episode5 【sideカイド】
リリーが、寝ている僕の頬にキスをした。
(落ち着け、一回落ち着こう。昨夜リリーは恐ろしい目にあった。だからきっと錯乱していたんだ)
弟子が異性の師匠に好意を抱く、といった現象はごくたまに起こると聞く。
リリーもきっと、若気の至りだといつか気付くだろう。
師として大きく構えていなければ。十歳の頃から見てきたんだ、そんな気持ちになるはずもない。
しばらく目をつぶったまま寝たふりを続けていると、扉が開き彼女が部屋を出て行く気配がした。
はあーっと深いため息を吐き、弟子の愚行に頭を抱えた。
唇の感触だけがやけに生々しく残り、その残滓をかき消すように頬を摩る。
「困ったことになったぞ……」
♢♢♢
どうするべきか考えあぐねていたが、思いのほかリリーはその後も普通だった。
こちらが肩透かしを食らった気分になるほどに。
「おはようカイド」
「……おはよう。よく眠れた?」
「カイドのいびきがうるさかったわ。やっぱり自分の部屋が一番ね。朝ごはんは?」
「あ、食べます」
リリーが作るサンドイッチは僕好みの味付けで美味しい。
ハムとレタスと、よく火を通した目玉焼き。それにたまにチーズも入る。
食べながら目の前の席に座っているリリーをちら、と見る。
まったくもって普段となんら変わりない。
(やっぱりあれは一時の気の迷いだったんだろう)
でも、時折頬に触れる柔らかさを感じることがあった。大抵、机で寝落ちした時だ。
目を覚ますと、いつもそばにリリーがいた。
「カイド、またこんなところで寝て!」
「……ああ、またうっかり」
(いやいやいや、リリー、僕を何歳だと思っているんだ?君より百近く長く生きているんだぞ)
だが、口うるさい弟子はいつも通りに僕に小言をこぼすだけだった。
♢♢♢
そんな歪な修行時代も終わりを迎え、リリーは晴れて魔法宮廷に入宮した。
彼女ももっと広い世界を見れば、こんなくたびれたおじさんのことなんてすぐに忘れるだろう。
だが、彼女は巨蟹宮を選択した。優秀な彼女にはいくつものスカウトがあったというのに、だ。
「リリー、こう言っちゃあれなんだけど、本当に巨蟹宮で良かったの?一番人気ないし、宮員も皆変わり者だよ。僕みたいにね!」
それとなく、リリーの真意を問いただした。
「アタシは優秀だからどこでもやっていけるの」
「それはそうだけど……」
「それに、あの日アタシはカイドに救われたから。アタシも誰かを守れる魔法使いになりたい」
その表情は、もう僕の知る幼い少女ではなかった。その頼もしさが誇らしくもあり、自分の手から巣立っていくような寂しさが胸の片隅を通り過ぎる。
「……そうだね!なにせリリーは僕の自慢の弟子で優秀な魔法使いだから、絶対になれるさ!」
違和感を飲み込んで、師匠らしい言葉を掛けた。これはきっと、娘を嫁に出すような、そんな喪失感だ。
そうだと、思いたかった。
♢♢♢
「リリーボレアって、カイドさんの奥さんみたいだよな。いっそ結婚したらどうだ?」
巨蟹宮に入宮してしばらく経った頃、研究室でそんな発言が飛び出した。
「はぁっ……!?」
「だって、いつも世話してるよな」
「身だしなみ整えたり、食事を運んだり、起こして部屋に帰らせたり」
「弟子だからって、面倒見良すぎるのだ」
リリーは顔を真っ赤にして震えていた。
マグカップの中の紅茶の水面はさざ波が立つほどに揺れている。
「おいおい、僕みたいなおじさん押し付けられたらリリーが可哀そうだろう。僕は頼りない師匠で、リリーは優秀な弟子。それだけさ」
「当たり前でしょ!?弟子のよしみで気を配ってあげてるだけ!誰がカイドみたいな生活能力皆無の研究馬鹿!」
「酷いよリリー!僕だって毎日一生懸命生きているのに!」
その場にいた宮員は噴き出して、「そりゃそうだよなあ」と口々に言った。
