最終話 マリア編
真っ暗だった。
目の前に広げた自分の手のひらでさえ見えない。代わりにあるのは黒で覆われた漆黒の闇だけだった。
私は死んだのだろうか。
最後に見たものは私の胸に突き刺さったナイフだった。しかし今は体の何処も痛くはない。
「ねぇ!誰かいないの!?ここはどこよ!ここから出して。何も見えないわ!ねぇ!」
ひたすら叫び続ける。どれくらいそうしていたのだろう。どんなに泣きわめいても相変わらず何の反応も無ければ何も見えない。ここがどこなのかも分からない。そうしているうちに今度は、真っ暗なこの空間に一人でいる事が不安で不安で仕方なくなる。いつまでここでこんな事をしなくてはいけないのか恐怖と不安で押し潰されそうになる。
ノアに裏切られた事、ずっと変わらずに愛情をくれていたルルドが私を過去の事と一蹴した事、狂ったあの男に刺された事、そのどれもが私の心をより一層重くしていった。
それでもどうにか泣き叫ぶ事で精神を保っている状態だった。疲れて眠ってしまえば、その間だけすべてを忘れて楽になれると思っていた。しかし、どんなに泣き叫んでも暴れても疲れる事はなく眠気が襲ってくる事はなかった。
そんな状態が続くと次は絶望感に覆われていった。何をしても意味がないと悟ると無気力になって、動く事をやめてしまった。真っ暗な空間で一人、膝を抱えて突っ伏していると声が聞こえた。
『…なんだ。もう終わりか。もっと泣け。絶叫しろ。狂ったように暴れろ。そうじゃないとつまらない。時間は無限にあるんだから。もっと俺を楽しませろ』
誰も居ないと思っていた真っ暗な空間に突然声が聞こえて、私は飛び上がるほど驚いた。
「あんた…誰?」
『俺が誰かって?散々お前の欲をかなえる為に協力してやっただろう?覚えていないとはいわせない』
「あんた…まさか。あの時私に力をくれた…」
『そうだ』
「ねぇ!ここはどこなの?どうして私はここにいるの!?」
『くだらない質問だな。そんな事を知ってどうする?』
嘲笑うような声だった。
「いいから早く教えなさいよ!」
『教えてやるよ。ここは俺が囚われている世界で、お前は俺の暇つぶしだ』
「私が暇つぶしですって!?」
『そうだ、もっと怒れ。そうじゃないと面白くない。……。もっと良い事を思いついた。これはきっと面白くなる』
「何をするつもりよ!」
『すぐに分かる』
そう声の主が言い終わると、私の意識は一瞬にして途絶えた。
目を覚ますと薄汚いベッドの上で寝ていた。じめっとしていてカビくさい部屋だった。
そんな状態にいても私は、光があって色が見える事に心の底から喜んでいた。あの空間から抜け出せた事に感謝さえしていた。これから私がどうなるかも知らずに。
「おい!いつまで寝ているんだ!!とっとと起きて仕事をしろ!客が待っているぞ」
乱暴にドアが開かれると、大柄でガッシリした体格の男が現れた。開口一番、私に怒鳴り声を飛ばす。
「え…?客…?」
「お前、ついに頭がイカれたか?ここは娼館だぞ?まあ、俺はお前が狂おうがどうでもいい。ベッドに縛り付けるまでだ。そうされたくはないだろう?だったら黙って従え。すぐに客をつれてくる」
「えっ…。ちょっ…ちょっと待って!」
男はそのまま部屋を出て行く。するとすぐに見知らぬ男が入れ替わり部屋に入ってきた。ベッドの上にいる私をなめるように見ていた。
それから日が傾く頃にはもう何人の相手をしたのかよく覚えていない。あちこち痛む体は鉛のように重く感じられた。
この日から私は、男達が欲を吐き出す為の道具としてひどくぞんざいに扱われた。名前はなく、番号だけで呼ばれた。そんな毎日が何日も続いたある時、ふと鏡を見ると私ではない顔がそこにあった。よく見るとその顔に見覚えがある事に気が付く。いつか奪った男の婚約者だった女の顔だ。名前も覚えていないほど興味がなかった女だった。
「嘘…」
私は唖然とした。何がどうなっているのか混乱する。
その女の姿のまま、元の姿に戻る事はなかった。そうして何度も季節が巡り、月日は流れた。
いつしか絶望と共に自分が自分ではなっていくような感覚に陥る。まるで他の人間の思念を共有しているようなそんな不思議な感覚だ。そうして自分が誰だったのか忘れかけた時だった。
「マリア…マリア…マリア。憎い。憎い…。憎い…」
気が付くと夜中にそう一人で呟いている自分がいた。私は狂いだしていた。しかし、そんな日々にも終わりが来た。突然やってきた騎士達に救われ、私は唐突に解放されたのだった。暖かく清潔な場所に移された時私は心から安心すると希望を見出す事ができた。しかしその瞬間、意識は急速に遠のいていった。
再び目を覚ますと今後は豪華で煌びやかな部屋にいた。私は高価なドレスを着て立っていた。
