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ローザの逃避

※本編であえてぼかしたor書かなかったことにも触れているので、人によってはお話のイメージがガラリと変わる可能性があります。

 ローザはシンドレアの三大名家の一つ、ヘカトール家に生まれた。

 三大名家は公爵家の中でも強い力を有する家であり、王族との結婚が多い。三つの家はそれぞれ権力が集中しないように常にバランスを取り合っており、本来であればローザは第一王子の婚約者になることはなかった。


 本来ならば。

 事情が変わったのは剣聖ザイル=フライドの孫が剣の才能を引き継いでいると発覚したから。

 元より二十年前の活躍の際、フライド家を公爵家に格上げしようという動きがあったそうだが、ザイル本人がそれを辞退。以降、王家はフライド家の格上げのチャンスを狙っていた。そして彼の孫、リガロ=フライドにもその才があると分かったため、王家は彼を取り込もうとした。けれど王家には年の近い女児がいなかった。リガロの才が発覚してから数年経っても王妃様が女の子を身ごもることはなかった。ならば三大名家のどこかに婿入りさせ、その子どもを王家に迎えようとするのは至って当然の流れであると言えよう。それぞれの家が彼と年の近い令嬢を何人も連れ、フライド家に縁談の話を持ちかけた。当主は乗り気で、すぐに話が決まると思われたが、意外にも話が難航した。なんでもリガロ本人が彼女達との婚約を嫌がったのだという。その話を耳にした父はすぐにローザとの話をなかったことにし、様子を窺うことにした。結果として、父の判断は正しかった。フライド家は三大名家の令嬢全ての婚約を断ったのである。すぐに他の家との話を受けるようになった。だがどの家もすぐに決まるということはなく、必ずリガロ本人と会って、彼の反応を見て答えが告げられる。どの令嬢も断られ続け、ついに決まったのはフランシカ男爵家の令嬢だった。


 リガロの婚約者が決まるまでの三年間、フライド家との関係を密にしようとした他の二家と、王子との交流を大事にし続けたヘカトール家ーー王子の婚約者に選ばれたのは後者だった。こうしてローザはスチュワート王子の婚約者に選ばれた。


 婚約者が決まってからもリガロの成長は止まらず、むしろ拍車がかかっていたとも言える。彼の噂を耳にしない日はないとさえ言われ、とある剣術大会であと一歩のところで敗れた時には『何かの間違いだ』『不正があったのではないか』とさえ騒がれた。その時、リガロはまだ六歳。いくら剣術の才があるとはいえ、彼はごくごく普通の子どもだ。お茶会の席で婚約者とどこへ行ったのだと話す彼は本当に楽しそうで、だからこそ周りの反応の異常さに吐き気を覚えた。


 リガロが変わってしまったのはそれからまもなくのことだった。

 婚約者の話どころか自分の話さえもしなくなり、目からは徐々に光が消えていった。彼の婚約者とは身分の差もあり、顔を合わせる機会はなかったが、日に日に回りからの当たりは強くなっているらしい。お茶会でそのことを教えてくれた令嬢は『剣聖の孫の婚約者なのだから』『男爵令嬢のくせに』とまるで相手が虐げられることが当然で、自分は正義を貫いているのだと主張するかのように胸を張っていた。リガロと共に変わっていく周りに、ローザは恐ろしさを感じた。お茶会から戻ってすぐ、今日の報告のために父の書斎に向かった。報告を済ませた後は父の仕事の邪魔にならぬよう、いつもならすぐに下がるところだが、ローザはこのまま誰にも話さずに気味の悪い何かを抱き続けることなど出来なかった。作業を再開させようとする父の迷惑になるかもしれないと承知で口を開いたのだ。


「リガロ様は、その……大丈夫なのでしょうか? 今日は少し目が虚ろでいらっしゃいましたわ」

「昨日夜遅くまで大会があったそうだから、疲れているだけだろう」

「ですが、最近婚約者であるイーディス様の話もめっきりしなくなってしまって。それどころか話を振ろうとすると彼は顔を歪めて……」

「何かあったのだろう」


 父はローザの心配など軽く流すだけ。

 だがその後に小さくため息を吐いて「相手はフランシカの娘だ。心配いらんだろ」と続けた。どういう意味だろうか? 分からず問おうとするローザだったが、仕事があるからと追い出されてしまった。


 なぜ父はリガロ本人でもフライド家でもなく、フランシカ家の、婚約者の家を挙げたのか。しばらく悩んだがその理由は分からなかった。ただ父の言葉を何度も繰り返す度、ローザも不思議と心配はいらないような気になってくる。


「フランシカ家、か……」

 特に目立ったところのない、ごくごく普通の男爵家と聞いている。イーディス本人も地味な令嬢で、だからこそ気に入らないのだと。だがフランシカには父に心配いらないと言わせる何かがある。その日からフランシカ家の令嬢、イーディス=フランシカは気になる存在となった。周りが彼女の嫌みを言う度に「イーディス様はフランシカ家の娘だから心配いらない」なんて会ったこともないくせに頭の中で繰り返す。すると少しだけ心が楽になるのである。現実逃避でしかないのかもしれない。それでもローザは恐怖に飲まれるわけにはいかなかった。



