幕間:凜、卒業するのこと
幕間でございます。
ずっと真久郎目線で綴って来た物語を、今回初めて凜の視点で書いてみました。
いつもより少し短めです。
どうぞお楽しみください。
三月二十五日(木)
優香にとってこの日は今月最後の公休日にして給料日。
前々から計画していた通り、凜をショッピングに連れ出した。
行先は旭光堂百貨店だ。
「楽しみだねえ、凜ちゃん♪」
「……う~ん」
ウキウキの優香に比べ、明らかに気乗りしていない凜。
原因は言うまでもなく買い物の目的にある。
そろそろキッズブラは卒業しよう——そう優香が言ったのは卒業式の翌日。
実際胸が締め付けられて苦しいと言ったのは凜なのだが、本物のランジェリーへの移行となると二の足を踏んでしまう。
昨日の夜、優香がショップから貰って来たカタログを眺めながら、凜は何度もため息をついていた。
同年代くらいの女の子モデルが、満面の笑顔で下着姿を見せている。
凜とて女性用下着のカタログを見るのが初めてってわけじゃない。身も心も男の子だった頃は、こういうのを皆で見ては興奮していたものだ。
それが、まさか自分が着用する日が来ようとは。
「凜ちゃんスタイルいいから、きっと似合うよ~」
人の気も知らないで……。浮かれ騒ぐお姉ちゃんに、ちょっと腹を立てる凜。
百貨店五階のランジェリーショップ。
ここは大人用だけではなくジュニア用も扱っていて、専属のコンシェルジェがいる。親切丁寧に凜の相談に乗ってくれるだろう。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
優しそうなお姉さんの笑顔が恐ろしい。
「ほら凜ちゃん、覚悟を決めて?」
「初めて……と伺いましたが、デザインにご希望はございますか?」
凜は黙ったまま首を横に振った。
「では大人しめのものから選びましょうねえ」
試着室に入るのかと思ったら、椅子を勧められてあれこれ質問が始まった。
今は何を使っているか。どんな風にきついのか。肩こりはあるか。形や大きさの悩みは……。
凜にとっては取り調べか羞恥プレイのようなものだ。
「ではサイズを測りましょう」
コンシェルジェさんがメジャーを持って立ち上がり、凜を促した。
試着室に消える凜の後姿を、優香は黙って見送った。
思いのほか広い試着室。コンシェルジェさんの言いなりに上半身裸で立つ。
メジャーが巻き付けられ、凜は思わず「ひゃっ」と声を出してしまった。
(やば……変な声)
凜は焦ったが、コンシェルジェさんは特段反応せずに用紙に数字を書き込んでいる。
「七十八のB……少々お待ちくださいませ」
コンシェルジェさんは、少しして試着用のブラを持って戻って来た。
特に装飾のない、シンプルなデザイン。
(良かった。普通のやつだ)
どんなものを凜は想像していたのだろうか。
「早速着けてみましょう」
背中のホックを前で止めてから後ろへ回す——知識は持っていたけれど、実践するとなるとやはりカルチャーショックがデカい。
既に凜は表情を失っている。
コンシェルジェさんは凜の背後に回り、ストラップを調整してくれた。
「では少し整えましょうねえ」
(整える? 整えるって何!?)
凜の混乱などお構いなし、前屈みになるよう要求される。
コンシェルジェさんの温かい手が脇から脂肪を寄せ始めた。
(なに何なに? 何が始まるの?)
「成長期ですからね。脇に流れやすいんですよ」
(流れるって何? 胸ってそういうシステムなの?)
「こうやってお肉を集めて~」
(お肉って言うなー!)
「はい、完了です。いかがですか?」
正面の鏡に目をやった凜は、完全に言葉を失った。
言葉が口から出て来ないのではない。頭に浮かびさえしないのだ。
ウルトラマンならカラータイマーが鳴り始めるだろうと思われる頃。
ようやく凜の思考が動き始めた。
(おお、凄え……)
これである。まるっきり男の子の反応だった。しかし——
(これ……僕なの?)
