とても、言葉が足らないし……不器用なのではないかなと最近やっと思うようになったのだけれど」
不器用――確かに。
こんな風にあの人は一晩墓にいたのだろうか。
妻を案じて、子を想って。
近くにいたほうがずっといいのではないかと思うのに。雪花だとて不安を覚えていたのではないかと思うのに。
素直な子供は顔をしかめた。
不器用……いや、朴念仁というのだ、あれは。
その日のうちに隆にも赤子を見ることが許され、はじめて見た生まれたての赤ん坊はどんな生き物より愛らしくうつった。
うっすらと膜をはったような深い藍色の眼差しが自分を見返し、おずおずと差し出した指先をぎゅうっと恐ろしい程小さな五指で握り返す。こちらは指一本だというのに、相手はそれを手のひら一杯で握る程に稚い。小さなくせに意外なほどに力強い所作に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
こんなに小さな生き物が生きていけるのかと不安になって、何故か泣きたいような気持ちになったものだ。
愛しい――この小さな命が、とても愛しい。
「俺……守るから。絶対、ずっと、守ってあげるから」
いったい何から守るというのか。
意気込んで言う隆に、床についたままの雪花がほんのりと微笑んだ。
「ありがとう」
――どんなことからも守って、大事に大事にしていこう。
産まれ出でたその時に、自分の子分にしてやろうなどという気持ちを蹴飛ばして、きっとずっと優しくして何ものからも守ってやろうと決めた妹。
すでに十三――年を越えれば十四。
武家の娘であれば嫁ぐものもあるだろう。いつの間に冬香はそんな年齢に達してしまっていたのか。
新しい鮮やかな着物に身を包み込んだ冬香が首を動かせば、それまで一房の髪につけられていた鈴は無く、今彼女の髪で揺れるのはきらきらとした細かい細工の簪。むずがゆさを隠すような身じろぎで立つ少女は、驚く程可愛らしい。
あせるような気持ちで相変わらず頭の中をがむしゃらにかき回し、何事かを言わなければと混乱し――やっと言うべき言葉を見つけ出してほっとして隆は口にした。
「ああ、似合っている。
馬子にも衣装だな」
このほどぴたりと合致する言葉もあるまいと得意げにうなずいた隆とは裏腹に、高揚したような笑みを浮かべていた冬香はすぅっとその眼差しをきつくし、冷ややかな笑みを浮かべてみせた。
父に似た切れ長の眼差しが殺人的に恐ろしい何かをかもしだし、引き結ぶようにして笑みを刻んだ唇がゆっくりと開かれる。
それから冬香の口をついて出た言葉と言えば、驚く程冷ややかな言葉だった。
「兄さま――父上さまの爪の垢でも煎じて飲んだらよろしいわ。
朴念仁」
ふいっと背を向けて行ってしまう冬香の言葉に呆気に取られ、隆は軽く持ち上げた手でそれを引き止めるように宙をかいた。
朴念仁?
いや、それよりも聞き捨てなら無いのは――嘉弘の爪の垢を煎じて飲めなどと、もちろん山田浅右衛門としての嘉弘には見習うことが多すぎて、確かに爪の垢でも煎じて飲むべきだろうが、今確実に人となりとしての父を見習えといわれなかったか?
あの、どう考えても色々問題のある父を?
どちらかといえば人間としては駄目な部類の父を?
「何で褒め言葉でここまで言われなければならないんだよ」
ふてくされるような言葉が口をつき、幼いといえども冬香も女だと嘆息した。装いと雰囲気だけで完全に姿を変えて、言葉を刃のように武器にする。
麗しい晴れ着の少女が季節はずれの蝶のように駆けていく。
その背を追うべきか見送るべきか逡巡しながら――隆はそれでも自らが選び続けた【今】という時間に満足していた。