タイトル未定2026/08/17 08:07
一日の勤務が終りマスターは、駐輪場にいた。
自転車を、動かそうとした時だった。
「先生」
顔を上げると、目の前には桑名が立っていた。
「話があるんですけど、時間大丈夫ですか?」
「はい。話とは?」
桑名はマスターを見つめて、黙ったままでいた。
「……桑名さん?」
桑名の表情が少しずつ変わり、冷たい目つきになっていた。
「まさか、本当に先生だったとは」
「何を、言っているんですか?」
「先生が医師の駆け出しの頃、総合病院で勤務していた技師のさやかと言う女性と同棲していましたよね」
桑名は、揺るぎない確信を持って言った。
……なんで、さやかのことを知っているんだ?
マスターが疑問に思っていることを、桑名は察したように言った。
「俺はさやかと一緒に勤務をしていて、さやかは時々先生のことを話していました。ずっと想いを寄せていた先生に、近づけたこと。先生と、同棲したこと」
マスターがずっと黙ったまま、桑名の言葉を聞いていた。
「いつも明るいさやかが、ずっとふさぎ込んでいた。聞いても、無理に笑うだけだった。そんなある日、仕事が終わった後帰る時に、さやかを見かけた。さやかは泣いていた。理由を聞くと、先生が元カノと会っていた事実を知って、先生と別れたと言っていた」
「……さやかが、先輩に相談をしたと言っていたが」
「相談?さやかに、相談をされたことなんてない」
「さやかは、先輩に相談に乗ってもらって、先輩の所にいると言っていた」
「それは、さやかの最初で最後の強がりだ」
「強がり?」
「先生と一緒に過ごしたアパートを出た後、実家に戻り。実家から、勤務していた」
「さやかは、嘘をついて出て行ったのか」
「さやかを泣かした男って、どんな男なんだって思っていた。まさか……先生だったとはな」
「さやかは……今……」
「今も、変わらず技師として働いているよ。結婚したって、話は聞いていない。先生にとって、さやかはもう過去の女で今さらって感じだけど、先生が知らない所で、さやかが泣いたことを知ってほしかった」
そう言った桑名は、歩きだした。
一人になったマスターは、動けなくなっていた。
今まで記憶の片隅に閉じ込めていたものが、静かに浮かび上がった。
『七海は、もう自由だよ』
さやかはマスターにそう言うと、笑顔を残して、マスターの前から消えた。
数年前一度だけ、さやかは友人達とbar「ジェシカ」に訪れたことがあった。
『まだ、ここに勤めていたんだ』と、さやかは言った。
……嘘だ。ボクが変わらずここに居ることを知って、店に来たんだ。
マスターは、夜空を仰いだ。
……さやか、ずっと一人だったんだ。また、さやかが目の前に現れたら……。
不意に夜空が、歪んだ。
……ダメだ。これが、ボクの悪い癖だ……。
マスターは、背負っていた縦長の黒いリュックを下ろすと、携帯を出した。
携帯の待受画面に、流花が浮かぶ。
……流花、会いたい。声が聞きたい……。
マスターは、通話ボタンを押した。
コールがむなしく、鳴り続けるだけだった。
完