「先日の演奏会、素晴らしかった」

「来てくださったのですか?」

「もちろん。よければ今度城に来た時にもう一度聴かせてくれないか?」

「喜んで」


 婚約者である王子にローザは恋をしていた。

 政略的なものだと理解していたが、スチュワートを知る度に惹かれていったのである。国のために努力する彼の隣に立つに相応しい女性になりたくて、ローザは苦手だったバイオリンも今では家庭教師に褒められるほどにまで上達した。勉学だって手を抜かず、誰もが認める淑女になる度に自分を磨き続けた。



 学園入学を三年後に控えた頃、再びリガロに変化が起きた。

 もう何年も曇り続けていた瞳に光が宿ったのである。だが相変わらず会話にはほとんど参加をせず、終始つまらなさそうに過ごしていたので気付く者は少なかったと思う。だが帰りの馬車で王子が「良いことがあったんだろうな」と嬉しそうに溢すほどには、大きな変化でもあった。それから彼は少しずつ変わっていった。一ヶ月後には婚約者の名前を出すようになり、再び笑うようになった。イーディスと馬に乗ってどこかに出かけているらしいと噂を耳にした時、ローザは彼が変わったのは彼女のおかげだと直感した。それ以来、リガロの口からイーディスの話を聞くのが楽しくなった。


 だからだろう。

 ローザは学園で闇に飲まれそうになった時、真っ先に『イーディス=フランシカ』の名前が頭に過った。光の聖女と共に過ごす王子と話し合うでもなく、夜会で数回言葉を交わすくらいの関係の彼女に助けてくれと縋ろうとしたのだ。

 だがローザの周りにはいつも多くの令嬢がいて、イーディスの近くには必ずアリッサム家の令嬢とその婚約者のギルバート家の令息の姿があった。いつも心から楽しげに笑う彼女達の間に割って入れば、澄んだ空気を汚してしまいそうで、一人、誰にも見られない場所で震える日々だった。

 そんなローザに転機が訪れた。

 例の二人が学園を休んだのである。おそらくアリッサム家の令嬢が体調を崩したのだろう。彼女は身体が弱く、お茶会にもほとんど参加したことがないらしいから。これはきっと神様が与えてくれたチャンスだと、これを逃せばきっと自分は闇に飲まれてしまうと、強く地面を蹴った。


 行き先は茂みの中。

 どうしても怖くなった時はここに隠れることにしている。まさか公爵家の令嬢が茂みの中に隠れるなんて誰も思いつかないだろう。父に知られれば確実に失望される。分かっていても、ここが一番落ち着くのだ。膝を抱えてしゃがみ込み『どうかイーディス様が現れてくれますように』と強く祈った。そんな祈りが届いたのだろう。ローザが茂みに入ってから四半刻とせずに彼女はローザの前に現れた。そして怪しさしかないローザの誘いに乗ってくれたのである。


 ヘカトール屋敷に足を運んでくれたイーディスは、ローザの愚痴を聞いても失望せずに励ましてくれた。それだけではない。彼女はローザのワガママな願いさえも受け入れてくれたのである。


 フランシカ家の馬車を見送った後もしばらく玄関先で立っていると、書斎で仕事をしているはずの父がわざわざ玄関までやってきた。普段ならローザの友人が来てもわざわざ出てくることはない。食事の席で話をする程度である。なのに父はやってきた。それも馬車が去った道を目を丸くして眺めている。そして口元をヒクつかせながら、喉から絞り出すように声を漏らした。

「フランシカ家の令嬢が来ていたのか?」

「はい。イーディス様ですわ」

「あの家の娘と、友人になったのか?」

 父は貴族らしい人で、感情を表に出すことはほとんどない。ローザが失敗しても淡々と筋を説明して、正すようにと諭してくれる。そんな父が玄関先でこんな質問を重ねるなんて、よほど気に触れるようなことをしたのだろう。今後は付き合うなと言われるかもしれない。否定すべきだと頭で理解しつつも、折角掴んだ奇跡を逃すことなんて出来なかった。落とさぬように右手でぎゅっと握って、父に意思を伝える。


「まだそこまでは。ですが私は彼女の友人になりたいと思っております」

 こんなこと生まれて初めてで、声は少し震えてしまった。だが父から返ってきたのは怒りの言葉でも、説得でもなく、「そうか」となんとも取れない言葉だった。ただそれ以上、否定の言葉が続けられることはなく、父は何かを考え込むようにその場を去って行った。それからの父は学園について聞いてくることが増えた。直接『イーディス』や『フランシカ』の名前を挙げることはなかったが、なんとなく彼女について知りたがっていることは分かってしまった。あの日父が溢した言葉といい、父はフランシカ家と何か関連があるのだろうか。だがそれならば直接フランシカ男爵と交流を持つはずである。ローザに聞いてもいい。こんなわざわざ娘達の関係を探るような真似をする必要などない。何より、父が話を振ってくる日がローザが図書館に行った日と被ることが多いのが気になった。



 ーーそしてその理由が明らかになったのは、イーディスが消えた日。


「王子の婚約者を辞退させてください」

「それは、フランシカ家の令嬢が消えたからか?」

「……私が逃げたせいでイーディス様は取り込まれてしまったのです。きっと私はまた逃げる。顔を背けて、きっと他の誰かが犠牲になってしまう。そんな私が王子妃になるなんて無理です……」

「それは違う。あの令嬢は自らそこに足を踏み込んだんだ」

「お父様にイーディス様の何が分かるんですか!」


 自業自得だとでも言うつもりか。何も知らないくせに。イーディスがこんな目にあったのは全てローザが悪いのだ。恐ろしさのあまり彼女に手を伸ばしたせいで、闇の底へと引き釣り込んでしまった。友の犠牲を経て、ローザはここに立っている。罪深き人間なのだ。自分への怒りを父にぶつけるように怒鳴りつける。けれど父は平然と「イーディス嬢のことは分からなくても、フランシカという家についてなら分かる」と告げた。