ここがどこなのか確かめようと動かした足元からジュラリと重たい金属の音がする。
咄嗟に足元を見ると、はめられた足輪から太い鎖が伸びている。
「なによ!これ…!」
鍵付きの足輪が着けられていた。私は驚いてしゃがみ込むと、それを外そうと必死にもがいた。
足輪を外す事に意識を向けていたせいで、部屋に誰かが入ってきた事にまったく気が付かなかった。 人の気配を感じて、咄嗟に振り向くと私のすぐ後ろには男が一人立っている。背が低い、小太りで醜い男だった。
恐ろしいほど無表情で私を見ている。手には皮の鞭があった。
男は突然、手に持っていたそれで私を激しく打ち始めた。何度も何度も激しく打たれ。激痛で気を失っても頭から大量の冷水をかけられて目を覚ます。そうして再び鞭打ちが始まり意識を失っては冷水をかけられる。それを何度も何度も繰り返した。
どれくらい続いただろう。やがて痛みはなくなり意識は朦朧としていた。私はこのまま死ぬのだろうと思ったが意識が消える事はなかった。そのままの状態で数日放置されても私はまだ生きていた。
私が眠っている間に誰か来たのか水が入った桶が無造作に床に置いてあった。喉が渇ききっていた私は犬のように四つん這いになってその水を貪って飲んだ。渇きが潤うと少し冷静になれた。
ふと桶に残った水が自分の顔を移すと違う女の顔がそこにあった。まただ。いつだったか、気まぐれに奪った男の恋人だ。女の名前はやはり憶えていない。
日に日に体力は失われ、体を起こしている気力もなく床でうずくまっているとカツカツと靴音をたてて数人のメイドがやってきた。そうして無表情で事務的に私を連れて行くとケガの治療を施される。
そうして再び豪華なドレスを着せられ私はまた鎖に繋がれた。
もう鎖を外そうとは思わなくなった。鎖に繋がれながら私は、たまに部屋を訪れる男達に玩具にされた。懸命に屈辱に耐えた。そんな日々を送り、そのまま長い時間が流れていく。その頃になると私は、もうすっかり意思を手放してしまっていた。人形のようにだらりと床に座り、何をされても無反応になった。
「マリア…。許さない…」
気が付けば虚ろな意識でそうボソリとつぶやいていた。
そうしてある日突然、部屋に突入してきた騎士達によって私は再び救われた。長い間つけられた足輪を外されて開放されると、私は再び意識を失った。
それからまた違う世界で目を覚ました。ひどく寒い場所だった。ここでは粗末で薄い服を着せられた。眠っている以外ずっと冷たい川の水で何かを洗い続ける日々だった。あかぎれで真っ赤になった手は治る事はなかった。
そこでも私は私ではなく別の女の顔だった。しかし最後には騎士達に救われる。そこで意識は失われ、また違う場所で目を覚ます。
何度も何度もそんな事を繰り返した。例外なくどの場所も苦しみの毎日を送り、そしてまた違う女の顔をしていた。次第に自我は失われ、別の人間の意識が私を支配していた。そうして決まって強く抱く感情はマリアという一人の女への憎しみだった。
私は最初に目覚めた薄汚いベッドの上にいた。そうしてまた男に怒鳴りつけられ、客の相手をする。同じ事を繰り返し、次の世界でも再び鎖で繋がれて鞭に打たれて同じ時を繰り返した。その次の世界もその次の世界も同様だった。
やがて私は理解した。この世界は私が邪魔になって蹴落とした女達の末路なのだろうと。
心の底から私は、マリアとして生きていた頃、自身が行っていた行為がどれほど罪深かったのかを理解した。満たされない心の空洞にいつもイライラしていた。自分が求めているものが何なのかよく分からなくてひたらすにもがいて苦しかった。だから幸せそうに見えたソフィアを妬んで何度も引きずり落そうとしていた。そんな事に躍起になっていた自分は愚かだった。それからの日々は蹴落とした彼女達に何度も何度も心から謝罪をした。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」
私はいつもそう呟くようになっていた。死のうとしても決して死ぬ事は出来なかった。
私の罪は許されない。このままこの地獄のループは永遠に続くのだろう。そう悟った。
何週目かの薄汚いベッドの上で目を覚ました時だった。しかし、いつものように男は怒鳴り込んでこない。いつもと違う展開に私はこれから何がおこるのかと恐ろしくて身構えていた。
ふと目の前が真っ白な霧に包まれる。次第に霧が晴れていくと視界がはっきりしてくる。私の目線の先には二人の男女が私を見下ろしながら愛おしそうに見ている。
「まぁ。お昼寝から起きたのね」
清潔で寝心地がいいマットの上にいるようだ。
無意識に伸ばした私の手はひどく小さかった。
体も思うように動かせない。ただ手足をバタバタとさせる事以外できないのだ。
