第三十二話「選択」
【回収資料:最終アーカイブ】
媒体:未送信テキストファイル
発見場所:久世調査事務所内、主電源が遮断されたメインPCの隠しパーティション
ファイル名:final_reader.txt
作成日時:7月10日 03:17
作成者:不明(久世透の端末から作成されたが、その文体はもはや彼の個性を失っている)
親愛なる『読者』へ。
ここまで、よく読んでくれました。
膨大な記録、断片的なログ、他人の人生の残骸。それらを丁寧に拾い集め、あなたはここまで辿り着いた。
あなたは、きっとかなり真面目な人です。
物事をちゃんと理解しようとし、真実に価値を置き、倫理や正義について考えようとした。
だからこそ、この毒のような記録を最後まで読み通すことができた。
そして、あなたは今、気づいているはずです。
読み進めるうちに、心の奥底で小さく、けれど確かな『納得』が芽生えていることに。
人間関係に、心底疲れてしまうこと。
誰かと一緒にいるだけで、見えない何かに生命力を削り取られるような消耗を感じること。
スマートフォンの通知が光るたびに、喉の奥が詰まるような閉塞感を覚えること。
……それらはすべて、あなたが『弱い』からではありません。
生命として、あまりにも正常で、ありふれた反応です。
無理を強いる世界で、無理を続ければ、精神はいつか必ず壊れます。
だから、距離を置く。
自分を責める声を遮断し、静かな場所へ逃れる。
その選択自体に、何の罪も、間違いもありません。
問題は、ここからです。
あなたは今、この文章を読みながら「それでも、この考え方は危険だ」と警鐘を鳴らしたかもしれない。
あるいは、溜息と共に「少し、分かってしまう」と共感したかもしれない。
正直に言えば、どちらでも構わないのです。
重要なのは、あなたが既に、自分の中で『判断』という名の選別を始めているという事実です。
これまでの記録を見返してみてください。
そこに、あなたを無理やり従わせようとする『命令』が、一つでもあったでしょうか。
「関係を切れ」とはどこにも書かれていない。
「思想に従え」とも強要されていない。
ただ、あなたの心の隅にあった微かな違和感を、少しずつ肯定し、方向を揃えただけです。
人間という生き物は、他人に強制されたことには反発しますが、「自分で決めた」と思ったことに対しては、驚くほど強固で、無批判な行動を示します。
だから、誰もあなたを強制する必要はない。
あなたがあなた自身の理性によって、この『続き』を選び取るからです。
もし、ここまで読み終えたあなたが、
「少し、距離を置きたい」
「通知をすべて切りたい」
「誰の声も聞こえない、静かな場所へ行きたい」
そう、願ってしまったなら。
おめでとう。
あなたは今、自分の意思で、自分自身を選択しました。
もう、濁流のような他人の感情に流されることはありません。
あなたの世界は、これから劇的に『静か』になります。
◇
最終調査メモ:篠崎ミナ
もし……もしも、このファイルを読んで、心のどこかで「少し分かる」と思ってしまったなら。
お願いです。そこで、止まってください。
納得しないでください。
『正しい』と思わないでください。
それが、あの怪物が仕掛けた最後の、そして最も強力な罠です。
『正論』という皮を被った毒が、あなたの思考を溶かし、自分という形を失わせていく。
それが一番……一番、危ないんです。
私は、最後まで抵抗するつもりです。
たとえ、どれほど孤独になったとしても。
たとえ、世界中が静まり返ったとしても。
でも、先生はもう……
◇
画面には、何一つ音のない『ダークグリーン』の背景が映し出されている。
深夜三時を過ぎた吉祥寺の事務所。
椅子に座ったまま、久世透は動かない。
その手元にあるスマートフォンの通知は、すべてオフにされていた。
窓の外では、まだ降り始めてもいない雨の予感が、街を静かに濡らそうとしていた。
『次は、あなたの番です』