スポブラの頃には存在を認識できなかった、くっきりとした谷間。
以前の僕なら涎垂らして喜んでいたに違いない、女の子の体。
でも……。
(僕……なんだよね)
鏡の中の少女と目が合った。
呆然というか、愕然というか。
反応できない凜をよそに、コンシェルジェさんが優香に声を掛けた。
「優香ちゃん、見てあげて」
「はいはい」
呼びかけに応じて優香がカーテンの隙間から顔を見せた。
「おお、いいじゃん」
「ねえ。カタチが凄くきれい。羨ましい」
「ちょっ! 見ないでよ!」
「いかがですか? きつくないですか?」
「は、はい」
「ではもう一つ試してみましょう」
コンシェルジェさんが試着室を出て行った。
鏡の中の自分から、凜は目を離せなかった。
試着室の中、上半身(ほぼ)裸でお姉ちゃんと二人。
恥ずかしさが募る。
毎晩のように一緒にお風呂に入っているんだけど……今のほうが恥ずかしいのは何故だろう。
「凜ちゃん。もうちゃんと女の子だねえ」
しみじみと、優香が言う。
凜は下唇を噛んで俯いた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「これ……もう、ずっとこれなの?」
優香はしばらく凜の顔(と胸)を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「はじめは恥ずかしいかもだけど、すぐ慣れるよ。私もそうだったから」
「お姉ちゃんも?」
「最初は鏡見るたびにびっくりしてた。でもそのうち当たり前になるの」
当たり前に、なる。
凜はもう一度鏡を見た。
(当たり前に……なるのか)
これが当たり前になるとは思えなかった。
当たり前になると思いたくなかった。
結局その日、凜は二枚のジュニアブラを購入した(お金を出したのは優香だが)
「一人でも着けられそうですか?」
コンシェルジェさんが最後に尋ねてきた。
「た……たぶん」
「練習してみてくださいね。最初は難しいですが、すぐ慣れますよ」
慣れる……か。慣れたくないなあ。
ロゴ入りの袋を持ってショップを後にする二人。
「お疲れさま」
そう言って優香が凜の頭を撫でる。
「……やめてよ、子供じゃないんだから」
「子供じゃないから、今日ここに来たんでしょ」
凜は黙った。
言い返せなかった。
少しお腹がすいた二人は、ワッフルが美味しいという二階の喫茶店に入った。
ここは紅茶の専門店でもある。
ポットで入れる紅茶、凜には初体験だ。
紅茶の香りとクリームの香りに、凜の機嫌も少しは直ったようだった。
生クリームとフルーツソースたっぷりのワッフルを口に運び、幸せそうな笑顔を見せる凜。
その笑顔を眺めながらダージリンを飲む優香。
ふと、凜がフォークを置いた。
足元の籠の中の、先ほど買ったばかりの荷物をしげしげと眺めている。
「どうしたん?」
優香が聞くと、凜はぽつりと言った。
「お兄ちゃん、こういうの好きかなあ?」
「ぶげほっ!」
飲みかけの紅茶が器官に入り、優香は盛大に噎せた。
咳が止まらない。
「ど……どうだろうねえ。ゆうかりんわかんなーい」
苦しげな息の下、辛うじて答える。
笑っているのか慌てているのか。
優香はいつまでも噎せ続けた。
その後優香は凜と揃いのスカートやら何やらを何点か購入し、帰宅した。
平日だから真久郎は当然まだ仕事中だ。
まだ十六時前。
凜は部屋に降りると、いつも通りの部屋着——柏木小学校の指定ジャージに着替えて戻って来た。
もうちょっと可愛い恰好をしてもいいんじゃない?