今までと違う展開に酷く戸惑う。ここはどこだろうと辺りをみると、畳敷の広い和式の部屋だった。マリアとして生まれる前にいた世界にもあったものだ。状況が理解できずに固まっていると女性が心配そうにつぶやく
「この子どうしたのかしら…あなたのお母さんよ?いつもと反応が違うわ」
「そうだね…。すぐに父さんに見てもらおう」
「ええ、そうね。義父様は腕の良いお医者様だものね」
そうしてすぐに私の様子を見にやってきた白髪の男女は心配そうに私を見ている。
私が不安そうにしているのに気が付いたようだ。
「そう心配しなくていいよ。私達はお前のおじいちゃんとおばあちゃんだよ」
やさしい口調でそう私に話しかけてくる。どうやら二人は私の祖父と祖母らしい。
「お父さん。この子は大丈夫そうかな…」
話の流れからどうやらこちらは私の父のようだ。父と母が心配そうに私を見つめるなか、祖父は私の体に異常がないか丹念に見ていく。
「うん、大丈夫。異常はないようだね。少し様子を見てみよう」
「よかった。ありがとう、父さん」
心配そうに私を見つめる祖父の後ろにはりっぱな仏壇に写真が2枚立てかけてあった。一つは祖父によく似た顔立ちの男性。もう一つは若い綺麗な女性だった。そして古い木刀が一本立てかけてある。
私の視線の先に気が付いた祖父が話しかけてきた。
「あれはお前のひいおじいさんだよ。その横はひいおばあさんだよ。若い頃に事故で亡くなってしまったから写真は若いままなんだよ」
「ああ。じいさん。一昨年亡くなったんだよなぁ。もう少しで100歳の大台にのったのに。98歳でぽっくり逝くなんて。剣道の有段者で死ぬ直前まで元気に道場で生徒にバリバリ指導をしていたのに。でもまぁ良い顔で逝ったよな。とても穏やかな顔だった」
父は感慨深げにそう語る。
「それにあの木刀、懐かしいなぁ。あそこの縁側のすぐ横の庭で毎日欠かさず素振りをしていたんだよな」
そんな父の話を聞いていると玄関からバタバタと数人の騒がしい足音がする。
「ねぇ!赤ちゃん起きている!?」
子供達が私に駆け寄ってくると各々手に持っている花やら果物やら玩具なんかをたくさん私の目の前で見せる。
「あなた達、帰ってくるなり騒がしいわよ?落ち着きなさい!」
母が子供達を一喝するとみな一瞬動きを止めたものの私に次々と話しかけて来る。
どうやら私の姉と兄達の様だ。不安そうな顔の私に気が付くと彼らは、私を笑わせようと必死になっていた。
「ねぇ聞いてよ。おじいちゃんってさ、魔法使いになりたかったんだって」
兄が私に笑いながら話しかけてくる。
「ああ。そうだよ。だってかっこいいじゃないか。でもね、本当は魔法を使えるんだ。いいか?よく見てろよ?」
そういって祖父は魔法をかける真似をしてみせると、私の目の前で握った拳から赤い花を取り出す。
「わぁ!すごい!」
どっと歓声がわいて賑やかな声が響く。
不思議とうるさいとは思わなかった。気が付くと私はいつぶりかの笑顔で笑っていた。
「まぁ、やっと笑ってくれたわ」
母と父は安心したように笑顔を見せる。
「さぁ、少しお昼寝をしましょうね」
そういって私を抱き上げると母は、私の背中を優しくたたき始めた。
母の胸に耳を当てると心地の良いリズムで心臓の音が聞こえる。暖かくて心地よい。ここは安全で守られていると無条件で理解できた。
心のそこから暖かいもので満たされていくのを感じる。
そうだ。今やっと分かった。私が本当に望んでいたものはこれだった。
がやがやと騒がしくも心地よい喧騒を聞きながら、私は静かに眠りに落ちて行った。
完
これで完全完結とさせていただきます。長い間ありがとうございました。
いただいた感想を読ませていただきました。さまざまな感想をいただきご指摘いただいた箇所や改善すべき点など様々ご意見いただきました。自分の未熟さを猛省している次第です。
いただいたご指摘、反省を踏まえて時間が許せば、いつか改定版を作成したいと思っております。
また、貴重な時間を割いて長文での感想を書いていただいた方、暖かいお言葉をくださった方、応援してくださった方々、本当にありがとうございます。読んでいて思わず泣いてしまいました。
いただいた感想に一つ一つお返事をしたいのですが有難い事に数多くの感想をいただいており、お返事を書くとかなり時間がかかってしまいそうなので、この場を借りて感謝とお礼を申し上げます。
改めて私のこの物語を最後まで読んでいただいた事に感謝したします。ありがとうございました。
★新連載開始しました。楽しんでいただけたら幸いです。
タイトル 「ラブストーリーの片隅に切り捨てられた私達」
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