「あの家は表面的に関わることはあっても、興味が沸かなければ何かに踏み込むことは決してしない。ローザと関わると決めたのは、お前に何かしらの興味を持ったから。そして友人関係を続行したのも興味が続いていたからに過ぎない」

「それはどういう……」

「彼らは興味がなければ先代が築いた縁すらも容易に捨てる。地位や権力・義務などではなく、彼らは興味で動く家なのだ。そして、興味がなくなれば躊躇なく切り捨てる」

「ですがイーディス様は貴族として、男爵令嬢として相応しくあろうと努力なさっていて、だからこそ私も!」

「彼女の行動の根源は本当に貴族だから、か? 『剣聖の孫の婚約者』だからではないか?」

「そんなのこじつけです」

「ローザもじきにフランシカの異様さを理解するさ。あれに一度でも触れたものが忘れられるはずがないのだから」

 父は自嘲気味に笑うと、婚約解消の話を進めることを了承してくれた。

 ただ一つだけ、話を進めるに当たっての条件を付け加えた。


「どんなに怖くても、フランシカから目を背けるなよ」ーーと。

 そのとき、ローザには父の言葉の意味が分からなかった。



 後日、ローザは城に呼び出された。

 婚約解消の意思確認がなされたのである。

 学園入学後、ローザは未来の王子妃として相応しい行動をとれるか試されていたらしい。結果は合格。予定していたよりも魔の被害が大きかったのに対し、ローザは気丈な態度を取っていたとの評価を賜った。出来ればこのまま婚約を続行したいーーそれが王家の考えだった。

 だが今のローザがあるのは、イーディスの存在あってこそ。あの日、茂みの中で顔を付き合わせることがなければローザは今頃王の間ではなく、地下牢に収容されていたことだろう。


「ありがたきお言葉ですが、私の思いは変わりません。辞退させていただきたく思います」

 陛下の言葉を断るなんて不敬に当たる。だが結婚してからでは、王子の妃となってから間違えるのでは遅いのだ。深く頭を下げ「どうか王子に相応しき女性を……」と声を絞り出す。陛下はふうっと長い息を吐き、そして熟考の上で「……婚約解消を認めよう」と口にした。



 イーディスが消えてから二ヶ月後のことであった。

 それから王子の婚約者ではなく、ただの公爵令嬢となったローザには多くの婚約話が持ち込まれた。婚約破棄ではなく、解消という形を取ったことで今回の解消はヘカトール側の問題ではないと判断してのことだろう。三大名家と繋がりを持てれば貴族としての格が上がる。どの手紙も下心が見え見えで、気持ちが悪くなるほど。だがそれも仕方のないことと言える。

 日に日に明らかになっていく騒動の被害は、社交界に大きな爪痕を残した。魔に犯された者は全て癒やしの力によって魔が取り除かれたものの、元の状態に戻るわけではない。魔がなくなっても気が狂ったように悲鳴を上げ続けたり、何かに怯えるように部屋に篭もってしまうようになった者も多い。被害の多くは在学中の生徒であったが、そのほかにもサロンに参加していたらしい貴族も軒並み魔に犯されていた。それにより、ローザの親たちよりも年上の世代はゲートの一件を思い出すようになってしまった。剣聖の孫と聖女がいてもこれだけ多くの被害を産むのだと、恐怖は大きくなっていく一方。そんな中で、渦中に身を置きながら被害を受けなかったローザを彼らは強く欲するようになったのだ。


 だがローザはすぐに次の婚約者を決める気にはならなかった。父もローザを急かすことはなく、むしろ好きなことをしなさいと言ってくれた。今回の一件でローザを取り巻く環境や友人関係も大きく変わったというのもあるのだろう。そのうち父がいい人を連れてくるかもしれないと都合の良い考えをして、ローザはイーディスがいなくなった図書館へ向かった。それはローザだけではなく、他の友人も同じこと。自然と朝以外の時間も四人で過ごすことが増えた。話題はもっぱらイーディスについて。思い出に浸りながらも、誰一人として彼女の帰還を諦めていなかった。だが彼女がどうすれば戻ってくるかは分からず終い。そうこうしているうちに二年生に上がっていた。一年次終了のタイミングでキースはイストガルムに戻り、マリアもまた学園を去った。二人の結婚報告が来てからもローザは変わらずにバッカスと共に過ごしていた。


 二人がいなくなってからしばらく経った頃、バッカスは本を捲りながらとある提案を投げかけた。


「ローザ嬢さえよければ卒業後、一緒にカルドレッドに行かないか?」

 カルドレッドに行けば、今よりも多くの情報を知ることが出来る。イーディスを魔道書の外に出す方法も見つかるかもしれない。カルドレッドに滞在するには条件を満たす必要があるが、試してみる価値は十分にあるだろうーーと。

 バッカスの提案に、ローザは一も二もなく頷いた。それから休みの日は二人で各地を巡り、現状で集められる魔の文献を漁った。レトア家にも足を運んだ。そんな二人の関係を、周りは恋人のような関係だと話しているのを耳にしたことも一度や二度ではない。だが気にはならなかった。むしろ手紙が送られる頻度が減ったことで調べ物の時間が増えたことは喜ばしくもあった。バッカスも誰かと婚約をするつもりはないようで、いつからか夜会が開催される時は二人で揃って参加するようになった。