口に出しそうになった台詞を、優香は辛うじて飲み込んだ。何故なら、買ったばかりのブラを着けていることが一目でわかったからだ。
テーブルに飲み物を用意し、優香は夕食の準備に取り掛かる。
今日は鶏のから揚げにする予定だった。
十七時半を過ぎ、真久郎の帰宅を告げる車のエンジン音が聞こえた。
だが凜はソファーに座ったまま漫画を読んでいる。
いつもならバネ仕掛けのように玄関に向かうのに。
だが優香にはその理由も分かる気がする。
(さなぎは羽化するまでは動けないよね、うん)
「ただいまー」
真久郎がリビングに入って来た。
凜は一瞬だけ目を上げ、「おかえり」とだけ言って直ぐに漫画に戻った。
その凜を、真久郎はしばらく見つめていた。
優香には、ほんの少しだけ口許が弛んでいるように見えた。
凜の出迎えがないのは寂しいことだ。
だが真久郎は、凜に何があったかを優香から聞いている。
「凜ちゃん、テーブルに着いて。すぐにご飯だよ」
「あ~い」
立ち上がる凜と、見つめる真久郎。
いつもと同じジャージ姿。しかし何かが違う。
その違いを指摘するような、デリカシーに欠ける男ではなかった。
夕ご飯を終え、ひと時の寛ぎの時間。
真久郎は先日遂に入手したハードカバーの厚い本を読んでいる。
「兄ちゃん、何呼んでるの?」
「んー? 横田順彌の明治小説全集」
「面白いの?」
凜が手元を覗き込もうとして真久郎の背中に覆い被さった。
「あっ」
「あ……」
真久郎は背筋を伸ばし、凜は弾かれるように体を離した。
二人とも、顔が真っ赤だ。
「ぷっ(笑)」
偶然目撃した優香が吹き出す。
「凜ちゃん。早よシャワー浴びちゃって」
凜は答えず、そそくさと浴室に向かった。
水音が聞こえ出した頃、真久郎の硬直が解けた。
「……ああ驚いた」
「もう子供じゃないって思ったでしょ?」
「……うん」
「女の子はねえ、こうやって大人の階段登るものよ」
うんうんと頷きながらビールに手を伸ばす真久郎。
その横顔に浮かぶのは喜びなのか。
「どお? コーフンした?」
「しねえよ(笑)」
シャワーが終わった凜。
優香お姉ちゃんが決めたルールは「脱衣場を出る前にパジャマを着ること」だけど、凜は今夜もバスタオル一枚でリビングに戻る。
お兄ちゃんはこっちを見ない。
お姉ちゃんに怒られて、自分の部屋に降りる。
スタンドミラーの前に立ってバスタオルを放り投げる。
自分のハダカは見飽きたはずなのに、今夜は何か違って見える。
——何か、嫌だ。
両手で胸を隠してみる。
こんなこと、今まで一度もしたことがなかった。
鏡の中の少女と目が合い、思わず目を伏せる。
すると今度はくびれた腰が目に入り、更に目を逸らしてため息をついた。
今夜は眠れそうもなかった。
三月二十六日(金)
凜が目を覚ました時、家の中にはもう誰もいなかった。
時計は九時を回っている。
(昨夜は寝付けなかったから……)
心の中で言い訳しながら食パンをオーブントースターに入れ、目玉焼きを準備し、牛乳を温める。
留守番は慣れたものだ。
夏休みも冬休みも、長期の休みは週に四日は独りになる。
春休みは宿題がない。今日はどうやって時間を潰そうか。
お兄ちゃんからは、仕事中は緊急の用がない限りメールは控えるように言われている。
取り敢えず、おはようのメールを送っておく。
手持ちの動画と漫画は一通り履修してしまった。
お兄ちゃんの本棚——一般開放用は自由に読んでいいと言われているが、「風雲児たち」以外面白いものがない。
特に小説の方は分厚くて文字も小さくて、手に取る気にもなれない。
しかし——。
今はそれしかないのだ。
順に背表紙を眺める。
文庫本もあればハードカバーもある。
小松左京
星新一
横田順彌……これは昨日お兄ちゃんが読んでいたやつ。
坂井三郎
コナン・ドイル
ロバート・A・ハインライン
柳田邦夫
柳田邦男
三浦綾子
etc.etc.
歴史の解説書もたくさんある。
(お兄ちゃん、こういうのが好きなんだ)
大半が古本屋で購入したと言うだけあって、色褪せたり破れかけていたり、傷みが激しいものが多い。
そんな中で、凜の目を引いたのが「万葉集」だった。
名前は聞いたことがある。確か、古い和歌の本だ。
何巻も出ているうちの、お兄ちゃんが買ったのは第一巻だけらしい。
適当にパラパラとめくってみる。
案の定、何が何だか分からない。
(よくこんなの読めるなあ)
更にページを進めていくと、ある一首が目に留まった。
吾妹子に恋ひ乱れたり反転に懸けて縁せむとわが恋ひそめし
単に「妹」という文字に反応しただけかもしれない。が、なんだか凄い情熱を感じる。
読める気がしないのですぐに本棚に戻した。
次に注目したのは「源氏物語」だった。
凜でも光源氏だけは知っている。
「訳・与謝野晶子」とあるから、現代語になっているのだろう。
(これなら読めるかな?)
