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常識人の神谷君

 出勤してきた神谷君が「おはよう」も言わず、私の頭をポンと叩いた。

「何?」

 極めてにこやかに殺気を送ると、神谷君は眠たげな目をへの字に曲げた間抜けな面で言った。

「壁に耳あり障子に目あり、って言ったよね、俺」

 何の事かはすぐに理解した。また勘付かれたか?見られたか?いつ?

 既に出勤している人が幾人もいる中でこの話を追及される訳にはいかないので、私の元から去ろうとする神谷君の鞄をグイと掴み「コーヒー飲みにおいで」と小声で睨みつけた。


 週末、いつも通りに神谷君はやって来た。

「ぴんぽんぴんぽーん」

 玄関に飛んで行く。

「ねぇ、もうそろそろそのネタやめて」

「分かりやすくで良いじゃん」

 靴を脱ぎながら人を小馬鹿にした様な目を向ける。スリッパを出してあげると「ありがと」と言って半分脱げたようにつっかけ、パタパタと大げさな音をさせながらリビングに入ってきた。

 まるで自宅に帰って来たかのようにソファにでんと座り、スリッパを脱ぎ、足をソファに乗せる。

「アイスコーヒー、砂糖多めミルク多めでお願いしまーす」

 ドリップして作り置きしてあるアイスコーヒーに、ガムシロップを二つと牛乳を入れ、コースターと一緒にテーブルに置く。氷がカランと甲高い音を立てた。

「はい、ご所望の品。で、何?障子からメアリーが覗いてたんだって?」

 うへへ、と薄気味悪い笑い方をし、「覗いていたんですぅ」と答えた。

「金曜日、俺さぁ、銀行に家賃を振り込みに行ったんだわ。目の前にDMGホテルってのがあるんだけどね、知ってる?」

 死んだ魚の様な目をして、嘲笑っている。あぁ、やっぱり――。どうしてこの人は、私の行動を先読みするように、そこに居合わせるんだろう。本当にストーカーなんだろうか。

「不倫はどうかと思うよ、俺は。常識人だからね」

「非常識人で悪かったなぁ」

 私は自分のアイスコーヒーとコースターを手にしてソファに座った。

 神谷君はコースターがあるのにも関わらず、コースターのない所にグラスを置いたので、すかさずコースターの上に置き直した。「常識人がこういうことしないのっ」と言ってやった。

 彼はソファの角に背中を凭せかけ、こちらを見ている。何だか居心地が悪い。三人掛けのソファを買って良かったと思った。少しでも距離があった方がいい。

「不倫だよ?所詮遊びだよ?いいの?そんなんで」

「不倫でも本気だよ、私は」

 仕方がないなぁとでも言いたげに、神谷君は眉根を寄せ、大きくため息を吐いた。

「『不倫で本気』っていう言葉がもう、破綻してんだよ。分かる?」

「何さ」

「不倫相手は戻る場所があるでしょが。沢城さんが幾ら本気でも、相手は本気になれないの。それとも何、奥さんと離婚するから結婚を前提に付き合ってくれとでも言われた?」

 そんな事は言われていない訳で、横浜にいる間だけでも恋人でいたいと言われた訳で。どうやって神谷久志を黙らせるか、頭を巡らせた。頭を冷やすために、アイスコーヒーを一口飲んだ。飲んだけれど、口から出る言葉は言い飽きた文言だった。

「言われてないよ。言われてないけど、こっちにいる間だけでも本気で付き合いたいって言われたの」

 暫くじろじろ見つめられた。神谷君の強い視線からなかなか逃れられない。

「沢城さん、それでいいの?終わりがある恋だよ?それでいいの?」

「いいの」

 即答すると、神谷君は唖然とした顔をした。その顔のまま、アイスコーヒーに口を運んだ。

「それでも、短い間でも、ちゃんと好きでいてくれるなら、それでいいの。私は課長の恋人でいたいの」

 唖然としていた顔を少し顰める様にして下を向き、首をかしげている。

「わっかんないなー。俺には分からん」

 そう言って手にしていたコーヒーをコースターの横に置いた。すかさず直した。

「別れる時を想像してごらんよ、辛いよ、きっと。相手は当然の如く奥さんの元に戻るけど、沢城さんは戻る所がないんだよ」

「何なの、何が言いたい訳?」

 私はいい加減イライラしてきた。いちいち的を射た「常識人」的な弁舌を並べ立ててくる神谷久志の意図が読めず、嫌気がさした。

「全て承知の上でこんな危ない橋渡ってんの。神谷君に何だかんだ言われる筋合いはない」

 少し言い過ぎたかなと思いつつ、言い放ってコーヒーを口にした。

 分が悪いせいで、彼の顔を直視できないのが悔しい。

「それに、今のうちから別れる時の事なんて想像しないよ。神谷君の言う通りかもしれないけど、恋愛を始める前から終わりの事なんて考えたら、恋なんて出来ない」

 私は神谷君とは正反対を向いて話をした。

「神谷式一般論だとね、『この人と別れる事なんて想像つかない』って人と付き合うのが普通だと思う。『別れる事が分かってる』なんて論外」

 いつまで経ってもこの会話は平行線を辿るだろうという事は容易に想像できた。

「もう一杯、用意しようか?」

「いや、もういいや。ありがとう」

 そう言って最後の一口をグイっと飲み干した。融けきらなかった氷がまたカランと音を立てた。

「それだけ課長に惚れてるっていう事だね。よく分かった」

 ぴんぽーんと元気よく部屋に入ってくる神谷久志はなりを潜め、今までに見た事が無いような陰のある顔で俯いたので、私は少し動揺した。いつものやる気のないあの目が、焦点を得ている。

 彼は何かを決意したかの様にすくっと立ち上がり「ごちそうさん」と言い、大きく伸びをした。

「俺はこれからもコーヒーを飲みに来てもいいのかね?」

「あ、うん。それは別にいいよ」

 それでも「姉がいる」と言った家に男を連れ込んでいる事は、課長には知られたくない。

「課長の前では言わないでね、コーヒー飲みに来てる事」

「沢城さんって、秘密ばっかり抱えて生きてるんだな」

 大変だね、そう言われ、返す言葉も無かった。

「ねぇ、今度来た時さぁ、ギター弾かせてよ」

「うん、いいよ」

 おし、帰ろ、とショルダーバッグを手に玄関へ向かった。

 私は見送りに後をついて行った。

「あの、何か、心配っつーか、何だろ、ごめんね。面倒な所見せちゃって」

「沢城さんがわざと見せつけた訳じゃないんだから仕方ないじゃん。ま、とにかく神谷君は常識人なので不倫には反対。以上。ではねー」

 そう言って玄関を出て行った。いつも通りエレベータに乗り込むまで見送ったが、いつもなら一言二言あるのに、この日は無言で背を向けたまま、エレベータホールから消えた。


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