 長期休暇には二人でカルドレッドにも向かった。貴族がカルドレッドを見学しにやってくるのは珍しいらしく、他国の研究者達と同じ案内で申し訳ないと何度も頭を下げられたが、魔について詳しく知りたい二人からすれば都合が良かった。その後も何度もカルドレッドに手紙を送り、二度、三度と見学をさせてもらう。そして五度目の訪問で、カルドレッドに長期滞在する条件を教えてもらえた。突破はかなり難しく、人によっては精神を病むこともあると言われた試験だが、ローザとバッカスにはすんなりと魔法道具が馴染んだ。


 それが三年生の終盤のこと。

 父にはすでに卒業後、カルドレッドに行くことを相談しており、必要があれば分家から養子を取るという話も進んでいた。順調に進んでいたと思われた計画だが、大きな問題に突き当たった。



「スチュワートと結婚して欲しい」

 父が詳しい訳も告げずに城に連れてきた時から嫌な予感はしていたのだ。だがまさか王の間に入ってすぐに陛下と王妃様が二人揃って深く頭を下げることは想像もしていなかった。驚きと戸惑いを隠せず、ローザは眉間に皺を寄せる。

「それは、二年前にお断りしたはずです。陛下も了承してくださったと認識しておりますが」

「ああ、確かに了承した。だが、事情が変わったのだ」


 苦々しい表情でそう切り出した陛下は、この二年間の出来事を説明してくれた。

 ローザとの婚約解消が成立してから他の令嬢達を婚約者に据えようとしたこと。だが年の近い令嬢の多くが魔に犯されていたか、犯された者を間近で見ていたこと。子ども達だけではなく、親たちも魔に怯えていること。希望を託されているメリーズとアルガは精一杯働いてくれているが明らかなオーバーワークで、もう一つの希望であるリガロもイーディスを失った悲しみから立ち直れていないことで、社交界の不安は日に日に大きくなっていること。


 このままでは近いうちに学園と同じ状況が社交界でも発生してしまい、国が滅びるーーと。


「勝手な願いだとは承知の上で、どうか頼む。そなたにしか頼めぬのだ」

 陛下はローザ相手に深く頭を下げ、どうかと繰り返す。

 この二年で屍のようになってしまったリガロを何度も目にしてきた。イーディスさえ隣にいればあんなことにはならなかったはずだ。リガロはイーディスを心から欲していたから。彼を見ていると愛しているという言葉が安く聞こえてしまうほど。そんな彼からイーディスを奪ったのはローザだ。ここでまた逃げたらローザはもう息をすることさえ出来なくなってしまう気がして、気付けば口が勝手に動いていた。


「そのお話、お受け致します」

 イーディスの安否が分からぬ今、ローザのせめてもの罪滅ぼしは国に尽くすこと。そしてイーディスが帰ってきた時、少しでも彼女の力になれるよう模索することである。


 あの日、イーディスに語った『スチュワート王子を支えたい』という気持ちがなくなった訳ではない。それでも、ローザにとって幼い頃から育ててきた恋心や使命感よりもイーディスは大きな存在になっていたのだ。

 バッカスに事情を話し、共にカルドレッドに行けなくて申し訳ないと頭を下げた。

 彼はローザを責めることはせず、むしろ一人残す形になってしまってすまないと謝ってくれた。


 卒業後、まもなくローザはスチュワート王子と結婚した。子を成さなければならないとの義務のもと、毎晩王子と夜を共にしたが、王子に愛を囁かれる度に精神に小さなヒビが入っていくようだった。


『一人だけ幸せになるなんて許さない』

 初めは脳内で繰り返されていただけの言葉はいつしか形を持ち、ローザの前に幻影となって現れる。イーディスの形をしたそれから目を背けることは出来ず、代わりにスチュワートから目を背ける。

 彼との間に必要なのは子どもである。魔に犯されなかった娘と王家の血を引く子どもがいればいい。恋情なんて必要なく、ローザは子作りと公務を果たしさえすればいい。これは義務である。そう自分に言い聞かせ、悲しげな顔をする彼のことも見えない振りをする。今、ローザが壊れてしまっては意味がない。血を繋げるため、ローザはまた『逃げた』のだ。

 だが城の一室で怯えているだけしか出来なければきっと第一子を成した時点で幻影に飲み込まれていただろう。けれど友人達はそんなローザの現状を察するかの如く、手紙を送ってくれた。

 バッカスに至ってはローザがシンドレアに残りながらもカルドレッドとの情報共有を行えるようにと便宜を計ってくれた。出産と子育てが落ち着いたらこちらに協力して欲しいなんて一文を加えて。それはローザにもまだイーディスの役に立つ方法が残されているという、バッカスなりの激励だった。


 カルドレッドからの情報協力が得られることを陛下に報告すれば、目を丸くして驚いていたが喜んでもくれた。そしてローザが子育てが落ち着いたら頻繁にカルドレッドに足を運びたいのだと話せば、条件付きとはいえすぐに了承をしてくれた。


