第十話「深夜四時」
【警視庁高井戸警察署・失踪疑い事案捜査資料(写し)】
事案番号:高-72-A3
解析媒体:城西個人タクシー(車番:杉並500-あ-・・・・)車内ドライブレコーダー映像および音声、GPS運行ログ
日時:7月2日 04:03〜05:12
薄明が始まる前の、街が最も深く眠る午前四時。湿ったアスファルトをタイヤが滑る音だけが響く吉祥寺の路上で、そのタクシーは一台の『影』を拾った。
【車内前方向カメラ・車内広角カメラの解析】
04:03
タクシーが五日市街道から井の頭通りへと左折した直後、街灯の薄暗い光の中にたたずむ人影を検知。手を挙げるでもなく、ただ幽霊のように車道の端に立っていた女性が、ドアが開くと同時に滑り込むように後部座席へ乗車。
乗客の容貌・特徴:
年齢は20代半ばと推定。髪は乱れており、服装は薄手のスウェットにハーフパンツという、極端な部屋着(軽装)。しかし、最も異常だったのはその足元だった。
カメラの死角から覗く彼女の足は、左足が白いキャンバススニーカー、右足が紺色のベランダ用サンダルという、明らかに『まともな思考状態で外に出ていない』ことを示していた。だが、彼女の表情には焦燥も怯えも一切なく、ガラス細工のように無表情だった。
【車内集音マイク・音声データ】
(ウインカーのチカチカという規則的な機械音。エアコンの送風音)
運転手:「はい、お待たせしました。……どちらまで行かれますか?」
女性:「……静かな場所」
運転手:「え? ……あ、いや、具体的な駅名とか、住所とかを教えていただけますか?」
女性:「静かな場所なら、どこでもいいです。音が……何も聞こえない場所に、連れていってください」
運転手はバックミラー越しに女性の顔を伺った。薬物中毒者や、精神錯乱者のような狂乱は見られない。ただ、彼女の視線は手元のスマートフォンの画面に完全に固定されており、そこから漏れる淡い緑色の光が、彼女の生気を失った瞳を怪しく、不気味に照らし出していた。
運転手は深く関わることを避け、ひとまず車を走らせた。
彼女はスマートフォンの画面の中でうごめく『誰かの言葉』に導かれるように、東京の夜の底を、蜘蛛の糸に手繰り寄せられるように進んでいった。
【GPS運行ログおよび目的地の遷移データ】
04:11──井の頭通りを東進。
(車内音声:女性が「ここもうるさい」とつぶやき、ルート変更を要求)
04:19──環状七号線付近に到達。
(大型トラックのロードノイズや高架の遮音壁の反響音に対し、女性が露骨に呼吸を荒くする)
04:33──中央線高架下の側道へ。
(女性、頭を抱え「鉄の音がする、ここじゃない」と拒絶)
04:51──都心部とは真逆の方向、青梅・奥多摩方面の山間部(青梅街道西進)への進路変更を執拗に要求。
合計6回にわたる目的地の変更。それは、彼女が五感で感じ取る『世界のノイズ』から必死に逃れるための、盲目的な敗走だった。
【05:02・山間部へ向かう車内の記録】
周囲から民家の灯りが消え、暗黒の木々が窓の外を飛び去っていく。街灯の途切れた車内は、彼女のスマートフォンの青緑色の光だけで満たされていた。
運転手: 「お客さん、もうすぐ山道に入っちゃいますよ。本当にこの先でいいんですか? ……大丈夫ですか、体調悪いんじゃ……」
女性:「……最近、音が多すぎるんです」
運転手:「え?」
女性:「スマホの通知とか、ネットの書き込みとか、知らない人の声とか。朝から晩まで、耳を塞いでも、頭の真ん中まで誰かがドカドカ入ってくる感じがして……」
(十秒以上の、重苦しい沈黙。タイヤが砂利を噛む音だけが不穏に響く)
女性:「あの動画だけなんです。あのダークグリーンの髪の子だけが、『全部消していい、もう返事しなくていい』って、私を静かにしてくれるの。……でも、東京はどこにいても音がする。ここじゃない。もっと、静かな場所へ行かなきゃ」
05:12──
タクシーは、民家も自動販売機も一切存在しない、街灯すらない奥多摩の旧道沿いの山道途中で停車させられた。
朝もやが立ち込める杉林のなか、外気温は14度を指しており、スウェット一枚の彼女にとっては凍えるような寒さのはずだった。
女性は千円札を数枚、無言で助手席の隙間に押し込むと、ドアが開くと同時にふらりと車外へ降りた。
【ドライブレコーダー・後方カメラの最終映像】
車外は、深い夜の残滓と深い霧に包まれており、人間の視覚では一歩先も見通せない漆黒の闇だった。
しかし、女性はその闇を恐れる風でもなく、吸い寄せられるように、ガードレールの切れ目から山の斜面、獣道の奥へと歩みを進めていった。
彼女の顔は、手にしたスマートフォンの液晶から放たれる、狂気的なまでの『深い緑色の光』によって異様に白く、浮かび上がっていた。画面に映っていたのは、音声の消された、ダークグリーンの女の子のループ動画。
霧の向こうに消えていく彼女の背中は、寒さに震えることもなく、まるで我が家へ帰るかのように滑らかで、迷いがなかった。
【翌7月3日・高井戸警察署における運転手への事情聴取】
「……本当に、思い出すだけで鳥肌が止まらないんです。左右違う靴を履いて、山の中に消えていったんだから、どう見ても自殺志願者か、頭がおかしくなった人にしか見えないでしょう? でもね、警察官さん。怖かったのは、彼女の様子が変だったことじゃないんです。彼女、車を降りる直前、バックミラー越しに私と目が合ったんです。その時の顔が……信じられないくらい、綺麗で、穏やかな笑顔だったんですよ。長年タクシーをやっていれば、死にそうな顔をした客なんて何度も乗せています。でも彼女は違った。まるで、何年も苦しめられていた拷問から、ようやく解放された人みたいに、もの凄く、心底安心しきった顔をしていたんです。私は、止められませんでした。あんなに幸せそうな人間を、あのうるさい東京に連れ戻す権利なんて、自分にはないような気がしてしまったんです……」
女性は現在も行方不明のままであり、彼女のスマートフォンからは、下車した直後の時刻にすべての通信ログが途絶えている。