表紙をめくると、紙は新刊並みにきれいだ。きっとお兄ちゃんも買ったきり読んでいないに違いない。
(僕が先に読めば自慢できるかも)
そんな下心から読み進めていく。
意味の分からない単語がたくさん並んでいて、自分の語彙力の低さを思い知らされた。
時々居眠りしながら、それでも読み続ける。
何しろ他にすることがないのだ。
おやつやお昼ご飯を挟み、小春ちゃんや縁ちゃんとRINEで話しながら、お兄ちゃんが帰るまでに三分の一くらいは読み進めることができた。
真久郎が帰った時、テーブルの上にその源氏物語がまだ残っていた。
「ああ、読んだのか」
「うん。全然分からなかった」
「まあお子様には難しいかもな」
「そうやってすぐ子ども扱いする!」
怒りの連続パンチを浴びせる凜と、ゲラゲラ笑いながら逃げ回る真久郎。
「まあな、大学生か、高校生くらいになったら面白さも分かると思うよ」
「それじゃあ遅いんだって……」
「何て?」
「別にー」
お兄ちゃんの好きなものを今すぐ知りたいのに。
妹の心、兄知らずとはこのことか。
三月二十七日(土)
「行って来ます」
「「いってらっしゃーい」」
優香お姉ちゃんを送り出した後、お兄ちゃんは溜まっている家事に取り掛かる。
買い出しと一週間分のおかずの作り置き。
シーツやタオルケットといった大物の洗濯。
室内の清掃。
その合間に凜のおやつやお昼ご飯を用意するのだから、結構な忙しさだ。
凜も春休みに入ってからはお兄ちゃんの負担をこれ以上増やさないよう、自分で出来ることは自分でしようと思っている。
もう中学生になることだし、いつまでも甘えん坊ではいられない。
「おーい。洗濯するから、全部出しとけよー!」
上からお兄ちゃんの声が響いて来た。
お兄ちゃんはもう凜の部屋には入らない。シャツでも靴下でも、出し忘れたら洗ってもらえない。ただ——。
百均で買った洗濯ネットに入れた下着類を手に、凜は逡巡している。
——これは自分でこっそり洗おう。平日の、お兄ちゃんが帰る前に。
でも「何故洗濯物を出さないんだ」って怒られちゃうかな?
洗濯機が回っている間に、真久郎は床を掃除する。
カーペットの部分は掃除機、リノリウムとフローリングにはモップ。
トイレやバスルームも磨かねばならぬ。
玄関の掃き掃除も忘れてはならぬ。
洗濯機が止まれば洗ったものを干さねばならない。
優香も休みの日にやってくれてはいるが、三人分だから結構な量だ。一回では終わらない。
一応真久郎・優香・凜で分けるようにはしているが。
(おや?)
三回目、凜の分を洗おうとして真久郎は気が付いた。
ブラウスとセーター、デニムはあるが下着が入っていない。
(もう中学生だもんな。そうなるよな)
真久郎は何も言わず、スタートボタンを押した。
昼食の焼きそばを作る。
食べ終わったら弁当用の揚げ物と夕食用のおかずの下拵え。出来たものは冷凍ストッカーに保存。
この冷凍ストッカーは少し前にリサイクルショップで見つけたものだ。
ようやく一段落。三時のおやつの準備にかかる。
凜の熱烈なリクエストにより、今日は久し振りにパンケーキとウインナーコーヒーだ。
「おーい。おやつだぞー」
凜が階段を駆け上がって来る。
「やったー!」
たっぷりの生クリーム。真久郎は見ただけで既に胸焼けしそうだ。
凜の笑顔。
真久郎にとって、至福のひと時が過ぎて行く。
「あ、そうだ」
食べながら、真久郎は思い出したように言った。
「洗剤は洗濯機の上の棚にあるからな。使い過ぎるんじゃないぞ」
凜は顔を赤くして頷いた。
食器を片付けると、真久郎もやや眠気を覚える。今日の夕食は冷凍のカレーだから準備はいらない。
「俺ちょっと横になるわ」
体を投げ出すようにソファーベッドに横たわる真久郎。
「あ~……」
ため息とも深呼吸ともつかない声を出して、たちどころに眠りに落ちる。
やがて軽いいびきが聞こえ始めた。
お兄ちゃんが部屋に入らなくなったので、自分の部屋の掃除は自分でやる。
お昼ご飯が終わり、お兄ちゃんが料理に取り掛かったタイミングで掃除機を持ち込んだ。
今どきあまり見ない、紙パック式。結構重い。
(コードレスにしてくれないかなあ)
ぶつくさ言いながらコードを引っ張り出す。
床に散らばった本やおもちゃの類は午前中に片付けておいた——片付けたと言っても、机の上とクローゼットの中に分散移動させただけだが。
掃除機をかけ始めると、部屋の隅に溜まった綿埃が気になる。始めるととことんやってしまうところはお兄ちゃんそっくりだと思う。
掃除機を元通りに片づけ、再び部屋に籠る。
洗濯ネットとの睨めっこが始まった。
視線を落とすと、木曜日以来自己主張の強くなった胸元が目に入る。
洗濯ネットを放り出し、天井を見上げてため息……。
スマホが音を立てた。
RINEの通知——幽谷くんだ。
(あは、新刊買ったのか。新学期に見せてもらえるかな?)