 陛下に出された条件は王子との間に三人の子を成すこと。性別は男女どちらでもいいらしい。一人でも生き残ってくれれば男女関係なく次期国王にすると。

 シンドレアの歴代王は全て男性である。男児が残ればそちらを王にするのだろうが、それでも他から男児を迎えずにというのは異例中の異例である。


 今はローザとメリーズ、そして二人の剣聖がいる。

 だがこの中の一人でも欠ければ、例えば高齢であるザイル=フライドが亡くなってしまえば、このギリギリを保った状態は簡単に崩れ落ちる。いや、ザイルよりもリガロの心配をするべきなのかもしれない。王子付きの騎士となった彼はイーディスが消えた直後よりもマシになったとはいえ、まだ危うさが残っている。バランスを保つには支えがいる。

 その支えがローザの子どもなのだ。


 ローザは再び魔の研究に打ち込むため、王子と三人の子を成した。

 三人目が乳離れをするまでの間、度々様子を見に来てくれるマリア・キースと意見を交わし、バッカスとは毎週のように手紙を交わした。


 妻を伴って訪問するキースはともかく、バッカスとの文通は不貞を疑われる要因となっているらしく、バッカスとの関係がまだ続いているのではないかなんて噂が立ち始めた。

 だが子どもは三人とも王子の特徴を引いている。ローザの面影などほとんどないくらいだ。当然、バッカスの髪色や目の色なんて混じっているはずもない。噂の出所は城内の誰かだろうと予想はついたが、三人の子どもが王家の血を引いていると証明出来ればわざわざ否定する必要を感じなかった。


 カルドレッドに通うようになってからはますますその噂が広がるようになり、王子からは何か言いたげな視線を向けられることも増えた。だが彼にはすでに何度とバッカスとはただの友人関係だと告げているのだ。それでも疑われ続けるのならば、信頼が築けていないと諦めるしかないのだろう。



 もう学園入学前のような関係には戻れない。

 自分は罪を滅ぼすために一生を尽くすのだーーそう思っていた。


 イーディスが戻ってきてからも彼女の力になろうと尽力してきたつもりだ。

 だがイーディス=フランシカという少女はローザが思っていたよりもずっと強い女性であった。十年という空白をものともせず、カルドレッドという集団を率いて変革を遂げてしまったのだ。リガロの葬式を取り仕切りながら、もう何年も前の父の言葉を思い出した。


「どんなに怖くても、フランシカから目を背けるなよ」

 その言葉の意味はずっと贖罪に生きろということだと思っていた。罪から逃げるなと。

 だが父の言いたかったことはそんなことではなかったのだ。信じ続ければ、目を背けなければ彼らは必ず救ってくれる。きっと父はそう言いたかったのだろう。父は当然のようにフランシカを信じていたから。

 都合の良い解釈かもしれないが、それでも彼女の帰りを待ち続けたからこそ今がある。光を見せてくれたのは、信じさせてくれたのは間違いなくイーディスである。

 火の中に入れた花が燃えるのを見守りながら、自分を繋ぐ罪の鎖が解き放たれたような気がした。

 いや、元々そんなものなかったのだ。イーディスはローザを責めてなんていなかった。あれはローザが生み出した幻聴・幻影でしかなく、鎖だってローザが自らの首に勝手にはめただけだったのだから。


 だがこれで全てが終わったという訳ではない。

 ローザは二度も魔に関する事件現場に居合わせた者として、剣聖の活躍の語り部とならなければならない。これは逃げたローザにしか出来ないことだから。それにオーブは改良していかなければならないし、聖母がいなくなった後も均衡を保てるように今から意識改革を行っていく必要もある。この先も長い道のりになることだろう。それこそ一生をかけて働かねばならない。だがそんな仕事に携われることを、ローザは誇りに思うのだ。



 ……それに役割があれば、以前のように頻繁にカルドレッドに足を運ぶ理由も出来る。



「今日も、行くのか?」

「はい」

「そうか……」


 まだやることがあるのは事実だ。だが事件の現場となった会場の整備が終わってから、友人達に家族と向き合うように言われるようになった。皆、言葉は違うけれど、これからも自分の生活を『犠牲』にする必要はないと言う。リガロなんて俺のせいかもしれないけれど、なんて頭に付けて王子と向き合ってくれと頼んでくる。王子への気持ちなどとうに彼らにはバレているからだろう。彼らがローザに望んでいるのは幸せであり、同時に依存からの脱却でもある。分かっている。分かってはいるのだ。だが今さらどうしろというのだ。散々目を逸らしてきたものと今さら向き合う勇気など出なかった。だから毎回何かと理由を付けてカルドレッドへと向かう。

 今日はちゃんと用事があるのだが、ろくに話をせずに背を向けるなど逃げたのと同じだ。いくつになっても逃げてばかり。いい加減、自分が嫌になる。


 馬車に乗り込み、ローザは暗くなった気持ちを切り替えるように頬を叩く。

 折角誕生会に参加するのに、こうも暗い顔ではいけない。頭を切り替えるように持ってきた資料に手を伸ばす。近々、立て続けに他国の王族がシンドレアにやってくることになっている。目的は例の会場の視察である。リガロの暴走については限られた者しか知らず、表向きは魔が溢れ出したことになっているので、リガロの活躍やカルドレッドの支援があったとはいえ、早い段階で事態を収束させられたことが注目されているのだ。当日はカルドレッドの職員にも数人参加してもらうことが決まっており、今回の様子次第ではカルドレッド主催で魔に関する大規模会議を開くことが検討されている。これからを変えるには魔に対する認識を広めていく必要があり、今のようにシンドレアだけが手厚い援助を受ける訳にはいかない。大仕事を成功させてみせるとやる気になったローザはスチュワートのことなどすっかり忘れて、仕事に没頭していった。



