黒く咲く花
チャットの主は、サキさんだった。
――偉いよ――カズが見つけた子なだけある!
――恥ずかしいからって、いつまで昔の呼び方なんだよ!
『逃げて』
その一言を最後に、通知はなにも来ない。カズハの端末からいくら返信を送っても、既読の表示一つつこうとしない。
――これ、どういうこと?
彼女の様子を伺おうとしたところで、
「ごめん。私、二人を探すから、カレンは――」
「私も……! 私も、行く!」
カズハの言葉に、考える間もなく返していた。
「……来るの?」
「だ、だって、だって」
だって、あなたが行くなら――私だけ逃げたくない。
言葉に詰まった私の表情をずっと見つめていたカズハは、そんな私を察するよう、先んじて口を開いた。
「ありがとう。そしたら、すぐに着替えよっか」
「……うん」
口調も声も、一見すると普段と変わらないように映る彼女。
だけど、言葉尻に仄かな揺れが残る。
なにかを怖がるような、焦るような――その雰囲気に押し流されるよう、慌ててジャージを脱ぎ始めた。ジャケットを羽織って、ポケットのスマートフォンを握り締める。
出ると、外は少し冷えた臭気に包まれていた。
「サキさんとサノさん場所って」
「家は覚えてる。ついてきて」
そう言いながら、丘を駆け足で下るカズハ。
慌てて後を追いかける道半ば、不安を煽るように雲が暗い赤を落とし始めていた。
「はっ……はっ……!」
「車に乗るまでは走るけど、大丈夫?」
「うん……! きに、しな、いで……!」
車任せの体力不足と言いようのない焦りが、私の呼吸を荒くさせる。
滑り落ちるようにたどり着いたそこには、小さな駐車場がある。崩れたトイレの横、書かれていたはずの白線は消えて、私たちが使っている軽トラしかない。
汚れにまみれた車体に乗り込んでキーを掛けると、うなるようなエンジン音が響く。
「案内する」
「わ、わかった……!」
アクセルを踏み、公園を飛び出す。
煤けた窓、ダッシュボードに肘をついたカズハが目を凝らす。運転しつつ横目で確認する彼女の表情は、一見すると何ら変わらない落ち着きを持っているようにも思える。
「ここ、左。それで大通りに出たら、そのまま右折して」
「うん……!」
でも――私にはわかる。
きっと、平穏を装った彼女の表情の下には、吐き出せないくらいどろどろした感情を隠そうとしている。ただ、私みたいに不安のままに泣いたりしないだけ。
少し多いまばたき、噛むように隠す下唇。肘を載せた手を少しだけ強く握って、顎の下に置いている。
「このまままっすぐ、十分くらいしたら廃病院が見えてくるから、その近く」
「わ、わかった……!」
ひびの入った地面を、使い古したタイヤがぐんと回る。倒れ込むように崩れていた瓦礫を避けて、なるべくブレーキを踏まないようにしながらひた走る。
――『逃げて』って、どういうことですか。サキさん。
障害物にあくせくしながら進む道には、私にもわかる変化が徐々に表れ始めた。
沿道の光景に、私の口が開かれる。
「ねぇ、これって……変、だよね?」
「――そうだね」
ゲットーでは、少し俯瞰すればあちこちから煙が昇っている。それは私たちがやっている焚き火や、レイヴで広がっている炎、規模の大小を問わず点在する工場の排煙。灰色や茶色、黒色の煙が空に昇って、雲に混じって太陽を深く閉ざしているのは、この世界では普通の光景だ。
けれど、今沿道に見えているものは、それらとは明らかに様子を異なっている。
大小に差はあれど、濁った色の炎が不規則に点在して、黒く燻ぶった煙がじりじりと空へ揺らめいている。風のなすままに運ばれていくそれは、昇る高さに比例して空気へ溶けていく。
窓越しのそれを確認するように、一度だけ窓を下げたカズハ。けれど、少し顔を出したきり、すぐに窓を閉じる。エアコン設定を数度押した彼女の小声が、車内の風に混じって聞こえる。
「ごめん、私はだめだ。すごい臭う」
「んぅ……ほんとだ」
鼻をつく臭いは、運転席の私のところにまで届いた。
酸っぱくて、鼻の穴に張り付くようなそれは、ゲットーでよく嗅ぐ臭いな気がして――長い年月ここにいれば正体を知っているそれを、私ははっきりと言うことができなかった。
――多分、これって、さ……。
そう訊こうとした口を閉じて、彼女の指示を待っていると――その姿が遠目に映った。
「カズハ、あれ!」
私が声を上げるのと同時に、窓ガラス越しの人たちからも大きな声が発される。
「――あれ、カズ!?」
「カレンちゃんも! 二人とも、どうして」
「……二人とも、生きてる」
破けたシャツを着ながら、体のあちこちで血を流している彼ら。窓越しのくぐもった声に、カズハの声もほんの少し上ずった。慌てて車を停止すると、カズハが再び窓を開けた。
「二人とも、こっち!」
普段の彼女からは聞くことのないような、大きな声。それを聞いた二人は、近づいたところですぐに後部座席のドアを開ける。投げ出すように乗り入れたところで、カズハはハンドルを握ったままの私に声をかけた。
「私たちの家まで、出せそう?」
「うん、すぐ」
広い大通り、後ろを一度見遣っても、車が来る様子はない。
Uターンのためハンドルを切ったまま、思い切りアクセルを踏みつける。遠心力で振られる体、誰もいないのを確認して、べた踏みのまま車を走らせる。
車内で最初に聞こえたのは、サキさんのうめき声だった。
「うぅ……! いたい、いたいよ……!」
「サキ! 大丈夫、もう逃げられたから! 大丈夫!」
自分の外傷も気にせず、サキさんの脇腹を撫でるサノさん。二人の吐息は荒いまま、痛みを逃がすように細い呼吸を車内で続ける。
助手席から振り返ったカズハは、その呼吸が少し落ち着き始めたところで、やっと口を開いた。
「チャット見て、ただごとじゃないと思ったから。カレンにも、助けてもらって」
「ふーっ……カズ、カレンちゃん……ふーっ……ありがとう、ね……」
「いいの。それより、二人とも――どうしたの?」
血の臭いが混じり始める車内で、彼女の言葉は投げかけられたまま消えていく。バックミラー越しに後部座席を覗くと、憔悴した目を合わせた二人がアイコンタクトを数度取っている。
それで決まったのだろう。深く呼吸をしながら一度目を伏せたサノさんは、重々しく話し始めた。
「……『人間狩り』って言いだす集団が、急に北から現れて……俺たち以外のほとんどが、殺された」
「……『人間狩り』?」
「あぁ……マスクと、ヘルメットをして……みんな、アサルトライフル持ってた……それに、多分、だけど……」
赤黒くなった肩が痛むのか、一度歯を食いしばりながら顔が上を向く。肩で息をしながらそれを落ち着かせたサノさんは、振り絞るように言葉を再開した。
「多分、な……あいつらが……俺が話した『神隠し』の――正体だ」