(……新学期じゃなかった)
上からお兄ちゃんの呼ぶ声。
今日は凜のリクエストでパンケーキとウインナーコーヒー。
猛ダッシュで階段を駆け上がった。
生クリームどっさりのケーキをナイフで切っていると、お兄ちゃんが思い出したように言った。
「洗剤は洗濯機の上の棚にあるからな。使い過ぎるんじゃないぞ」
口にケーキを入れかけていたけれど、凜は硬直して赤面。
——バレてたー!
お兄ちゃん……何も今言わなくても……。
ちょっとだけ真久郎を恨む凜だった。
食器を片付けるとお兄ちゃんがお昼寝を始める。
これは休日の日課のようなものだ。起こさないように下へ戻ろうとした凜だったが、思い直して真久郎の横——寝顔を見つめる位置に腰を下ろした。
横向きで肘を枕にして眠る兄。
凜は黙ってそれを眺める。
なぜか涙が滲んできた。
慌てて目を擦る。泣く理由なんてない。
お兄ちゃんは元気だし、優香お姉ちゃんも元気だ。小学校を卒業しただけで、何一つ変わっていない。
なのに涙が止まらなかった。
真久郎を見つめ続ける。
不意に、凜はお兄ちゃんの頬に唇を付けた。
起こさないように、一秒間だけ、そっと……。
「ん~……」
真久郎が寝返りを打ち、仰向けになる。
ドキッとしたが、目を覚ましたわけではないようだ。
再び真久郎を見つめる。
いろいろな記憶が蘇って来る。
泣いていた時も。
笑っていた時も。
怒っていた時も。
いつだって僕の隣にはお兄ちゃんがいてくれた。
これから先も、ずっとそうだと思っていた。
いつかお兄ちゃんは優香お姉ちゃんと結婚してしまう。
それでも僕は一緒にいてもらえるだろうか。
お兄ちゃんが僕のことを必要としなくなって、もう妹ですらいられなくなるかもしれない。
その想像が、例えようもなく怖くなって。
そんな風に考えたら、もう自分を抑えられなくなって。
「お兄ちゃん……」
凜はのしかかるように、あるいはしがみ付くように真久郎に抱き着き、唇を押し付けた。
もう真久郎が目を覚ましても構わないとさえ思った。
粘膜同士の接触がしばらく続き、真久郎の両腕が凜の背中と後頭部に回った。
凜は離れようにも離れられない。
だが真久郎、起きたわけではないようだ。すぐに力が抜け、腕がだらりと垂れ下がった。
凜は立ち上がり、涙を拭い、一礼して自分の部屋に降りた。
——僕は妹だ。
——これからもずっと、お兄ちゃんの妹なんだ。
ハンガーラックに目をやれば、中学の制服とジャージ。
机の横には指定鞄。
凜は椅子に座り、机に突っ伏してお兄ちゃんから声を掛けられるまで泣き続けた。
(第一部・完)
如何でしたでしょうか。
本編を以て第1部:小学生編の完結とさせていただきます。
中学生編については近いうちに投稿したいと思っております。
お楽しみに。