「皆様には申し訳ないですが、今日は私が勝ちをもらいますからね!」

「マリア嬢、今回はやけに強気だな」

「俺は前回までと攻め方を変えてみた。気に入ってもらえるといいんだが」

「俺はまだ探り探りだから、ローザ嬢が読んだことない作品だといいんだが……」

「私はローザ様の好みの傾向をしっかり掴んだ上でオススメ選びに三ヶ月かけましたからね! 負けませんよ~」


 今日はローザの誕生会である。

 カルドレッドにあるイーディスの屋敷の一室で、彼女が作ったケーキを食べながらお祝いしてくれるのだ。

 プレゼントは各々がオススメする本で、渡す前にはアピールタイムが入る。そして贈られた側は、次回集まった時にどの本が一番気に入ったか発表することになっている。学生時代のように読書会が出来なくなったのでその代わりである。

 ちなみに発案者はリガロ。カルドレッドにやってきてからしばらくが経った頃、読書会があれば参加したいと言い出したのが始まりだった。今は一度ずつ誕生日が周り、ローザに本が贈られるのは二度目である。皆、一度ずつ贈られる側を経験しているからか、以前にも増して熱が入っている。


「トップバッターは誰にする?」

「私は最後がいいです」

「? マリア嬢、さっきまでの勢いはどうしたんだ?」

「アピール自体は短くていいので」

「そうか? 珍しい」

「なら一番は俺がもらってもいいか?」

「リガロ様が?」

「まだ一番はやったことがなかったから」

「なら私が二番目になりますね」


 サクサクと順番が決まっていき、アピール者の前には専用の砂時計が置かれる。この砂が全て落ちたらアピールタイム終了である。リガロに砂時計が渡され、彼は伏せていた本を皆に見せるように立ち上げた。



 リガロ、イーディス、バッカス、キースと続き、最後はマリアである。

 彼女は砂時計を引っ繰り返すことなく本を胸の前で掲げ、ゆっくりと口を開いた。アピール自体は短くてもいいとの宣言通り、彼女のアピールはほんのわずかな時間だった。


「ラストを存分に楽しんでください」

 ただそれだけ。それだけ告げると「お誕生日おめでとうございます」とローザに本を贈った。

 いつもなら熱気が伝わるほどに興奮してオススメしてくる彼女が、意味深な笑みを浮かべてひと言で終わりである。今から中身が気になって仕方ない。そうなるのがわかっていたから最後にしてもらったのだろう。ローザはそわそわしながら『純青』と書かれた真っ青な表紙の本を撫でる。


 会がお開きになり、カルドレッドでの仕事を済ませてから数日かけてシンドレアへと戻る。

 城に到着したのは空が闇に支配された頃。子ども達はもちろん、陛下や王子も寝てしまっているだろう。報告は明日にしようと決め、自室に戻ったローザは真っ先にマリアから贈られた本を開いた。タイトルの『純青』は『じゅんせい』と読むらしい。純白の白を青に置き換えたのだろうか。どんな話かも予想が出来ないまま、読み進めていった。


 メインとなるのは姫様と騎士。幼なじみでお互いに思い合っていたが二人が六歳の頃、少年が隣国の親戚に引き取られたことで離ればなれになる。けれど姫様が十六になった年、隣国の王子と婚約を果たしたことで二人は再会する。

 姫と、王子の近侍として。

 決して結ばれることはない。二人もそれを理解していた。

 だが会えなくなってからも長年育ち続けていた恋心は簡単に枯らすことなど出来なかった。かといってこのまま恋情を抱き続けるわけにもいかない。

 二人は結婚式前日に城から抜け出し、思い出の場所である海へと向かった。幼い頃にした結婚のまねごとをなぞることで、この思いを完全に終わらせようとしたのだ。

 姫は真っ白なドレスを、騎士は子どもの頃に憧れた生まれた国の騎士団服を着て、将来の誓いを捧げる。

 だが昔と違い、誓うのは騎士だけ。

 相手を一生幸せにするという約束から、あなたに一生仕えますと言葉も変える。忠誠のキスを姫の手の甲に落とすと彼女のドレスの色は白から海の色へと変わっていく。


 それからまもなく二人は見つかってしまった。

 忽然と姿を消した二人を心配した王子が捜索に当たっていたのである。王子の相手を勝手に連れ出すなんてあってはならぬこと。本来ならば騎士は懲罰されるべき行為を行った。けれど王子は騎士を咎めることはなく、姫との結婚を止め、二人のための式を挙げることにした。こうして結ばれた二人は幸せになったーーというところで話は終わっている。


 ラストはかなりふわっとしているため、捉え方が読者によって異なる。マリアが伝えたかったのはここだろう。一番大きな違いは王子の挙げた式が結婚式か葬式かということだろう。

 騎士のキス以降、騎士と姫様の動きが書かれていないのはおそらく意図的で、ドレスが海の色へ変わったと書かれている場面は二人で身を投げたともとれる。タイトルにある『青』や、それと並んで本編の至るところに出てくる『海色』は幸せの象徴ともとれるが、同時に彼らの若さや愚かさを指しているともとれる。思い出の海=青と繋げたのは皮肉なのだろう。彼らは青すぎた。それ故に国や立場よりも己が恋を選んだ。


