嫁、襲来
この会社にお盆休みという概念は無い。各々が好きな時に有給休暇を使って連休をとる。居室の在籍ボードを見ると、丁度お盆の一週間、課長だけが「有休」のマグネットを付けていた。そういえば、奥さんがこちらに来るとか言っていたような。
水曜日の晩、サンライズで飲まないかと課長に誘われ、呑みに行く事にした。無意識ストーカー神谷君の目にとまらなければいいなと思った。
駅からサンライズに向かう途中、意外な人物に遭遇した。神谷君と子安さんだ。
子安さんは神谷君の腕に絡み付き、頭一つ分背の高い彼に上目遣いで何やら話し掛けていたが、神谷君は先日の昼休みと同様に、苦虫をかみつぶしたような顔で相づちを打っているという印象だった。
神谷君は本当に子安さんを好いているのだろうか。本当に、好きな人に振られた腹いせというだけで付き合っているんだろうか。
だとしたら、誠意がなさ過ぎる。そんな神谷君を軽蔑する気持ちがあった。しかし人に打ち明けられないような恋愛をしている私が、何を言っても説得力が無いのは、火を見るより明らかだった。
サンライズに到着すると、まだ課長は来店していなかった。携帯メールで「あと3分ってところかな」とメールが着た。
同時に、窓越しに彼の姿が確認でき、カウンターから手を振った。彼も気づいて手を振り返した。
私はカルーアミルク、課長には黒ビールを先んじて注文した。ドリンクがサーブされると同時に課長が到着した。
スーツの上着を手に持ち、シャツの腕をまくり上げていた。
今まで気づかなかったが、肘に、長く伸びる縫合痕があった。肌の色が白いので、あまり目立たないが、長く、途中でクロスしている。野球をしていたと言っていた。きっと故障して治療でもしたのだろう。そう思った。
「あぁ、飲み物頼んでくれていたんだね。ありがとう」
ニコリとして頷く。
「もう僕は汗びっしょり。臭ったらごめん、すぐに言ってね。寮まで行って着替えて来るから」
「そんな、課長が臭いなんて事ないですよ。それも引っ括めて大好きな課長ですから」
そう言うと、課長は視界ゼロの細い目で微笑み、私の頭を撫でた。少し距離が縮まった彼の身体からは、シェービングフォームのような香りがした。
課長は椅子に腰掛け、グラスを合せた。カルーアの、痺れる様な甘さが喉を通過する。あぁ、生ビールが呑みたい。課長の黒生を見てそう思った。夏はやっぱりビールに限る。少なくとも炭酸が入っているお酒。次はカシスソーダにするか。
「お盆は、お休みされるんですね」
私はカルーアのグラスに入った氷が溶けて、動く様を見つめた。
「うん、言っていた通り、嫁がこっちに来るんだ」
「お子さんは?」
「子供は来ないよ」
私から視線を逸らした。何だか少し悲しげな顔になったように感じた。
実家にでも預けるんだろうか。まぁ子供を連れて横浜に来ても、連日「どこかに連れてってー」で課長も休息ができないのだろう。
「お二人でゆっくりなさって下さい」
思ってもいない事が実にすんなりと言える物だ、どの口がそんな事を言うのか。でも嘘が言えない人間なんてごく少数だ。
「ありがとう。沢城さんは本当に優しくて、暖かいね」
「夏だし、もう少し冷たい方が良いですか?」
そう言うと、眼鏡の奥の目が細くなり、口角があがった。「沢城さんは、そのままでいい」
初めて身体を繋いだあの日を含めて三回、セックスをした。
こんなに身体も心も自分の近くにいる課長が、他の女の夫である事実を、受け入れなければいけないと思いつつ、頭ではそれを強く拒否した。
「そういえばさっき駅前で、神谷君と彼女を見かけたよ」
ジョッキに入った黒生を煽った後、課長は口を開いた。
「腕を組んで歩いてた。僕は沢城さんとそういう事は出来ないから、ちょっと羨ましいね」
私の顔を見て微笑むので、私は頬を赤らめた。「そうですね」
「でも神谷君、全然幸せそうじゃないんです。好きな人に振られたから腹いせに付き合ってるとか言ってたし。誠実さの欠片も無いと言うか」
課長は黙ってジョッキから垂れる結露のしずくを見ていた。私はそのジョッキを持つ左手の甲の白さに見入っていた。日焼けしないのだろうか。
「見せつけようとしてるのかな」
「へ?」
「振られた相手に、見せつけたいんだよ。雄なんてそんな物だよ。プライドが高い生き物だからね」