和やかな空気に変わったけれど、彼女は口を引き結んだまま半分怒ったような表情で頬を染めていた。
その日を境に、リリーは僕のことを「師匠」と呼ぶようになった。
僕も「リリー」と愛称で呼ぶことは無くなり、リリーボレアと呼ぶようになった。
いつまでも、子どもの頃のようにはいられない。
師弟でも男と女なのだから、疑われるような行動は慎まなくてはいけない。
これが本来の正しい距離感だ。
♢♢♢
呼び方は変わったけど、結局リリーは何かと僕の世話を焼いた。宮員も見慣れたのか、揶揄うこともなくなった。
あの子の為には、もう少し距離を取った方がいいのだろう。
「リリーは恋人とかは作らないの?」
「じゃあ恋人とデート出来るような時間を貰えるかしら」
どっぷりと日も暮れた春の宵。彼女の机には僕が溜めていた報告書が山積みになっていた。
「はは、申し訳ない」
「なんでこんなになるまで置いておくのよ!」
「だ、だって僕書類仕事苦手で……」
「ほら、これ早くサインして!あ、こっちなんか締切先月じゃない……もーっ!」
僕のせいである。
このままではリリーは婚期を逃しそうだ。
といっても、生涯独身で終える魔法使いも少なくはないのだが。
リリーはペンを止めることなく、書類と睨み合いながら呟いた。
「師匠は結婚しないの?」
「出来ると思う?」
「思わないわ」
即答に思わず苦笑する。
「失敬な。僕だって若い頃はモテたよ!まあ、いつも振られるんだけどね!」
そう、自分で言うのもなんだが、若い頃はモテた。顔の造形だけは良いからだ。
「研究に没頭すると他のことを忘れてしまうんだよね。彼女との待ち合わせに遅刻するのはいつものことで、デート中に上の空だったり約束を守れなかったり。数え上げればキリがないよ、羊皮紙三巻分くらいは書けそうだ」
『思っていたのと違った』
『浮気してんじゃないの?』
『研究と私どっちが大事なのよ!』
過去の恋人に言われた言葉ベストスリーだ。
いや、自分でも最低な男だという自負はある。なにせ来るもの拒まず、去るもの追わずだった。
ただ、僕の人生の比重は研究に傾いていて――彼女に割く時間があれば、魔導書を読んだり実験をしたかったのだ。
夜の行為の最中にも閃きがあって途中で終わった……なんてことは流石に黙っていよう。
一通り僕の過去の話を聞き終えると、ペンが走る音が止まった。
「ふぅん、見る目ないのね」
「だろう。僕を選ぶだなんて、本当にあの子たちは見る目がない」
「見る目がないのは師匠の方よ」
目を白黒させてリリーの顔を見つめれば、彼女も僕の瞳を真っ直ぐに見ていた。
「上辺じゃなくて、そんなカイドでも好きって言ってくれる子にすればいいのよ」
リリーの菫色の瞳が、見たこともないくらいに切実な揺れ方をしていた。思わず僕は目を逸らした。
「そ、そんな子いないだろう……」
「いるかもしれないわよ――世界中探せば、一人くらいはね」
もう一度リリーに視線を向けると、彼女はまた黙々と書類にペンを走らせていた。
研究室に響く、ペンの音。
時折紙が捲れ、書類をトントン、と揃える音がする。胸の奥で、鼓動が踊るように震えていた。
(……いや、何を考えているんだ。今のは僕を気遣ってくれただけだろう。リリーは優しい子だから)
湧き上がる気持ちを必死に押し込めた。
知られればもう今までと同じではいられない。
数日後、彼女が同じ年頃の魔法使いの青年と食堂で仲良く食事をしているのを見かけた。
僕は思わず、背を向けてその場から離れた。
(なんでだろう。嫌な気分だ)
舌が痺れるような苦味が広がっていく。
二人が笑って談笑している光景は、胸に爪を立てていった。
「いやいや……嘘だろ」
百近く年上の男が。
年下の女の子に――しかも弟子に恋をする?
笑えない冗談だ。
僕はあの子の師匠で、上司で。
それ以上になることは、けしてない。
そう自分に言い聞かせた。