 寂しい恋の物語だ。

 普段マリアが好むものとはかけ離れている。

 だがこの話にはもう一つの読み方がある。

 イーディスとリガロを見守ってきたローザだからこそ読み取れる物語が。


 死して同じ色に染まることができた男女。

 それはローザがよく知る二人の関係によく似ている――と。

 いや、ラスト以外にもどこか二人を彷彿とさせる点がいくつも存在する。出会ったのが六歳の頃であることや、空白が十年間であること。それに好物だって二人と全く同じだ。たまたまかもしれない。だがマリアがローザに読ませたかったのは、共感してほしかったからだろう。きっと彼女もすぐに二人との共通点に気付いただろうから。


 ボロボロと落ちた涙は本に染みを作る。スンスンと鼻を鳴らしながら、寝る前に素敵な本を読ませてもらったと胸に抱きしめる。このまま良い気分で寝ようとベッドに入ると、コンコンと弱々しくドアがノックされた。こんな時間に誰だろう。少し前なら寝られないと子どもがやってきたのかと考えるが、あの子達はもう一人で寝られる年齢だ。だが使用人ならこんなに遅くやってくる理由が分からない。訝しく思いながらも、小さく返事をする。するとドア越しに聞こえたのは予想もしていなかった人物の声だった。

「ローザ、起きているのか?」

「スチュワート王子!? いかがなさいましたか?」

 急いでドアを開くと、やはりそこに立っていたのはスチュワートだった。いつもよりも暗い顔をしており、よほどのことがあったに違いない。ローザは部屋に招き入れようとしたが、スチュワートは長居するつもりはないのだと軽く首を振った。

「ローザが帰っていると聞いて。疲れて寝ているかとは思ったのだが、その……顔を見れたらと思って」

「?」

 ローザが夜中に帰ってくることは珍しいことではない。なのになぜ今回だけわざわざやってきたのだろうか。それもローザが帰ってきてから半刻以上も経ったこのタイミングで。スチュワートの意図が読めずに首を傾げれば、彼は言いづらそうに視線を彷徨わせる。

「昨日、ローザの誕生日だから」

「あ」


 誕生日会はなるべく近い日とはいえ、全員の予定に合わせて行うのでやや日程が前後する。今回は誕生日の五日前だった。友人に祝われてすっかり誕生日を終えたつもりでいたが、そうか、昨日が誕生日だったのか。ローザが帰ってきたのはすでに日が変わった頃。結婚してからも毎年バラの花束とプレゼントを用意してくれている王子はきっと今回も何か用意をしてくれていたのだろう。事務的なやりとりだったとはいえ、申し訳ないことをした。


「すみません。事前にお伝えしておくべきでしたのに、こんな遅くまで……」

「私が勝手に待っていただけだから気にしないでくれ」

「ですが……何か埋め合わせをさせてください」

「埋め合わせ、か……」

 王子は悲しそうに俯く。言い方がマズかったと気付いた時にはもう遅かった。こんなではいつまで経っても距離なんて詰められるはずがない。反省するローザに、スチュワートは弱々しい言葉を吐き出した。

「なら明日、一緒にバラ園を散歩しないか?」

 まるでそんな些細な願いすらもローザに受け入れられることはないと諦めているかのように。

「そんなことでよろしいのでしょうか?」

「ああ! そのときにプレゼントも渡すよ」

 花が開いたように笑う王子に、ローザが思っていたよりもずっと彼に負担をかけていることを悟った。




 王子が帰ってからいろいろと考え込んでしまったローザは一睡も出来ぬまま朝を迎えた。

 お気に入りのドレスを着て、メイドに髪を整えてもらい、今は王子の迎えを待っている。


「王子と向き合え、か」

 一人の部屋でぽつりと呟くのは一晩中頭の中を駆け巡っていた言葉である。

 彼と向き合うことは、もう長い間封じた自身の思いと向き合うことでもあると考えていた。だが本当にその道しか残されていないのだろうか。貴族の結婚の多くが政略結婚である。恋情はなくとも上手くいっている夫婦も多く存在する。ローザも無理に蓋をこじあけずとも、家族として向き合うことは出来るのではないだろうか。


 その一歩を今日の散歩で踏み出すことが出来ればーー。


 お話に登場した姫と騎士のように青くはなれない。青春なんてすでに通り過ぎてしまっている。あの頃の色を取り戻そうとしたところでどんな青だったかさえも忘れてしまった。だが青春の次、朱夏ならばまだ色を知ることが出来る。


 どんな色になるかはきっとローザ次第。

 ローザがどう生きるかでその赤は鮮やかにも淡くも、そして汚くもなる。



「おはよう、ローザ。昨日はよく眠れたか?」

「はい。ぐっすりと」

 気を遣わせまいと平然と嘘を吐く。一晩寝ないなんてよくあることなのでメイドにも指摘されなかった。だがローザよりも王子だ。彼の顔面は血の気が引いたように青白い。具合が悪いのではないだろうか。

「王子は少し顔色が良くないように見えますが」

 予定をズラしますか? と暗に告げれば、彼は軽く首を振る。

「緊張で昨晩はよく眠れなくてな」

「緊張?」

「ああ、いや、なんでもない。気にしないでくれ」

 バラ園を散歩するだけで緊張なんて、と思ったが、よくよく考えてみればこうして特別な用事もなく王子とどこかに行ったのはいつぶりだろうか。歩きながら記憶を掘り起こすが、なかなか該当する日が見つからない。もしや学園入学以来だったりするのではないか。そう思うと途端にローザも緊張してしまう。鼓動は早くなり、美しい花を咲かせるバラを見ずに地面ばかり見てしまう。王子との間に生まれた小さな距離にもどかしさと安心感を覚えるなんて、これではまるで恋を覚えたばかりの少女のようではないか。何か話せばこの緊張感も和らぐかもしれないと話を振ろうにも、ちょうどいい話題が見つからない。