課長の「雄」という表現が何だか可笑しくて、声を出して笑ってしまった。
「雄、ですか。良い表現です。私なら誰かに振られたら、きっと落ち込んで、三日ぐらい有休取って、家で寝込みます」
「女の子と雄の違いはそこにあるんじゃないかな。男が不貞寝なんてしてたら、格好悪いでしょ?」
「確かにそうですね」
カルーアのグラスを少し振ってみると、氷の音がしなくなった。
私はそれを呑み干し、「課長は何かお呑みになりますか?」と振った。
翌週から課長は夏休みに入った。
私たちは通常業務で、私自身、いつ夏休みを取るか、決めかねていた。
涼子は「どうせ家にいてもヒモと顔合わせてるだけだし、休み取るのやめようかな」と言っていた。
私もこれといって行きたいところもないし、一緒にどこかに行く仲間がいる訳でもないし、そう思うと有休など取らずに働いていれば良いか、と思う。
まぁ二、三日、休みを取ってちょっと家でゆっくりしようかな。
涼子に誘われて、駅ビルに新しく出来た沖縄料理のお店に行く事になった。
定時に仕事を終えて外に出ると、田舎のおばあちゃんの家で蝉採りをしていた時の様な、少し優しい風が吹いていた。太陽に照らされている桜の葉が、その暑さゆえに何か、緑の香りがする物質を放っているのか、そんな匂いがする。
まだ八月。気温は高く、冷房対策の為に肩から掛けていた薄い水色のカーディガンをすぐに鞄に仕舞った。
「お待たせー」お化粧直しを済ませた涼子が走って外へ出てきた。
二人きりでご飯を食べに行くなんて凄く久しぶりの事だ。
以前はよく二人でサンライズに呑みに行ったものだが、ここ最近は課長との約束を優先するために、誘われる前に素早く帰宅の準備をする。
「久々だねー、ご飯なんて」
「そうだねぇ。最後は五月?神谷君と三人でサンライズ行ったもんね」
「だねー。神谷君は彼女が出来たようだし、最近みどりは帰りが早いし、私はさみしいよ、うん」
よしよし、と私よりも背が高い彼女の頭に手を伸ばし、撫でた。
「そう言えば、この前駅前で神谷カップルを見かけたけど、相変わらず神谷君は冷たい態度を取ってたよ」
「神谷君、ドSなのかなぁ」
アハハと二人で顔を合わせて笑ってしまった。あれはプレイの一環なのか。
駅ビルに入ると、過剰に冷房が効いていて、肌にまとわりついていた湿気が一気に冷えていくのが感じられた。鞄から、さっきしまったばかりのカーディガンを取り出して、肩に掛けた。
「あ」
涼子が声を上げたので、彼女の視線の先を見た。
課長だった。背が高く整った顔立ちでとても目立つ。その横に立つのは涼子ぐらいの背丈がありそうな、スラリとした気の強そうな美しい女性だった。
写真で見るよりずっと綺麗、そう思った。
二人は腕を組んで、何やら楽しそうに話をしていた。夫婦と言うより、恋人同士だ。
私は涼子の腕を掴んでエスカレータの陰に隠れた。
「何、どうした?」
「いや、奥さんと腕組んでる所を部下に見られるのも気まずいだろうと思ってね」
彼らが通り過ぎるのを待った。あの写真で見たより髪が長く、存在感がある、女の私から見ても「素敵だ」と思える人だった。
私の気持ちを占めているのは完全に「嫉妬」だった。背伸びをしても届かない、悲しい女の嫉妬。
課長が言っていた「腕を組んで歩いてた。僕は沢城さんとそういう事は出来ないから、ちょっと羨ましいね」という言葉が頭に浮かんだ。
そうだよね、奥さんとなら出来るよね。人に見られたら困る関係じゃないもんね。私は二番目。分かってる。分かってるんだそんな事は。分かっていて付き合っているんだ。
頭では分かってるんだって――いつの間に、涙で視界が曇っていた。すぐに鞄からタオルハンカチを取り出して、汗を拭くふりをして涙を拭った。
涼子が見つけてくれた沖縄料理屋さんは、紅イモのコロッケがとても美味しくて、他にも美味しいチャンプルーがあったし、もずくだって美味しかった。なのに頭はからっぽで、せっかくの美味しい料理を「美味しいねぇー」と愛でながら食べる事が出来なかった。
涼子は「どうした?何かあった?」と心配してくれたが、さすがに課長の話は出来なかった。
「何でもないよ」
そう言ってサンピン茶を飲んだ。