「今日は良い天気ですね。絶好の散歩日和で!」

「そうだな。暑すぎず寒すぎず気温もちょうどいい」

 なんとか絞り出した天気の話題など長く続くはずもなく、再び会話は途切れてしまった。だがこのいたたまれない空気に耐える勇気はない。なんとかそれらしい話題を考え、ふと先日のカルドレッドの会話が思い浮かんだ。

「カルドレッドはそろそろ寒くなりはじめまして、ラスカ様はセーターを編もうかと考えているそうなのです。でも彼はすぐに体温が高くなるからいらないかもしれないと楽しそうに悩んでいらっしゃって。その姿がとても羨ましくて」

 思い出してふふふと声を漏らせば、彼はピタリと足を止めて「ローザ」と話を切った。どうやら重い沈黙は本題に入るための準備だったらしい。はい、と短く返事をすれば、彼は隣からローザと向き合う位置に移動した。まっすぐとした瞳に先ほどとは違う緊張が走る。

「ローザが私と結婚してくれたのは彼女の件があったからで、それさえなければきっと君はカルドレッドで研究に打ち込めていたかもしれない。一度は婚約解消を認めながらも、結局自分達ではどうにも出来ないからと君に助けを求め、縛り付けたこと、今さらながら謝罪させてくれ。申し訳なかった」

 深々と頭を下げられ、彼は今日、離縁を言い出すために呼び出したのかと理解する。徐々に冷静になっていく頭で、思えば部屋から護衛は一人もついてきていない上にバラ園は人払いがされていることに気付いた。

 まだまだローザのやるべきことは沢山あるが、それは王子妃でなくとも出来る。それこそ度々国を留守にするローザをカルドレッドに送り、必要な時だけ派遣してもらって、王子は王子妃に適任の女性を妻に迎えればいい。少し年は離れてしまうかもしれないが、王子を支えてくれる女性がきっといるはずだ。いや、もう見つかっているのかもしれない。子どものように浮かれて、周りの状況を飲み込めていなかった自分が恥ずかしい。


「頭を上げてください。私は公爵家の娘として当然のことをしたまでです」


 結婚したのはローザが公爵家の令嬢だったから。

 政略の一部だと自分に言い聞かせ、これから来るであろうショックを緩和するための予防線を張る。


「公爵家の娘だから、か。君は責任感でこの場に留まってくれている。そう分かっていてもいつかそれが責任感だけではなくなるんじゃないかと期待して、そんな気持ちがローザに居心地の悪さを抱かせてしまった。子ども達も元気に育ってくれた今、本当は君を解放するべきなのかもしれない。この一年、これからのことを私なりにじっくりと考えてみたんだ。考えて、考えて……けれど結局答えが出なかった。自由になって笑う君が見たいと思う一方で、ローザを失った後の生活を想像すると怖くてたまらなかった。私は自分勝手な人間だ。リガロのように剣才があるわけでも、バッカスのように何かを突き詰められるわけでも、アルガのように寄り添うことも出来ず、ただただ見ているしか出来ない私を愛して欲しいと思ってしまうんだ」

「スチュワート、王子……」

「こんなことを話した後で言うのも卑怯だと思うが、君が自由になることを望むのならすぐにでも離縁が出来るよう、陛下とも話がついている」


 そう告げて、スチュワート王子は胸元から折りたたまれた紙を取り出した。開いて確認すれば、それは王子と陛下のサインが書かれた離縁届だった。


「一日遅れてしまったが、誕生日おめでとう。幸せになってくれ」

 愛して欲しいと言いながら、悲しげに微笑む彼はローザが離縁届にサインすると確信しているようだった。ああ、なんて最低の誕生日なのだろう。こんな最悪なプレゼントは生まれて始めてだ。けれど、彼にこんなものを用意させてしまったのは他でもないローザである。

 こんなことになるのなら、昨日もいつものように逃げていれば良かった。そうすればまだもう少し彼と一緒に居られたのに……。いや、もう無理か。どんなに避けてもいずれローザの手にはこの紙切れがやってくることになっていたのだ。もう逃げられない。いつまでも逃げてばかりはいられない。今こそ彼と向き合うべきなのだ。小さく息を吐けば、頭にはイーディスの顔が浮かぶ。イーディスだけではない。バッカスにマリアとキース、それにリガロも。彼らはきっとローザが道を間違えても手を引いてくれるはずだ。彼らがいるから大丈夫。怖くない。そう自分に言い聞かせて、真っ直ぐとスチュワートを見据えた。そして彼の目の前で最悪なプレゼントを引き裂いた。


「何を!?」

「こんなもの必要ありませんわ。私はこれからもスチュワート王子の妻なのですから」

「だが……」

「今まで逃げてばかりいてごめんなさい。もし王子が私をまだ待っていてくれるなら、向き合って話す時間をいただけませんか」

「いい、のか?」

「といっても今はまだ天気の話題くらいしか浮かびませんが」

「ならこれから一緒に少しずつ増やしていこう」


 出会ってから二十年以上が経ち、結婚もして子どもだっている。

 それでも王子はローザのゆっくりな歩みに付き合おうとしてくれる。彼から伸ばされた手に甘え、ローザは自身の手を重ねる。


 いつか咲き誇るバラのように鮮やかな赤を語れる日が来ることを願いながら。

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